第2話「祭りの喧噪:迫り来る影」
祭り当日の朝、真田家は早くから活気に満ちていた。
「さくら、着物の帯はこうよ」
美倉が娘の着付けを手伝う。健太郎は荷物をまとめながら、時折時計を気にしている。
「お義父さん、準備は大丈夫ですか?」
健太郎が徳栄に声をかけた。縁側でくつろいでいた徳栄は、ゆっくりと立ち上がった。
「ああ、心配ないよ。わしの準備なんて、たいしたものじゃないからね」
徳栄は微笑みながら答えた。その姿は、いつもと変わらぬ穏やかさだった。
「ねえ、お父さん」
美倉が徳栄に寄り添った。
「若い頃は、よくお祭りに行ってらしたんですか?」
縁側に腰を下ろした徳栄の目が、遠くを見つめるように柔らかくなった。そこには、若かりし日の祭りの光景が浮かんでいるようだった。
「そうじゃなぁ……」
徳栄はゆっくりと口を開いた。その声には、懐かしさと温かみが溢れていた。
「わしが二十歳の頃かな。友達の太郎や次郎と、夜通し踊り明かしたもんじゃよ」
徳栄の表情が、少年のように輝いた。
「太鼓の音に合わせて、がむしゃらに踊ってな。足はパンパンになるし、喉はカラカラ。でも、みんなで声を掛け合って、『もう一曲!』って踊り続けたんじゃ」
美倉と健太郎は、普段あまり多くを語らない徳栄の様子に、静かに耳を傾けていた。さくらは目を輝かせ、おじいちゃんの若い頃の姿を想像しているようだった。
「それに、屋台の食べ物と言ったら……」
徳栄は口元を緩め、まるで当時の味を思い出すかのように唇を舐めた。
「焼きそばの香ばしい匂い、たこ焼きの熱さにふーふー言いながら頬張る。それに、綿あめだ。ふわっふわで、口の中でとろけるような……」
徳栄の語る言葉一つ一つが、まるで絵筆のように鮮やかな祭りの光景を描き出していく。家族の目の前に、若き日の徳栄と彼の友人たちが、祭りを楽しむ姿が浮かび上がるようだった。
「ああ、そうそう。花火もきれいじゃった。夜空に大輪の花が咲くようでな。みんなで『おお~!』って歓声を上げたもんさ」
徳栄の目が、懐かしさで潤んでいるようにも見えた。しかし、彼の語りの中に、合気道や武術の話は一切出てこない。それは、まるで意図的に避けているかのようだった。
「へぇ、おじいちゃんも若い時はそんなに楽しんでたんだ!」
さくらが目を輝かせて聞き入る。徳栄は優しく孫の頭を撫でた。
「そうじゃ。今日はさくらと一緒に楽しもうな」
徳栄の声には、若き日の思い出と、今日これから始まる新しい思い出への期待が込められていた。そして、その穏やかな笑顔の奥に、何か言葉にできない深い感情が隠されているようにも見えた。
準備が整い、一家は祭り会場へと向かった。道中、さくらは興奮気味に跳ねるように歩く。徳栄はその姿を見守りながら、ゆっくりと歩を進めた。
祭り会場に到着すると、にぎやかな雰囲気が一行を包み込んだ。色とりどりの屋台、笑顔で歩く人々、祭りの音楽……全てが活気に満ちていた。
「わぁ、すごい!」
さくらは目を輝かせた。徳栄は穏やかに微笑みながら、孫の手を優しく握った。
「さあ、行ってみようか」
さくらは友達を見つけると、徳栄の元を離れて遊び始めた。徳栄は少し離れた場所から、穏やかにさくらを見守っていた。
「お父さん、少し休みませんか?」
美倉が徳栄に声をかけた。
「ああ、そうさせてもらおうかな」
徳栄は近くのベンチに腰を下ろした。そこから見える祭りの光景は、まるで絵画のように美しかった。徳栄は穏やかな表情で、その景色を眺めていた。
突如、轟音が響き渡った。
「なっ……!?」
徳栄の目が鋭く光った。その瞬間、祭り会場は阿鼻叫喚の場と化した。
人々の悲鳴が響き渡る中、徳栄はすぐさま立ち上がった。その動作は、これまでの穏やかな様子からは想像もつかないほど素早かった。
「美倉、健太郎! さくらはどこじゃ?」
徳栄の声には、いつもの柔和さはなかった。
「さ、さくらは……」
美倉が震える声で答えようとした時、再び爆発音が鳴り響いた。
「くっ……」
徳栄の表情が一瞬厳しくなる。しかし、すぐに冷静さを取り戻した。
「落ち着くんじゃ。まずは安全な場所に移動するぞ」
徳栄は家族を導きながら、周囲の状況を素早く確認していた。その目は、ただの老人のものとは思えないほど鋭い光を宿していた。
パニックに陥った群衆が押し寄せる中、徳栄は的確に人々をかわしながら、家族を安全な場所へと導いていく。その動きは、まるで水が流れるかのように滑らかだった。
「お義父さん、なんで、こんなに……」
健太郎が驚きの声を上げる。しかし徳栄は、それには答えず、周囲を警戒し続けていた。
混乱の中、警察のサイレンが聞こえ始めた。しかし、それと同時に、別の不穏な気配が近づいてくるのを徳栄は感じ取っていた。
「これは……」
徳栄の目が、ある一点に釘付けになる。そこには、黒づくめの男たちの姿があった。
「愚連隊……いや、テロリストか……」
徳栄は小さくつぶやいた。その瞬間、彼の中で何かが変わった。穏やかな老人の仮面が剥がれ落ちた。
「美倉、健太郎、ここを動くんじゃないぞ。わしが様子を見てくる」
「え? お父さん、危ないですよ!」
美倉が徳栄の腕を掴もうとしたが、徳栄はすでに人混みの中に姿を消していた。その背中は、もはや年老いた父親のものではなく、何か大きな力を秘めた者のもののように見えた。
◆
「動くな! 誰も動くな!」
祭りの中心である広場に武装した屈強な男たちが多数押し寄せていた。
リーダーと思しき男が部下たちに的確に指示を出していく。
リーダーである黒川の怒鳴り声が祭り会場に響き渡る。彼の部下たちは素早く動き、老若男女問わず、多くの人々を取り囲んでいった。
「お願い、私たちを解放して!」
「何の冗談だ、これは!」
「子供たちを逃がして!」
人質となった者たちの悲鳴と懇願が飛び交う中、黒川は高台に上がり、冷酷な目で群衆を見下ろした。彼は大声で犯行声明を述べ始めた。
「諸君、聞け! 我々は"漆黒の刃(しっこくのやいば)"だ。この腐敗した社会に鉄槌を下すために、ここに集まった。政府は民を顧みず、企業は利益のみを追求する。そんな世の中に、我々は断固として"ノー"を突きつける!」
黒川の声は、恐怖に包まれた祭り会場に響き渡った。
「我々の要求はシンプルだ。すべての政治家と大企業の幹部は、即刻その座を降りろ。そして、国民のために働く意思のある者たちに、その座を譲れ。もし我々の要求が24時間以内に受け入れられなければ、ここにいる人質たちの命は保証しない」
黒川の言葉に、さらなる恐怖の波が人質たちを襲った。泣き叫ぶ子供たち、震える老人たち、そして必死に冷静さを保とうとする大人たち。その光景は、まさに地獄絵図だった。
「我々の正義は、必ず勝利する。さあ、政府よ、選択をしろ!」
黒川の演説が終わると同時に、警察のサイレンが遠くから聞こえ始めた。しかし、人質の安全を考慮し、警察も即座の行動には出られない。
その混乱の中、徳栄の鋭い眼光が人質の群れの中にさくらの姿を捉えた。
「老いても、守るべきものがあれば人は動かねばならぬ……」
徳栄は静かにつぶやき、ゆっくりと立ち上がった。その姿は、もはや非力な老人のものではなく、かつての威厳を漂わせていた。
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