第14話

 憂鬱で心が塞いでいた。目を覚ますと、雨が降っているようで、ざあという雨音がぼんやりとして空っぽの頭に響いた。拓人は起きあがった。ご飯の炊けた香りがする。


「拓人起きなさい。学校に遅刻するわよ」

「もう起きているよ」


 居間に顔を出すと、有紗が笑って給しした。ご飯の上に卵と醤油をたらし、混ぜる。拓人は昨日暴れた手前、気まずくて、姉の様子をうかがう。何にも困ったことはないというように姉は薄ら笑いを浮かべ、ご機嫌に鼻歌など歌っている。


 自分は許されたのだ。


 ご飯を食べると、拓人は姉と学校へ向かう。

 雨の中、傘を差して姉と二人歩いていると、雨音に隠すように姉が何かぼそっと言った。


「死んじゃおうか」


 そう言ったように聞こえて、拓人は思わずぎょっとして姉を振り仰いだ。姉の顔色は傘に隠れて見えなかった。だから、どんなに悲しそうな顔をしているかわからない。しかも、そんなこと言っていないというような素知らぬ顔をしているかもわからない。なんだって? そう言えばいいのに、拓人は聞けなかった。怖かったもう一度同じことを言われるのが。拓人は弟だ。だから姉に甘える。しかし、姉から甘えられたとき、どう動くのか兄貴ぶんのような考えは持たなかった。


 学校の傘おきに雨滴を振り落とした傘をおくと、下駄箱で靴をはきかえ、拓人は姉にじゃあとだけ言って、顔も見ずに走って教室に行った。


 教室にはいると、新太が教室の隅の学級図書のおいている所にたって、拓人をちらりとみて、二人は目があった。最後に別れたときの事件を思い出し、拓人は少々息苦しい心地になった。見張りをまかされたあの日、新太にバイトを持ちかけた先輩とやらは絶対有紗を屈辱するのに荷担していたはずだ。いわば敵と交流を持っている新太に拓人は不信感を抱いた。しかし、新太は拓人に親しげに手を挙げて挨拶したので、腹立つ気持ちを抱えながらも、友の前に拓人は進み出た。


「この間はバイト中にもかかわらず君に勝手な行動をされて困ったよ。先輩に厳しい目でにらまれてつらかった」

 拓人はあのときの暴力的な事件を思いだし、先輩先輩と慕うようにいう新太に反感を持った。


「強姦の見張りなんて……」


 あのときの被害者は姉なのだとはさすがにいえなかった。どういうわけか、それをいうのはすごく恥ずかしいことに思えた。


「君はそんなあくどいことをする人だったのかい」拓人は信じられないと言うように軽蔑を込めて新太をみやった。

「何をだい。俺がしたのはみはりだけだ」

「あのとき、……女の人が辱めをうけたんだ」

「へえ」

「へえとはなんだ」

「女というのは男の精を受け止めるために作られているんだ。あの体をお前もみただろう。パンティのしたに穴をあけてさ。いれてくれっていうのさ。女の体は男が好きになぶれるようにつくられているんだ。だから、僕は女が男にやられたと知っても当たり前のことが起こったとしかおもわないね。いわば磁石さ。すっぽりはめこむのに丁度いい」

「馬鹿か。貴様」

「ああ、俺は頭が悪いさ」

 新太は話がうけたとおもってクスクス笑った。

「不愉快だ」

「おいおいマジで言っているのか。たかが女がきもちよくなったってだけのはなしで」

 拓人は目頭がかっと熱くなった。怒りが腹の中で煮えたぎる。


 あれは僕の姉だったんだ。姉が男のおもちゃにされて、尊厳を踏みにじられたのだ。そう思うと、姉を汚した奴らに憎しみがわいてくる。


「正義感にかられて女を守る自分に酔っているのかもしれないけどな、こいつをみたいと思わないのか」

 新太はそういいながら、スマホをふってみせた。


「なんだ」

「例の事件の動画がある」

「あの日のか」

「幸せの分け前だ」


 拓人は深い怒りとともに、知りたい欲にかられた。自分が気絶していた間に何が起こっていたのか。見たくないのにみないといけない知らないといけないそう思った。そうしないと姉が浮かばれない。それを見ることで姉の傷口に近づけ、深く姉を思いやられる気がした。


「見せろ」

「いいだろう。どうせ、もういろんな所に動画が回っている。こんなにいいものだ。遅かれ早かれ君は見るだろう」


 その小さな画面に映し出されたのは、男たちに羽交い締めにされて足を広げされた少女が、男の逸物を受け入れて、身をよじっている動画だった。拓人は吐き気がした。その少女とは姉で、男たちにおもしろい目で見られている、馬鹿な見せ物。無邪気に遊ぶ幼児になぶられているか弱い小動物。


「話に聞くとこの女は処女じゃなくてな、やりまんらしいぞ」

 新太はおもしろそうに口の奥でくくと笑った。


 重傷だ。重傷だ。拓人は恐ろしくてめまいがした。僕の家族は汚れている。僕自身も勉強を放棄し、家族を救うことから逃げたくず。

 できそこないだ。




 どんな顔をして姉に会えばいいだろう。

 学校から家に帰ると、姉はまだ帰っていなくて、父だけが横になって寝ていた。拓人はふすまをあけて隣の部屋で寝ている父の姿をぼんやり見つめながら、頭の中では数人にいたぶられている姉の映像がまだ流れていた。それは苦痛を伴って拓人の胸にしみこんだ。なんて言えばいいだろうか。知らん顔をしたほうがいいだろうか。いや、なんだよ知らん顔って。そうだ。いつも有紗は一人で頑張ってきたんだ。この家に必要なお金だって、姉が稼いできたのだ。自分の体をはって。それなのに、知らん顔をしているというのはどういうことか。自分が情けない。助けてやる、もうやめろってどうして言えないのだろう。僕だって働いてかせぐべきだ。僕なら男だから力仕事だってできるのだ。大人に混じって働けば生活費くらいすぐかせげるさ。年齢が若いなら新聞配達をすればいい。


「ただいま」


 玄関の扉が開く音がした。姉の帰宅である。拓人はどきりと心臓が激しく痛んだ。どの表情をとろうかと顔面の筋肉がうごうごと蠢く。姉が居間に入ってくると、拓人は不自然に首を曲げて、姉をみた。


「お、おかえんなさい……」

 引き絞ったような妙にしゃがれた小さな声がでた。

「拓ちゃんどうしたの? そんなにじろじろみて」

「なんでもないよ」

「何? 言いなさい。なにか言いたいんでしょ。正直に言って」

 姉に詰め寄られると、拓人は泣きそうな嫌な顔をして顔を背けた。

「何よ、変よ。拓ちゃん?」

「僕、やっぱり働くよ……」

「え?」

「だからお姉ちゃんは働かなくて良いから。もう僕が全部やるから。本気だよ。もういいんだ」

 そういって姉に背を向けて、こらえきれなかった涙を拓人はこぼした。泣くつもりなんてなかったのに、変に感動して涙が出たのだ。何に感動したというのだろう。けなげにがんばろうとする自分にか、それとも何事もなかった顔をして、ただいまと帰ってきた姉の気丈さにか。


 しかしながら、有紗は、ふるえている弟の背中をみて、どうやら泣いていると知った。


「どうしてそういう事言うの?」


「家族なんだから知らんぷりできないだろう。もう医者になんかならないんだ。勉強しない時間が増えた分働くんだ」


 医者にならないこと。ずっと弟を医者にすることだけに苦しいことも耐えてがんばってこれたのだ。目標を失った今、有紗は妙に空虚な場所に立っている心地がした。体が後ろに倒れそうになって足で踏ん張る。


「そう、やめるのね。お医者にはならないのね」

「前にも言ったでしょう。僕は勉強なんてできやしないんだから」

「そう、そうなの」


 外をぶーんと車が走って通り過ぎる音がした。いつもなら気にならないのに、静寂が落ちた家の中では、その車の音が嫌に響いて聞こえた。


「でもね、がんばったら……」

「無理なんだって! できないんだって! 頑張るとそんな問題じゃない。どう頑張っても僕は才能がないんだ! こんなに馬鹿で阿呆なのにどうして偉い医者になんてなれるんだよ!? 嫌なんだよ、もうっ」

 思わず、拓人は声を荒げた。急に怒ったことを取り繕うように、

「無理なんだって……お姉ちゃんだって今のままじゃうまくないって思うだろう?」

 と、今度は優しく弱々しい声で静かに言った。

「今のままって?」

「なんでもないさ」

「ごめんね」

 姉は消え入りそうな声で謝ると、

「川で体を洗ってくるわ……」


 そういって家を出て行こうとしたので、拓人は何だか不安にかられた。姉の寂しそうな後ろ姿が玄関に向かうのを見て、なぜだか、もう一生会えない気がして、怖くなった。


「お姉ちゃん、僕も行く」


 川まで行く道、有紗は靴の先ばかり見て歩いていた。そんな姉の様子を横目に見ながら、拓人はきょろきょろしながら歩いた。会話はなかった。ただ、重苦しい溜息が、二人の口から時々漏れた。


「お姉ちゃんはもう働かなくても良いから何もしなくて良いから。専業主婦みたいにしていればいい。僕が代わりに稼ぐんだ」


 拓人は姉の険しい顔を見ると慰めたくなってそんなことを言った。未来に希望を持てることを言うのだ。そうしたほうがどこか遠くに行ってしまいそうな姉を引き留められると思ったのだ。


 有紗は下を向いたまま薄笑いを口元に浮かべた。その笑い方はひどく悲しげだった。返事が返されないまま、川に着いた。


 二人は裸になって服を岸において、川に入った。石鹸で体をごしごし洗う。後ろ歩きしながら有紗はどんどん川下のほうに泳いでいく。深いところには行って頭まで浸かって顔を出す。


「お姉ちゃん、そこは深いよ。危ないからもっとこっちに戻ってきてよ」


 有紗はまた水の中に潜った。しかし、こんどはいつまでたっても上がってこなかった。嫌な悪寒が走った。


 拓人は姉が消えたところまで入っていった。すると、足下の砂が消えて、どぼんと水の中に沈んだ。深いところにはいったのだ。水面がきらきら頭上できらめいている。拓人は上に上がろうとしたが、うまく行かない。足は空を蹴り、口からはたくさんの泡が出た。苦しい。薄暗い視界の中、拓人は有紗のものであろう手のような白いものをみた。拓人は手を伸ばした。その手を捕まえようとした。





「拓人、有紗」


 晴斗は弟と妹の前に立って呼びかけた。何年もうつろな目をして、どこかに意識をとばして浮遊していた二人は兄の声にやっと我に返った。


「お兄ちゃん」

 二人はびっくりして言った。

「どうして生きているの? 死んだんじゃなかったの」

「僕は死んださ。僕が見えるのはおまえたちも死んだからさ」

「僕死んだの?」拓人は信じられないといいたげに目を大きく見開いた。

「私死んだの」

 有紗の方は覚えがあるようで、妙に納得したような聞き分けのある顔をした。

「僕ずっと見ていたんだ。おまえたちが僕のところに来るのを。苦しみのあと、僕はおまえたちを抱きしめたんだ。もう離れないように僕はおまえたちの手を握っていた」

 晴斗は幸福そうな笑みを浮かべていた。もう一人じゃなくて、仲良し兄弟一緒になったのが嬉しいのだ。


「頑張ったね。有紗。もう苦しまなくていい。拓人、おまえだってもう思い悩まなくても良い全て終わったんだよ」

「お母さんは? お父さんは?」

「見に行くかい?」


 三人は家まで歩いて行った。


 ぼろい我が家につくと、家の前に真新しい自転車が置かれていた。家の中に入ると、ヘルパーさんが父親の食事介護をしていた。父はスプーンに乗った食べ物を差し出されるたびに口を開けてむかえ舌で食物を飲み込んでいた。母の姿はなかった。


「お母さんは?」

「お母さんのもとへ行ってみる? 念じればいけるよ」


 三人はお母さんを捜してと念じた。体が引っ張られる。そして、瞬時に場面が変わって、パチンコ屋にきていた。枯れ枝のようにやせた母が、大きな咳をしながらパチンコを打っていた。

「あ、お母さん」


「ちきしょう。ぜんぜんだめだ」


 母は台を離れると、トイレに入っていった。そして、激しくせき込みながら、洗面台を血で汚した。


「ちきしょう! なんだってんだ」

 悪態をつきながら血を水で流す。


「どうしようお母さんが病気だ」拓人は涙目に叫んだ。

「血を吐いて、体が悪いんだわ」有紗は心配そうに低くうめいた。

「いずれ僕たちのところへくるよ」晴斗は訳知り顔に言った。


「ああ体がきついよ」母は水を口に含んで吐き出し、口の中を浄めた。

 金がなくなった母は、もう勝負はできないので、外に出た。彼女は激しい頭痛と貧血におそわれていた。目の前があやふやに揺らめいている。視界が暗くなり、彼女は道ばたに倒れた。

「大丈夫ですか」

 通りすがりの人が助けおこそうとすると、母は乱暴に手を振り払った。

「何するんだい! あたしに触んないでくれよ」

 母はまたふらふらと歩き出した。


「ああ、苦しい……あの子たちの呪いだろうか。果たしてあたしはあの子たちを幸福にしてやれたろうか。ほっといてばかりで、ああ、嫌な思いをさせた。あたしはぜんぜん助けてやれなかった。怒っているだろうね。ああ、あたしはだめな母親だよ、本当に……」


 母はまた行き倒れ、太陽に向かって言った。

「あたしを殺すつもりかい? いいよ、やってみてよ。ほら、あたしは殺されてやるよ。もう思い残す事なんてない」

母はせき込み言った。

「生きていたって楽しいことはない。つまらないんだ。飽き飽きしているよ。さあ連れて行っておくれよ」

 動かなくなった母の体から白いベールのようなものが出てきた。それは母の体を離れると、人型になって、やがて、母の顔が浮き出た。


「お母さん!」

 晴斗と拓人と有紗は母の周りを取り巻いた。


「なんだいあんたたち。死んだんじゃなかったのかい?」

「死んだよ。僕たち死んだの。お母さんもだよ」

「死んだの? あたしが?」

「そうだよ」

「そう、そうなの。すまないね、お前たち。お母さんを恨んでいるだろうね。有紗ごめんね。今更謝ったってどうにもならないんだけれど。ああ見てごらん。向こうで誰かが手を振っている。行かなくちゃ」

 母は一人で歩いていくとやがて姿を消した。


「お母さん! 私怒ってないよ!」

 有紗は悲痛に叫んだ。

「お母さんは寿命で死んだから、すぐにあの世にいけるんだ。僕たちは違う。僕たちは事故死に自死だもの。まだいけないんだ。ねえ、お父さんのところに行こう」


 晴斗たち三人は父の元へ行く。そして、骨壺のおいた仏壇の下に三人はしゃがみ込み、眠る父を眺める。三人は父の寝顔を見ているうちにだんだん楽しくなってにらめっこや、体をたたき合ったりしてはしゃいで駆け回った。父の体の上を飛び越し、部屋中を駆けまわった。ふしぎと疲れなかった。そりゃ死んでいるのだもの。幽霊は体が軽いからと彼らは思った。


 三人が遊んでいる内に、父の上では何年もすぎた。やがて父は何を思ったか、外に出ていき、施錠されていない近所の家に勝手に入り、誰にも知られず、風呂場に行くと、風呂に水をためて、その中に入った。季節は夏だ。暑かったのだろう。水浴びでもしようと思ったのか。彼は冷たい水の中にはいると、急に胸を締め付けられ、発作を起こし、眠るように水中に姿を消した。父の薄い頭髪の後頭部だけが水面にぽっかり島のように浮かんでいる。


「ああ、お父さんが」晴斗は父の体を引っ張ろうとするが、手がすり抜ける。やがて、父の霊魂がその肉体を離れた。透けた父の霊は三人の子供たちをみて、優しく微笑んだ。


「俺は酒を飲むと馬鹿をやっていけなかった。いけない、いけないと思っても止められなかった。とんだ阿呆だ。次生まれてくるときはまともな人間になっていたいもんだ」

 そういうと、父は消えた。


「僕たちも行くか?」晴斗は言った。

「どうやって? どこへいくの」拓人は訳が分からないと目を回した。

「僕らもお母さんとお父さんと同じところへいけるの?」

「どうやって?」有紗は不思議に顔を曇らせる。

「もういい、と思うことだ。踏ん切りをつければそこは開く」

 三人は仲良く手をつないで念じた。

「もういい。新しい世界へ」

 白いベールの道が家の窓から空の高い場所へつながる。彼らはその上を歩いて空へ向かった。夕焼け空の美しいピンクの雲がかがやきながら泳いでいる。ああ、僕たちも神様の元へ行くのだ。三人の顔は笑顔いっぱいだ。

「ああ、神様お許しください。僕たちは未熟でありました。それ故に死を迎えてしまいました。次は失敗しません。次はもっとましに生きます。ですから未熟な僕らをお許しくださいね」




 ――完――

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はると 宝飯霞 @hoikasumi

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