第13話

 その夜、拓人は夢を見た。裸の小さな赤ん坊が白い部屋の中に座っていた。その部屋にある小窓の外から、拓人は小さな赤ん坊を振り向かせようとがらがらを振って声をかけていた。でも、おいでと言うばかりで赤子の名前はわからなかった。もどかしい頭のもやもやのなかでぐるぐる考えて、はじき出した。「――太」あやふやな名前がこの赤ん坊の名前だと気づいた。「――太、――太……」そう呼ぶと、赤ん坊は首をねじり、小窓から顔をのぞかせる拓人をみた。


「ああ……ぶ」


 太った赤い幼虫のような赤ん坊の唇からは、糸のようによだれが垂れていた。

 拓人の胸は中心を核として、熱い物が外側に広がっていく。拓人は赤ん坊を愛していた。――太は拓人が世話をする係りなのだ。拓人は小窓から部屋の中へ入ろうとした。しかし、四角い小窓に頭を入れると、頭のハチがひっかかった。拓人は頭を抜いて、顔を小窓に押しつけ、悲しげに眉を寄せ、赤子を愛しそうにみた。


「――太、こっちへ来て」不安を与えないように優しく楽しげに呼んでやる。

 しかし、赤ん坊は拓人の目に焦りを見て取ったのだろう。この部屋からぬけ出せないかもしれない。赤ん坊は不安な気持ちになり、唇をゆがめてわあっと泣きだした。


「大丈夫だよ、大丈夫だよ、おいで」


 拓人は小窓からガラガラを持った腕をのばして、振った。赤ん坊は泣きやみ、涙をこぼした頬をひきつらせて、それを見ていた。


「ほら、遊んでやるから……」拓人は必死になって言った。なんとしてもこちらに赤ん坊をおびき出さなくてはいけない気がして、苛々した。


「早く、くるんだ。おいで」


 赤ん坊は太くたくましい腕を突っ張って、はいはいして、小窓に近づいた。しかし、小窓があるのは高い位置だった。赤ん坊が立ち上がっても届かない。果てしなく遠い窓に落胆し、赤ん坊は悲しくなってまたわあっと泣きだした。拓人は腕を限界まで窓の中に突き入れた。肩がちぎれそうだ。指先までまっすぐにのばして、赤ん坊に触れようとした。すると柔らかい物が拓人の指を掴んだ。――太の小さな手だ。喉元に幸せの快感がこみ上げてくる。

「――太」

 拓人はうれし涙をこぼして唸るように叫んだ。


 拓人は目を覚ました。暗い天井と家族の静かな寝息。涙が拓人の目尻を伝っていた。あれ? 夢だったんだ。

 だけれども、拓人は夢の中の赤ん坊が自分の弟のような気がした。そして、あんなにかわいい子なのに、もう会えないのかと悔しくなって、胸を突き刺すようなつらい微かで重い痛みを感じた。


 僕の家族がもうひとり死んだ。勝手に死んだのじゃない。殺されたのだ。本人は生きたいと思って、一生懸命にお母さんのおなかにしがみついていたのに。




 次の日は休日で学校が休みだった。有紗は病院に母を迎えに行くと言って朝早く家をでた。朝食をとると、お父さんは布団の中に入って眠ってしまい、拓人は居間で教科書を開いてノートに大事なところを書き写した。


 書き写しているだけで頭に入っているとは思えない。しかし、いっぱい書いて、手が鉛筆で黒くなると、頑張って勉強して頭が良くなった気がした。


 一時間ほど経つと、拓人もなんだかつまらなくなってきて、ノートのすみに落書きなんかしていた。――太。本当に死んでしまったのかい。嘘だと言うことになればどんなに嬉しいだろう。お母さん、やっぱり生むわとなって、手術で赤ちゃんを取り出し、生きていて、まあ、連れ帰りましょうとなって、お姉ちゃんとお母さんと――太と三人で帰ってきたら、僕は僕は、本当に泣いちゃうかもしれないよ。


 拓人は流しの蛇口をひねって水を出し、コップにつぎ、飲んだ。流しにお父さんが用を足すので、臭い。拓人はコップを持ったまま、居間の窓辺に座り、外を見た。姉たちが来ていないかと思ったのだ。


 しかし、土の床と生け垣と、青い空が見えるだけで、人の気配はない。暇でしょうがない体がむずむずうずうずしていて、落ち着かない。拓人はコップの水を一気に煽ってため息をはいた。ノートの隅に絵を描いて、ぱらぱらマンガを作ると、もう教科書を見るのも嫌で、体を横にして、ぼうとした。


 眠ろうかなと思った。


 医者になるんじゃなかったのか。そんなに勉強にかじりつかないで、てきとうにやって、医者になれる訳ないじゃないか。勉強の出来ない医者なんていないのだ。医者になるのがこんなに大変なら、もうその夢は諦めたっていいんだ。勉強しなくて良いなら僕はとても嬉しいんだけどな。自分の不真面目さにあきれる。お母さんもお姉ちゃんも体を張ってこの家を支えているのに、僕はいったい何をしているんだ。僕は救世主になるべきなんだ。お母さんとお姉ちゃんにもう仕事しなくて良いよといって、彼女たちを沼から引き上げるのが僕の使命なんだ。みんなそれを期待している。だけど、僕には実力がない。


 いつの間にか眠っていた。玄関から誰かが入ってくる音に起こされた。


「拓人、布団しいて、お母さん無理させられないから」

 入院して帰ってきたお母さんは、目の下に大きなクマをつくり、やつれた顔をしていた。寝室に姉がお母さんをねかせると、お母さんは具合悪そうに唸った。


「お母さん、赤ちゃんは」


 拓人は帰ってきたのが二人だけなのを気づいていながらも、もしかしたら、今、弟は病院に入院しているのではないかと期待して聞いた。


 お母さんは嫌そうに顔をゆがめた。


「綺麗に掻きだして貰ったよ。麻酔で寝ているうちに、お母さんのおなかを綺麗にしてもらったさ。あちこち引っかかれて痛いよ。気分が悪いよ」

「赤ちゃんはどこにいるの」

「病院で廃棄してもらったよ」

 拓人は心が空っぽになったように虚しくなった。――太は家に帰ってきたかっただろうに、その体は病院のゴミ箱にあって、その亡骸をみながらさよならもいえないなんて。心でぽつりとお別れすることしかできないなんて。


「拓人、勉強してたの?」

 有紗が居間のテーブルに広げたままの教科書やノートを見ていった。

「うん」

「えらいね。拓人。拓人ならお医者さんになれるから頑張るのよ」


 苦い物が口いっぱいに広がった。拓人は無性に腹が立った。僕になれって言っても、僕は勉強ができなくて、とてもとても無理だ。勉強が好きじゃないんだ。お医者さんは勉強好きがなるんだ。だけど、それは僕じゃない。僕は勉強が嫌い。


「お姉ちゃんね、拓人がお医者さんになることが楽しみなの」

「そんな、僕が医者になるよりも、お姉ちゃんが医者になればいい」

「お姉ちゃんは勉強ができないから」

「僕だって出来ないよ!」


 拓人は叫び、外に飛び出した。


 憎たらしいほどに外はいい天気だった。拓人は走って走って、山の奥に行き、親しんだ川にたどり着いた。心がもやもやしているとき、綺麗で透明な水のさらさら流れる様を眺めたいと思った。拓人は石の上に座って、ぼんやり川の流れに目をやり、その流水の音に耳を澄ませた。彼は怒って叫んだことを後悔した。女の仕事をして、拓人が勉強するのにいい環境をつくってくれる、母と姉の努力を考えると、自分の働きが弱い気がした。まだまだ自分はできるはずだ。頑張れるはずだ。そうだろうと自分に問う。いや、僕は僕が思う以上に怠け者で馬鹿なんだ。


「重いよ。みんなの期待が重いよ。お兄ちゃんが生きていたら、――太が生まれてくれていたら、彼らにお願いして、僕は何もしなくても良かったのに。いや、何もしないわけには行かない。働かなきゃ」


 何をして働く?


 拓人には父と同じ怠け者の血が流れていた。人の下で働くことなんて出来ない。ぼうとしているだけでお金がもらえたらどんなにいいだろう。お兄ちゃんは僕よりも優れていたのだろうか。――太は僕よりも優れていたのだろうか。劣っている僕が生きていいのだろうか。


 やがて、日が沈み、あたりが薄暗くなってくると、拓人は家に帰ろうと腰を上げた。カラスの大群が鳴きながら山の上の方へ飛んでいく。


 拓人は家に帰る足が重いのに気づく。僕はお姉ちゃんに合わす顔がない。あんなこと言って、僕だって勉強が出来ないと本当のことを打ち明けた。お姉ちゃんは失望しただろうな。僕の価値って何だろう。ない。いやだ、僕ってどうして出来が悪いんだろう。拓人は顔を赤らめて泣きそうになって鼻をくんとならした。


 僕、働こう。お姉ちゃんとお母さんが女の仕事をしなくてもいいように。そう思うと、彼はこう決めたことを早く姉に話したくて駆けた。飛ぶように走ると、息があがって、ぜえぜえと呼吸するうちに心臓がつぶれるように痛んだ。苦しかった。でも走った。こうと決めたことを早く言わないうちは気持ちが悪いのだった。


 家にはいると、姉が料理を作っていた。拓人は汗塗れになって姉を見つめた。ふと、姉が気づいて振り返った。

「拓人おかえり。どうしたの。走ってきたの」


 拓人は激しい感情の高ぶりを押さえ押さえ言った。


「僕、働くよ。月、いくら家に入れればいいの? 僕、働いて稼ぐから」

「まって拓人何を言っているの。中学生が働くなんて馬鹿なことないわ」

「でも中学生のお姉ちゃんは働いて稼いでいるんでしょ」

「働いているんじゃないわ」姉は顔を赤らめた。

「もう仕事しなくていいよ。僕が全部やるから」


 半分やけくそになって言うと、拓人は唇も青く震えていた。あてもないことをいうのは、どこかでその考えを止めてくれることを望んでいるのだ。


「そんなすぐなんて働けないでしょう。それに、拓ちゃんはお医者さんになるんでしょう。ずっと勉強頑張ってきたじゃない」


 冷たい憂鬱が喉元を締め付け、両目から涙が一気にあふれた。


「だから、僕、言ったじゃない。僕出来ないって、言った……」

 泣きながら言うと、有紗は驚いて拓人をなだめた。


「そんなつもりはなかったのよ。ごめんね。あなた苦しいのね。どうして? お姉ちゃん知らないで苦しめたのね。泣かないで。ごめんね」


 僕は勉強が出来ない。医者になんてなれないのだ。姉の期待を裏切ったことがつらかった。一家を救い出すつもりで今まで生きてきて、そこに存在の意義を見いだしていたのに、今では、もう拓人は力のない犬だ。餌を与えられ、飼われている犬だ。自分一人に何か大きくしでかす力はないのだ。そう思うと、失神しそうなほどの暗闇にぶち当たった。家族の問題を解決する力が自分にない。そうなると、僕はいてもいなくてもいいじゃないか。家族がつらい目に遭っているのを僕はゆびをくわえてみていなくてはならない。


「僕働くよ」

「まだ義務教育も終わってないのに無理よ。いい? あなたね、中学を卒業して働くにしても、学歴がないと高給取りにはなれないのよ。一生フリーターで安い賃金で働かないといけないのよ。医者にならないにしても、大学だけは行きなさい。良い大学に行くのよ。大丈夫よ。たくさん勉強すればいいの」

「勉強が出来るのだって才能なんだ。僕嫌だ。もう自分にうそを付きたくない。僕は勉強が出来ない。嫌いだ。苦しいつらいもう嫌だ」

「嫌でもやるのよ」

 有紗は拓人を叱った。

 拓人は教科書をとるとびりびりにやぶいて放り投げた。そして、泣いて、膝から崩れ落ちた。無惨な教科書を有紗は拾うと、セロテープで破れ目を貼り合わせ始めた。そして、彼女は静かに泣く。


「頑張ろう。拓人。医者にならなくても良いから」

「医者になれないんじゃ全部おなじだ」

「そんなことない。選択肢は一つじゃないのよ」

 つらくて悲惨でごはんどころじゃなかった。拓人はどうすればいいのかわからなかった。だけど、少しだけ、気分は和らいでいた。

 医者にならなくて良い。拓人はそれで、自分のなまけがすべて許される気がした。

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