第8話(ケロ幕)

会社の机で、俺はものすごく肝を冷やした。

ぎょわあぁとか、変な声が出てなかったか心配だ。ただでさえ遅刻ぎりぎりだったのに、あの嫌な上司にこのところ睨まれているから、なるべく大人しくしていなければならない。

そう。

あの後俺はエレベーターを降りて――カップルに怖がられたほかは、幸い誰ともすれ違わなかった――自分の部屋にたどりついたのだった。鼻血をなんとかとめて、血に汚れた寝巻きTシャツを気に入っていただけに名残惜しくゴミ箱へ見送って、ふと気付けばもう家を出るべき時間だった。慌ててスーツに着替えて適当に髭を剃って、冷や飯をかっこみ、電車に飛び乗り――会社でふと鞄を開けたら、一番上にどうしたことだかパンツが入っていたのである。

奴の、パンツだ。

俺が雑巾と間違えて持ってきてしまった、あいつのパンツ、だった。

洗って返そう大事に大事にと思っていて、しかも家を出る時焦っていたから、無意識に鞄へ突っ込んでしまったのだろう。

奴の下着が、俺の鞄の中にある。

なんだかちょっとおかしくて、更にそれ以外の理由からもにやけてしまいそうになり、急いで顔を引き締める。何が面白いんだとか訊かれても、理由は到底答えられない。替えのパンツを持ち歩いているとか思われるのも嫌だし、かといって俺のじゃありませんなんて弁解しても余計にまずいだろう。それより何より、俺はあいつのパンツを他人に見られるのがすごく嫌だ! なんというか、悔しい! 誰にも見せたくない!

とにかく、今日は絶対に持ち物検査とかありませんように、万が一でもこの鞄を持ったまま車に轢かれたりして中身探られたくない、などと考えながら、ひたすら地味な事務作業に没頭して定時まで粘った。

五時を三分過ぎた。この百八十秒を俺がどれだけじれったくカウントダウンしたことか。もう帰ろう。徹夜明けに事務作業はものすごく辛かったし、これ以上この可愛いパンツを職場に置いておくわけにはいかない。

俺は目立たぬようにパソコンを落とし、とにかく足早に会社を立ち去った。



帰り道で考えていたことは、とにかくパンツを洗わねばということだけだった。丁寧に、美しく洗ってやろう。やはり丁寧といえば、手揉み――いかん、また鼻血が出そうになってしまった。

昨夜一睡もしていないふわふわとした頭でとりとめもなく馬鹿なことばかり考えながら、普段あまり立ち寄らない駅ビルの薬局へ向かう。あまり寄らないくせにスタンプカードだけは持っている。そこで、いつもは絶対に買わない値段の柔軟剤を物色した。匂いサンプルを片っ端から嗅いでまわる。結局アロマなんたら柔軟剤の、ピュアホワイトブーケとか云うのが気に入ったからそれに決めた。

何故か達成感を覚えつつマンションに帰る。着替えもそこそこに俺は鞄から大切なパンツを取り出して洗濯機の底にそっと置いた。いつもの自分の服みたいに放り投げたんじゃない。丁重に置いたのだ。余計なものは何も入れず、そのパンツだけで洗濯機を回す。俺の服なんて余計なものを入れてついでみたいに洗っちゃいけないだろう。さすがに手揉み洗いは躊躇したので、押したことのない下洗い追加ボタンなんぞ使って、計二回まわした。ちゃんと買ってきたばかりの柔軟剤を加える。

ほどなくして甲高い電子音が俺にパンツの完成を伝えてきた。なんだかわくわくしつつ覗き込む。洗濯干しに挟んで吊ってやろうと広げて、ようやくパンツとじっくり対面した。それまではなんだか気恥ずかしくてまともに見ていなかったのだ。

洗濯ばさみで四箇所ほどをわざとのろのろ抓みながら、俺は無意識に丹念な観察をしてしまう。腰周りのゴムと、足ぐりの縁が紺色の、全体は白いボクサーパンツだ。あまり体格の差があるとは思っていなかったが、こうして見ると小っちゃいケツをしているように思う。俺が穿いたらたぶんピチピチ――。

ちょっとよからぬ方向に妄想が走りそうになって深呼吸をした。それはさすがにまずい。

ベランダに干す。夕焼けにパンツ。なんだか明日もいい天気になりそうだ。だがこんなところに無防備に干していて、もしも下着ドロが侵入してきたらどうしよう。

結局心配すぎて晩飯を一人寂しく食べながらも、ずっとベランダのパンツを観察していた俺だった。やはり夜ともなると心配だ。あとは部屋干しにしよう。柔軟剤が入ってるから、におわないはず。

皿を洗うのももどかしくベランダに出ると、夜風がけっこう気持ちよかった。しかも、気持ちがいいだけじゃなくて、いい匂いまでした。柔軟剤が香っているのだ。洗濯干しをカーテンリールに引っ掛ける時に顔が近づいた。やっぱりいい匂いがする。

部屋がいい匂いだった。な、なんか、ふわっと優しくて、甘くて、しかもピュアホワイト――そのうち奴の股間がこの匂いに包まれるかと思うと、なんだか鼓動が激しくなってくる。息が荒く、あいててて、Gパンきつい、あ、これ俺ちょっと――。

結局そのまま、ピュアホワイトブーケの誘惑に勝てず一発抜いてしまった俺である。

男のパンツの匂いで、しかもパンツ自体でもなく勝手に買ってきた柔軟剤の匂いで興奮して抜けるとか、どうなんだろう。さっきは変態の一歩手前で踏みとどまったと思ったが、もうこれは変態確定である。

しかし、恋する男なんてみんな変態じゃないのか。好きな奴の下着が自分のうちに干されてて、なんかいい匂いしたら絶対、みんなムラムラするだろう! 俺の場合はちょっと相手が特殊だっただけだ。

ここまで来たら、もう俺は変態として開き直るしかない。勢い余って無理矢理襲いかけたわけだし、もうバレたろうからいっそ積極的にモーションをかけていこう。

奴も何気に一瞬前を熱くしていた。触られれば勃つぐらいには、嫌悪感がないのだろう。押したらいけるかもしれない! 引いていける可能性はない! だったら押すしかないじゃないか!

とにかくパンツを返す時に、なんとか押しやすい――できれば押し倒しやすい雰囲気に持っていこう。

気がついたとき、俺は机に肘をついて笑っていた。

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