第12話

 放課後になると、拓人は新太に連れられて、廃ビルのある立ち入り禁止区域に行った。高い塀で囲まれた、入り口の黄色い鎖で、封鎖された土地に入ると、窓の割れた古い、半分壊されたビルが露わになった。


「で、僕たちどうするの。こんなとこに来て」


 と、拓人が聞くと、新太は手に唾を吐いて蠅のようにこすり、自分の頬をたたいた。


「兄貴たちが言うんじゃ、入り口のあたりで見張りをするんだ。そして、誰か来たら兄貴に知らせる」

「その兄貴はどこにいるの?」

「もうあのビルの中にいるよ。仕事を始めているんだ」

 拓人はコンクリートで出来た鉄筋の突き出た半壊のビルを仰ぎ見た。

「その仕事って何なわけ?」

「さあ」新太は首をかしげた。そんなことどうでも良いというように遠くに目をやった。

「岩崎先輩や山崎先輩もいるの?」

「いないよ。違うツテさ」

「いったいこんなところで何をするんの? 兄貴ってどんな人」

 新太はくすくすと笑った。

「僕が思うに、兄貴はここで仲間と隠れて違法ドラックをやってるんだ。ばれたらいけないから見張りがいる。兄貴は悪い人さ。たぶん。でも時々いい仕事をふってくれるから重宝でさ」


 新太は塀に寄りかかって、ポケットから取り出したガムをかみ始める。そして、そのガムを拓人にもすすめる。いけないことをしている後ろめたさに胸を押されながら、まずいことを考えないように拓人はありがたくガムを受け取って口に入れて、無心にくちゃくちゃやった。そうやっていくらか時間が流れた頃だった。建物の中から女の悲鳴が聞こえた。拓人はびっくりして、同じようにびっくりしている新太と視線を交わし合った。


「なんだろう」と言いながら、拓人はなんだかわからない恐怖に胸がわなないていた。「見に行こう」

「駄目だ。ここを見張るんだ」新太は拓人の腕を引っ張ってビルの中に行こうとする彼を引き留めた。


 また女の悲鳴が聞こえた。それと同時に男の罵声。言い争っているような声。女が泣き叫ぶ。男が怒鳴る。


「大変だよ。まずいよこんなの。助けなきゃ」拓人は泣きそうになりながら言った。「女の人に何かあったんだ!」

「見張っていないと怒られる」新太は蒼白になって訴えた。


「僕、見てくるよ」拓人は恐怖にとらわれ、その恐怖が大きくなることを恐れ、しかし健全なる勇気に奮い起こされ、ビルの中に入った。声のする方に歩いていくと、割れたガラス窓から差した日差しに照らされて、数人の男たちの中に囲まれて、一人の女が地べたに転がされている。その女は半ば制服のブラウスを引き剥がされた姉の有紗だった。髪を捕まれたのか、頭はぼさぼさで、ぶたれたのだろう頬は赤い。ブラジャーをしていないので、丸く膨らんだ白い胸が露わになっている。拓人は驚愕に目を丸くした。


「お姉ちゃん!」

「なんだ、お前。見張りのガキは何やってるんだ」

 金の鎖を首にかけた、背の高い、鋭い目つきの男が叫んだ。

「あんたたち何しているんだよ」

 唇の端が切れて赤い血を流している姉を見て、拓人はむらむらと怒りがわき起こった。急いで有紗のそばに駆け寄り、守るように立ちはだかった。

「弟か」

「そうよ」有紗は胸の布を掻き合わせ、言った。「この子には手を出さないで」

「手を出さないことはいいだろう。だがな、一日ぶんの金は払っているんだから、全員でお前を回してやる」

 まわりのジャガイモのような男たちがげらげら笑う。

「お金は返すからやめて」有紗は顔を赤らめていった。

「援助してやるんだ。このくそ売女。おとなしくやられろ。今更出し惜しみするほどの穴でもないだろう」


 いっせいに手が伸びる。拓人は有紗を守ろうと蹴ったり殴ったりしたが、仕返しにあり、頭を殴られて、意識を失った。その間に抵抗虚しく、有紗は体を暴かれた。何人もの男に代わる代わる抱かれて、有紗は乱暴に扱われる傷みと熱に喘ぎ、唇をかみしめ、耐えた。


 拓人が目を覚ましたときには、周りに、有紗以外だれもいなかった。西日が窓を照らしている。有紗は踏みつけられ、汚れた制服を着て、心配そうに拓人の顔をのぞいていた。


「お姉ちゃん」

「大丈夫だから」


 悲しみと、熱に浮かされた姉の目をみて、拓人は怒りと興奮に胸がどきどきした。

「あいつらは……あいつらはお姉ちゃんに何をしたの?」

 有紗は自嘲的に笑って首を横に振った。

「僕、殴られて、何も覚えていない。いつの間に暗くなったの」

 倉庫のがらくたが黒い影をのばしている。コンクリートの床はひんやりしている。そのさまがとても恐ろしくて、拓人は足がぶるぶると震えた。

「いいの、帰りましょ。それよりも拓人、先生には謝ったの?」

「お姉ちゃん何されたの?」

「どうでもいいことよ」

「どうでもよくないよ!」

「女にしかわかりっこない問題よ。男のあんたには関係ないわ」

「なにされたの? 言って! 僕、本当に怒っているんだ」

「私に怒っているの? ごめんね」

「ちがう、あいつ等に怒っているんだ!」

 有紗が身じろぎすると、むっと生臭い男の欲望の臭いがした。

 拓人は悔しさと怒りと悲しみで、頭が激しく痛み、姉を助けられなかった自分の弱さに腹が立って喉をせり上がる切ない疼きに唇をゆがめた。

「帰りましょう」

 姉に促され、拓人はふらふら立ち上がった。外にでてみると、新太の姿はなかった。

「なんでこんなことに。あいつらなんなの?」

 拓人は苛々して叫んだ。


「お姉ちゃんあいつ等に何かして恨まれた?」


 激しい怒りをぶつけるべきではない姉に八つ当たり的にぶつけていた。どうしてあんなことをされたのか。何もしていないのに目をつけられるわけがないのだ。怒らせたからあんな罰を受けたのだと思わなくては納得できない。何もないのに酷いことをされるなんてありえない。


「恨まれることなんて何もしていないのよ。信じて」

「じゃあ、なに」

「目を付けられたの。一人だけ周りと違うから気になっていじめて消し炭にしたくなったんでしょう」

「周りと違うってなに?」

「貧乏だからよ」

 有紗はそれ以上何も話したくないようで、拓人と目が合わないようにした。

「貧乏だからって、貧乏だからって、あいつらに迷惑をかけているわけじゃないのに」

 有紗はわかっていた。貧乏だから嫌な目にあったのではない。売春して生活費を稼いでいるから、うしろめたいことをしているから、叩かれたのだ。一人の女性として恥ずかしいことをしているからだ。与一の爺さんと連れ立っていることを何度も目撃されて、学校では噂になっていた。


 乱暴された下腹部の痛みに有紗は耐えていたが、やるせなさに拓人が静かに泣いていることに気づくと、有紗までつらいことが思い起こされ、涙がこみ上げてきて、泣かないように歯を食いしばっていたが、涙で視界がぶれるうちに、つい瞬きをしてしまい、温かい滴が頬を転げ落ちた。


「お姉ちゃん、川でお風呂入っちゃうから、川まで競争よ」

「タオルは?」

「いいの夏だし、すぐ乾くわ」


 有紗は駆けだした。涙を向かい風で乾かしながら、こんな泣き顔を弟に見られたくなかった。もし見られたら、自分が傷つき、弱っていることが知られる。そうすると拓人は驚き気の毒がるだろう。変な目で見られたくなかった。ふつうの目で見られることで、現実を何でもないこととして受け入れられ、すると、心もそんなに傷つかない気がした。


 川に行くともう辺りは薄暗かった。


「すぐに入って、洗い流してしまおう」

 有紗は破れてどろだらけのブラウスを脱ぎ、スカートと下着も脱いだ、裸になると、川の浅瀬に座り、下腹部に水をかけた。そして、手でこすった。汚い物をだすつもりで、おしっこをした。泡が水の上を流れていく。


 拓人は裸になると、体の半分まで埋まるところで頭を洗い、泳いだ。


「危ないからね、浅いところにいなさい。お兄ちゃんみたいに流されるといけないからね」

 有紗は声をかけた。

「はあい」拓人は浅いところに歩いていった。


 こんな二人を晴斗は川の真ん中にある大きな岩の上に座って見ていた。死んでしまった自分に何が出来るだろうと考えた。死んでしまわなくても自分にできることなんてあるのだろうか。本当に苦しんでいるのなら僕が仕返しに行ってあげる。お父さんのようにしてあげる。しかし、有紗は落ち込んでいなかった。顔を洗うと、涙も綺麗に流されたようで、白い顔はどこか新鮮さもあって、綺麗で、汚れていないのだもの。有紗は本当に汚されたの? 晴斗は思った。有紗の心はまだ大丈夫だ。


 そうやって晴斗は思いこんでいたのかもしれない。人を傷つけることはつらい。晴斗は優しいのだ。晴斗は敵の家族のことを考えた。お父さんやお母さんに育てられた大切な子供たち。拓人のように誰に促されるでもなく自分で過ちに気づいて、謝ってくれないか。彼らにも良心があることを信じたかった。


 二人は濡れた体を少しの間夜風に乾かし、ほんのり湿っていたが服を着た。ほうほうとフクロウが鳴いていた。二人は夜の森が怖かった。夜だって何ともないと思いながらも、暗いと幽霊がでそうで怖いのだった。彼らは兄である晴斗が化けてでないかと思った。でるだけなら良いが、川の奥ふかくの流れの速いところへ引っ張られ殺されやしないかと考えた。すると、怖くって早くこの場を立ち去りたいと思うのだった。


「お兄ちゃん僕たちを見守っていてください」

 拓人は誰かに見られている気がして恐ろしくて救いを求めるように手を合わせた。

「死んだ人に何が出来るの」

 有紗は不愉快そうに言った。彼女が怒っているのだと拓人は知った。

「どうしてそんなに怒るの」

「だってあんまりだわ。あんまりよ。こんなのあんまりよ」


 腹の奥に沈んでいた怒りがまた起こり、有紗は顔を赤らめた。彼女のそんな様子を見て拓人は有紗の身に起こったことを思い出した。


「神様、私の人生を返してください」有紗は高い声で空の星に向かって叫んだ。すると、それに答えるように星が輝きを瞬かせた気がした。


 拓人ははらはらと落ち着かない胸を抱え、思いに沈んだ。たぶんお姉ちゃんはいろんな人と体を合わせている。お母さんのように。そうやってお金をもらっていたんだ。それを知られて、弱みを握られて、今日のような酷い目にあったのだ。お姉ちゃんは安い体とみられたんだ。拓人は恥ずかしかった。姉や母の汚れが、自分の物のように感じた。しかも自分自身も潔白じゃなくて、お金を盗んだことがあるので、汚らしく思った。僕たち一家はなんて汚いのだろう。


「お母さん今日病院に行くって朝」有紗は言った。

「え、今日だっけ」

「うん。やっぱり生まないで下ろすんだって」

 拓人は唇がびりびりとしびれた。それは涼しい風がぬれた唇を乾かしたためだ。拓人はしにゆく弟のことを考え、悲しくなった。

「生んで欲しかったな」

「うん。その死んじゃう子ね、お兄ちゃんの生まれ変わりだったかもね」

「生まれ変わり?」

「子供は死んだらまた同じ親の元に生まれてこようとするっていうの。人は死んでも魂は死なないからね」

「なんでそんな話するの。余計悲しいよ」

 拓人は恨めしそうに姉を睨みつけた。


 でも、生まれない方が良かったかもしれないよ。拓人は密かに思った。僕たちみたいな汚い家族の中に生まれたんじゃ、背筋を伸ばして生きていけないよ。そう思ってしまったことに拓人は愕然とし、冷たい自分の心にたいする羞恥と後悔に、心臓がずきりと軋んだ。

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