第5話
下宿先の長屋で、亜鉛板の大学ノートにびっしりと、寄稿する予定の小説を書いている。
大学を辞めたら、藤堂君、何か他に出来ることはあるのかいと同級に言われた。
他とは、文章を書く以外の建設的なという意味だろう。
酒も嗜んだことのない坊ちゃんの多いこと。
飲み比べて勝ったら見直していただきたいと酒に誘い、他校の先輩も含めて十数名に頭を下げさせた。
正確にはげーげー吐くのを眺めていたのだが。退学祝いは米というのが笑える。
僕は来る日も来る日も出版社と詩壇に掛け合って、漸く一ツ日報社と交渉し、毎日客員として書かせて貰う程度の収入は得たのだ。
下宿に移ってすぐ、坂垣が来た。茶封筒に入った金に意地を張って追い返すと、翌日大家が現れ、向こう半年分の下宿料を貰ったと言う。
結局受け取ったのと同じじゃないか。
――一ノ瀬はあれから全く音沙汰がない。
何度か屋敷の周りに足を運んだ。日本家屋の立ち並ぶ敷地で、そこだけ唯一、洋館である。
自分が住んでいたころとはまるで違い、訪ねる勇気は失せてしまった。
観劇の場所は把握してない。級友がヤレ呉服屋の坊が退学届けだけで消えたと聞かすので、家は出たのだと思う。
数週経ったある日の朝。
坂垣の奴が書籍の束を下宿に持ってきて、四畳半しかないその角に並べた。
更に持ち込んだ大工道具でもって、タンタントントン本棚を作り上げていく。
「頼んでないぞ」
「坊が頼みました」
「おまえ――――ボンの言うことなら何でも聞くのかい」
「まさか。辞職しろと言われたら路頭に迷います」
腑に落ちない。それ以外なら聞くのかと問えば、そこの釘を取ってくださいとはぐらかされた。
怒る家主の手に、和紙で包んだ何やら札束にしか見えないものを置くので、冷やとした。
(また金で解決するのか)
読みの早い男である。すがめた目をどのように解釈したのか、あれは羊羹ですよ、としれっとした。
「甘いものは駄目じゃないのか」
「餡蜜くらいでしたら」
「おまえじゃない――――」
口にしかけて黙った。
一ノ瀬はポテッとした可愛い顔の子供だったのに、昔から甘味の類が苦手なのだ。
ふと考えて、ご馳走になりそこねたトコロテンのことを思い出す。
――――嫌いなのに何故僕を誘ったんだ?
クスッと聞こえた方を見たが、坂垣は大工道具を車の背に乗せていて、広い背中しか見えなかった。
何なのだ。
振り返った顔はいつもの通り飄々としている。いっそ金づちで叩き割りたい。
あいつはどうしてるんだ、と一言聞けば済む話なのに。
坂垣が腰を叩き、何食わぬ顔でよそを見ながら言った。
「金かどうかとまだ疑うようなら、後で召し上がったら如何ですか。大変美味でした」
もうひとつ鞄から取り出して、僕の手に乗せる。自動車は来たときと同じく風のように去った。
羊羹の包みは、言われてみれば札束より重く分厚い。
下宿に戻ると家主もふうん、いい菓子だった赦すと気前よく笑う。見せて貰ったがやはり羊羹だ。
つまらない。
階段を駆け上がり部屋の中に戻って、畳に横になる。何を考えてるんだ。ただの羊羹で僕の機嫌が治ると思うのか。
独りで生きていくと決意するには長い時間がかかったのだ。
一ノ瀬は矢ッ張り辞めたのか。学生でなくなり他に道を選んだのか。
坂垣が来たのだ、それはないなと体ごとを飛び起きた。羊羹の包みを開ける。
ひょっとして書き置きとか、言づての切れ端などはないかと見たが、単なる羊羹の塊だった。少しまるかじりしたら確かに旨いがそれだけだ。
造り付けた本棚が気になり、乾きの早い糊部分に触れぬよう、本を並べていった。
また売ることになるのかもしれない。また買い戻せばいい。そう思っても慣れた本の匂いを嗅いでいると、一ノ瀬の家の香りを思い出す。
一ノ瀬自身のことを。
ぱらりと大きめの栞が落ちた。見覚えがない。ひょっとしてと期待をこめて慌てて拾うが、ただの押し花である。
なあんだと裏を見て、一寸黙った。唾を飲み込む。
恐る恐る袋の中の本をもう一冊取り出し、栞が入ってるのを見て確信した。
一冊一冊すべて開くのに、随分長くかかった。栞が増えるその都度、うう、とかああ、とかいいながら赤面した。
何でこんなことをするんだ。
何で口で言わないんだ。
数十を越える栞の山ができて、胸が苦しくなり、机の引き出しを開ける。
観劇の楽屋から持ってきた本であった。
いつ忍ばせたのか、気づいてもらえるよう強行に出たのか、本の間には直接その花が挟んである。
――――全て朝顔の花だ。
栞には一ノ瀬の字で、
私は貴方に結び付く、
と花言葉があった。
何十か数えようとして、ううむと唸る。あいつ何考えてるんだ。
本の分にはない。紙面に汁が移りこまないよう、油取りの紙で挟んであるそこに。
活字でも打ったような几帳面な字で、住所が書いてある。
気づかなかった。
どれだけ手間をかけたのだろう?時間をどれだけ使ったのか。
むずかゆい。恥ずかしい。
訳のわからない情に押されて、電報なり打つ金のあったらと、気が焦る。
まだ手元にあった羊羹を食べて、明日訪ねようかと思いを巡らせた。
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