第11話

 朝になると、ついに朝になったという憂鬱で、きりきりと締め上げる頭痛がした。拓人はわくわくする胸の不安な動悸を覚えた。


 作った朝ご飯もろくに食べず、有紗から貰った一万円の入った封筒を鞄の奥深くにいれ、彼は眩しく晴れ上がった空の下、姉の有紗と一緒に学校へ向かう。


「言ってしまえば楽なのよ。言ってしまえば……」

 有紗は暗い顔をしている弟を励ますためにぼそぼそと言った。

「謝ることは悪いことではないわ。良いことよ。先生もわかってくれるわ」

「ねえ、拓人。泣いているの?」

 うつむいて隠していたのに、見つかってしまうと、拓人はわっと泣きじゃくった。

「お姉ちゃんのお金とお兄ちゃんの写真をみせて謝るんじゃ、僕自身は何もしていないじゃないか。僕は何も出さないんじゃ卑怯だ」

「物を渡すことが謝ることではないわ。反省の気持ちを示すことが、謝ることだわ」

「反省の気持ちって、気持ちって心付けとかだろ」

「いいえ、気持ちというのは、決心よ。拓人、もうしないと謝るの。そして、悪い気持ちはみんな今日限り捨ててしまうの」


 拓人はふと考えた。悪いことと言うけれど、悪いこととは何だ。そうだ、人に知られたら恥ずかしいことだ。それを知ったら、僕に腹を立てる人が増えることだ。良くないこととは、後ろめたさがあることだ。僕は捨てなきゃいけない。


 二人は学校の校舎にはいると、教室の前で分かれた。


 教室にはいると、拓人は別の悪い自分の意識になりそうになって、思わず頭を振って追い出した。

「何をしているんだよ。虫でもいたのかい?」

 新太が細い目を更に細めて笑いながら、拓人に近づいた。そして、拓人の首に腕を巻き付け、教室の隅に移動した。

「先輩達と遊ぶさ、金を捻出する方法があるんだよ」

 拓人は、先輩の侮蔑的な声を思い出し、彼らとまた親しくするのはちょっとと、遠慮がちになりながらも、金を捻出するとはどういうことだろう。耳の穴を大きく広げた。

「バイトがあるんだ」

「でも僕ら中学生だろ」

「それでもいいんだ。正規の求人じゃないから。向こうは人手がほしいんだ」

「で、どんなバイトなの?」

「見張りだよ」

「見張り?」

「倉庫の警備員みたいなもんさ。日給五千円どうだい、やるか?」

「やるよ」

 すぐに拓人は引き受けた。彼は瞬時に姉に帰す金の目処をつけた。

「よし、放課後、一緒に現地へ行こう」

「うん」


 給食を食べた後の小休憩の時間に、拓人は理科室で授業の準備をしていた竹内先生に声をかけた。

「先生」

「どうした」


 先生の黒い目がじっと拓人に注がれる。拓人は恐ろしくなった。だが、勇気を振り絞って言った。


「あの、先生の財布」

「財布がなんだって」

 拓人はぎくりとして、乾いた唇をなめた。

「あのその、先生の財布が無くなったでしょう。盗んだのは……僕です。あの、お金」


 拓人は手に握っていた封筒と写真を慌てて先生に突き出す。


「財布は川に捨てちゃって……ないんです。それとこれ、僕の死んだ兄の写真です。先生の財布に亡くなったお母さんの写真が入っていたって聞いて、僕、それは返せないから、これ一つしかない兄の写真を先生に渡します」

「お金は良いけど、写真なんて貰って先生にどうしろというんだね」

「好きなように。捨てても良いです」

「悪いけど、先生は、君のお兄さんの写真はほしくない」

「欲しいとか欲しくないとかじゃないんです。先生の写真を僕が川に捨ててしまったのですから、先生も怒っているでしょう。その気持ちを僕にぶつけて欲しいんです。同じことして貰ってかまいません。どうぞ先生の手で川に捨てるなり、焼くなりしてください」

「悪いけど……先生は、いくら怒っていようがそんな意地悪したいと思わないんだ」


 竹内先生は拓人に写真を突き返した。そうされると、拓人は自分の犠牲的な優しい気持ちまで否定されたように思った。少し、不愉快だった。


「なぜ、先生の財布を盗んだのか聞いて良いかい?」

「それは、あの、友達とゲームセンターで遊ぶお金が欲しくて。お金が欲しいと思ってたら、先生の鞄の中の財布が目について……」

「そうか、正直に言ってくれてありがとう。もう行って良いよ」


 目も合わさずに、そう言われ、拓人はまだ自分が不出来に感じた。先生は良いというけれど、まだ、先生は納得していない、許していないと言う気がした。あまりに感情のこもっていない素っ気いない言い方だったから。拓人はその場にぼうと立って先生を見つめた。


「どうした?」

「僕、まだ先生に謝り足らないと思って」

「そうか? そうだな」


 先生はそう言うと右手を振り上げ、拓人の頬にびんたを食らわせた。

 パンと高い音が響いて、拓人は顔を背け、赤い頬がえげつなく先生の目の前に晒された。


「どうだ、いいだろう」

 拓人は先生の顔をみた。先生はにこにこ笑っていた。

 傷みを感じて初めて、拓人は許された気がした。

「謝ろうとした気持ちが先生は嬉しいよ」

「すみませんでした」

「よろしい」

 じんじんと頬が痛んだ。拓人は涙目になった。自分が一番の被害者に感じた。だが、竹内先生は拓人が後ろめたい気持ちを感じないように良いようにしてくれたのだと思うとありがたいやら憎らしいやらで、妙に湿っぽい気持ちだった。

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