第4話
楽屋裏とは名ばかりの、殺風景な場所で一ノ瀬を見つけた。
茶の上着は脱ぎ捨てて、シャツの上から黒い羽織りである。手持ちのヴァイオリンが一ノ瀬のお気に入りであることに気づいて、不可解なほど怒りが湧いた。
こいつは三ツか四ツから、長いこと楽器をやっている。特技といったらこれか、木彫りをすることくらいなのだ。
床に敷いた座布団に胡座をかいて、僕を見上げる。あれ。藤堂さん、何故来たんですと一ノ瀬は笑った。昔ならけらけら声を出しただろうに、微笑んでいるだけだ。
「見ててくれないと困るだろう。坂垣、さてはその一本で買収されたのかい」
坂垣は後ろの扉に背を置いて、よく教えてくれたと僕が与えた紙巻き煙草を旨そうにふかしている。いいえ、とだけ彼は答えた。
僕が首根っこを掴むと、一ノ瀬は流石に大きな身を小さくして抵抗した。
「ま、待ってください。次の回もある」
「何考えてるんだ!本は!」
もじもじと気持ちの悪い動きをするので、その頭を叩く。観念したのか口を開いた。
「古書屋が値切るので、今日中に金を作るから売らずに取り置けと言いました。途中参加で師匠に頭を下げたんですよ。夕方までやり終えたらかなりの金額に……」
僕は声を小さくして、耳元で囁いた。「いいか。僕は何時もそのやり方を通して来たがな。君、今日はそうはいかない話が待っているのさ」
一ノ瀬は目を丸くして、僕でなく坂垣を見た。坂垣は頷いたが、口は開かない。
まだ迷っていたが、僕の表情に気圧されたのか、一ノ瀬ははぁと溜め息を吐いた。
「家の金を使ったら怒るから、自分で稼いだのに」
「知ってるよ。木彫りの杖だの熊だの駅前で売ってたのも見たぞ」
「ちょっと考えすぎです。あれは人に貢ぐためでなく、自分のためで」
「今やってるのは何だ」
一ノ瀬は視線をさ迷わせ、指で服を弄ると溜め息を吐いた。ヴァイオリンを何度か撫でて、話し出すと長いですが、と前置きする。
「勘当されそうなんです」
「…………」
余りのことに返事を忘れて、いっそ殴ろうかと振り上げていた拳を降ろした。
一ノ瀬は指をばらっと広げて、数え始める。
「大学辞めるでしょう。慶應に移籍は僕の成績では無理だから、とりあえず下宿に住んで金を貯めたら英吉利にでも行こうかと思って、父の大事にしている写楽を売ったんですよ。二束三文だったけど」
カズ、そろそろだと老弁士が扉越しに叫び、僕と坂垣を睨みつけたが何も言わず去った。
坂垣はちょっと見てきますと席を外し、気を利かせたのか扉を閉める。
僕は呆れ返って声を嗄らした。
「家はともかく、店はどうするんだ。跡継ぎだろう」
「これからは呉服屋の時代じゃないもの。銀座にも百貨店というのがもっと出来ます。そもそも僕は一対一の客引きには向いてないのだから、従兄弟か甥かに任せてもいいと思って」
接客向きでないのは一ノ瀬自身が目立ってしまうからだ。彼は人当たりが優しかったが、卸し売りをするにも店の庇を守るのにも適さない。
「親父さんが君を帝大に入れたかったのはそこだ。卒業したら民間企業に就職させたかったんじゃないのか」
それはもっと無理だと父に話したけど、聞く耳を持たないのだと肩を竦めた。
僕はもう何から話してよいかわからず、勘当の理由と家族間の問題を連ねる一ノ瀬をただ見ているだけだった。
一ノ瀬は溜め息をついた。
「駄目だ。行くよ、本は僕が売りたくない。藤堂さん、坂垣に送らせるから」
さっと立ち上がり羽織りの帯を直そうとする腕に、指をかけた。袖の間から細い手首が出る。
机の黒眼鏡を取ろうとするのを遮った。
「一ノ瀬君」
「その呼び方は厭だと言いませんでしたか」
「僕をさん付けで呼ぶだろう」
「藤堂君と言ったら君は怒るじゃないの」
僕も家を出るのだ、と言った。
一ノ瀬は笑い飛ばすかと思ったが、やはり本心の読めぬ顔で頷いた。
「知っています。だから僕も決めたのだ」
一ノ瀬はやんわりと僕の腕を外し、茶杯を取って中の中身を灰皿に向け空けた。
濡れた手で髪の毛を全て後ろに流す。
柔らかな黒髪から緑茶の薫りがして、黒眼鏡をかけると誰かわからなくなった。
ヴァイオリンと台本らしき物を取り、外に出る。追おうとして躊躇い、机に足を引っ掛けた。
本が一冊落ちる。
一ノ瀬が初めて僕にくれた書籍だった。この一冊だけは身売りを免れたのか。さてあいつ、財布を持っているわけはない。坂垣に借りたのだろうと苦笑が洩れた。
見返しを開くと、几帳面な字で『寄贈 藤堂一 兄』と書いてある。
解らぬ情に圧され、表紙を撫でる。顔を上げると一ノ瀬はすでにいない。坂垣が代わりに立っていた。
「二幕は坊の自信作ですよ。素人にしてはなかなかのもんです。一ヶ月で舞台に立たせて貰った。ご覧になりますか」
僕は首を振った。
「帰るよ。送ってくれ――今夜中に下宿に移らなくてはならないんだ」
坂垣は何も返さず、僕が本を手に持ったままでも見て見ぬふりをしていた。
弁士の声が響き弦楽器が流れ、モダニズムには余り適さない場所で、金持ちの息子が働いている。
その道楽の作った金で本が戻っても、並べる本棚すら売り払ったのだ。家に戻ることを考えると、頭が痛む。
価値の重みも増した本を抱えて、僕は逃げるようにその場を後にした。
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