第10話

 朝がきて、拓人と有紗は学校に行く。学校が近づくことに一つの不安を抱え、拓人は心が重たかった。そうだ、先生の財布を僕は川に流してしまった。学校は騒ぎになっていないだろうか。なぜ、川へ投げ捨てたのだろう。もし、今手元にあれば、返せたのに。何事もないようになれたのに。醜悪な煙が顔を覆うように、いきぐるしく、胸が詰まった。


 学校へはいると、生徒たちは何も知らず、いつも通りの騒がしさだった。しかし、ホームルームが始まると、担任の大垣先生が、髭の中のニキビをひっかきながら、ヤニで黄ばんだ歯を見せて、舌打ちの長いのをしてみせると、言った。


「えー、昨日のことですが、ある事件が起きて、だいぶ問題になっています。警察を呼ぶなどと言う騒ぎになったんですが、そこはまあ、まあまあと頼んで、警察が来るという話しはなしになったんですね。知っている人もいるでしょうが、職員室で理科の竹内先生の大事な財布が紛失しました。中には大金である一万円くらい入れていたらしいです。これが十万円じゃなくてよかったと先生は思いましたがね、給料を下ろしたのをそのまま入れていたとかじゃなくてよかったと。一万円ぽっきりでよかったですね。しかしね、中に身分証明書やらクレジットカードがあったらしく、竹内先生は相当参っていらしたようです。ええ。そこはカード会社に連絡して機能を止めて貰ったりしてね、それで、昨日職員室に入った者、その他の者、なにか事件について詳しいことを知っている人はいますか? いたら先生に教えてください。有力な情報を提供してくれた人には竹内先生からお礼があるそうですよ」


 すかさず新太が拓人を振り返り、不安そうな視線を送った。おい、どうするんだ、と言われているようで、どうすることもできないんだと、腹で思って、拓人は、新太を嫌そうににらむ。すがるように拓人の反応を待たれるとそれがうるさくてならない。へたしたら、新太の不自然なふうを見て、先生が気づき、この事件に関係しているとばれてしまう。拓人は知らぬ不利を決め込んだ。


 休み時間になると、新太が、拓人の肩を組んで耳元でささやいた。

「竹内先生の財布だったのか。あの先生はテストでカンニング見逃してくれて良い先生だったよ。悪いことは言わない。財布は返した方がいいって」

「そんなの無理だよ」

 新太は責めるように声を低める。

「どうしてさ」

「もうないんだ。川に捨てちゃった」

 新太は拓人の両肩を強く掴んで、自分の目の前に拓人をしっかり立たせると、じっと目をのぞき込んで、長く見つめたのち、彼は困ったように顔をゆがめ、ため息をはいた。

「なんで捨てたんだよ」

「持っていたくなかったんだ。手に持っていると火傷しそうで」

「バカ野郎。小説みたいな比喩つかうほど余裕ぶっこいて」

 新太はにやにやと笑った。彼は拓人がふざけていると思って感心し、おもしろいと思ったのだ。

「いいや、秘密にしよう。ばれなきゃ怒られない。このこと知っている先輩達にも秘密にしてくれって頼んでみる」

 新太は楽しそうに言って、一人、上級生の教室に向かった。


 一人になった拓人は、罪の呵責を感じた。一万円入っていたんだ。それだけでも返そうか。でも、僕はお金を持っていない。ふと、昨日母に姉が大金を渡している姿を思い出し、姉に頼めば、一万円くらいは融通してもらえるかもしれないと思った。だけど、姉が男に抱かれて貰ったのであろう、金をせびるなんて、自分は調子よすぎだろうと思って、こんなことを考える自分の卑怯さに腹が立った。


 竹内先生が困っているというのに、拓人は彼に申し訳ないと思いつつも、自分を改めて正直に謝ることが出来なかった。先生は知らない方がいい。こう思った。先生に優しくされたことを思い出すと、彼の親しんだ気持ちを裏切る気がして、後悔に胸が痛んだ。拓人はぼんやり教室のいすに座りながら、今回の事件とは他人だというふりをすることに気を配った。知らん顔をしていれば、問題も自分の元を通り過ぎて、誰も知らないことになるだろう。ずるいとわかっていながら、拓人は何にも知らない人になりきっていた。心の中でちくちくと自分を責める声を聞きながら、拓人は、自分じゃないと嘘をつく。そうして、青い顔をしている。拓人はかなり息苦しかった。人をだませても、自分はだませない。彼は苦痛を覚えた。


「竹内先生の盗まれた財布にお金以外に何か大事なものは入っていなかったのって聞いたの。ほら、よくお守りとか入れておくでしょ」

 女生徒が自分が知った情報を友達に伝えるのに、少々鼻高々になりながら興奮に声を弾ませて大きな声で言った。

「そしたらね、写真が入っていたんだって。先生の亡くなったお母さんの。真っ正面からの写真は一枚きりしかない写真だったから盗られてしまてからは惜しかったって」

「えー先生可哀想。お金だけとって財布は返してほしいよね」

「そうねえ」

「きっと犯人はどこかに財布を捨ててるわ。だって手元に証拠を持っているわけにもいかないでしょう」

「ひどいよね。犯人って家族の写真を見ても、何も思わず、それどころか証拠隠滅に財布ごと燃やしてるかもしれないんでしょう。怖い。他人の私物にふれて、それを壊して何も思わないなんて。誰が犯人なんだろう。職員室だから先生の誰かかしら」

「まって、生徒たちだって職員室に何かの用でいくわ」

「そういえば職員室の掃除係はうちのクラスね」

「怪しいわね」

「ほんと。うちのクラスの子が犯人だったらどうする?」

 強い興味を引かれて耳をそばだてていた拓人は、急に犯人を自分だと指摘された気がして、緊張で体を強ばらせた。女生徒はその話をやめて別のくだらない話題に移っていたが、拓人は胸がはらはらして気が気でなかった。額からは冷や汗が流れていた。


 写真が入っていたんだ……。


 拓人は死んだ兄のことを考えた。もし兄を写した写真がなくなったら、自分だったらすごく悲しい。


 それでも拓人は、自分が犯人だと先生に打ち明けるのが嫌だった。自分がされて嫌なことを人にしてはいけない。だけど、拓人は怖いのだった。返せるのなら良いが、そうではないのだ。手元に盗んだものは残っていない。無くしてしまったのだ。返せるのなら謝っている。だけど物がないのに謝罪だけするというのがどうしても狡く思える。犯人を見つけて喜ぶ先生の顔を想像し、犯人が見つかったのなら盗まれたものも戻ってくるだろうと期待する先生を想像する。そして、「ないのです」と言って、彼の期待を打ち消す言葉を発して、先生の顔がどんどん悲しみと憎しみに崩れていくのを想像する。


 はあ、と拓人は悲鳴のようなため息をはいた。想像した先生は見ていられなかった。あまりにも気の毒で。


 学校を終え、拓人は家に帰った。そして、制服を脱ぎながら、ささやかな仏壇に祭られた晴斗の写真をみた。するとどうしてだか、この写真を川に流してしまわないといけないと考えた。そうしないことには、胸のつっかえが取れない気がした。彼は竹内先生に詫びたかった。詫びる方法を心の中で模索していた。そして、行き着いた答えが、自分も同じ目にあうことなのだった。そんなことをしても竹内先生の気持ちは安まらないだろう。そうにちがいない。そう思うことで、拓人は、自分のぶんは何も失わないようにと卑怯な考えで頭の中の考えを止める。


 部屋着に着替えた拓人は晴斗の写真の前に座り、目をつぶった。


 晴斗は拓人の迷いのある顔を見て、話がよくわかった。

「拓人、先生に謝るんだよ。正直に言うんだ。盗んだ財布は川に捨ててしまったと。謝って、先生のおしかりの言葉をよく聞くんだ」

 白くすける手を伸ばし、晴斗は、拓人の肩に手をおいた。拓人の首筋の匂いをかぐように頬を寄せる。


「僕の勇気を分けてあげるから、きちんと謝ろうよ」


 すると、不思議なことに、拓人は勇気が出てきた。

 謝ろう。

 ただ、謝るだけでは忍びないと、拓人は、一万円もどうにか捻出して、先生に返そうと思った。そして、犠牲的な気持ちで、晴斗の写真を写真楯から抜き出すと、それを学生鞄にしまった。


 姉の有紗が帰ってくると、拓人は姉のそばににじりよった。

「どうしたの、拓人。何かあった? 悲しそうな顔して」

 拓人は涙で喉がつっかえ、声がでなかった。鼻のあたりにつんと刺さる痺れがあった。

「あれ、お兄ちゃんの写真は?」

 有紗は仏壇にあったはずの写真がなくなっていることにすぐ気づいた。そして、驚いたように拓人にだずねた。

「ねえ、どこにやったの?」

 拓人は姉に問いつめられると、両目に涙がこみ上げた。そして、我慢できず、ぽろぽろと涙をこぼした。いやらしい、無理を頼もうとする時の気まずさからでる涙だ。

「どうしたの拓人」

「お姉ちゃん、一万円貸してよ。何も聞かずにかしてよ」

「なんでよ。理由を言わないと貸せないわよ」

「お願いだよ」

「理由を言って」

「竹内先生の財布盗んだの僕なんだ」

「え」有紗は眉をひそめ、弟の不品行に怒り、最愛の弟がしでかした罪に、悲しくなって口をへの字にした。

「朝、先生が話していた犯人はあなただったの。その財布はどこにあるの」

「捨てちゃったんだ」

「お金は抜き取ったの?」

「お金ごと川に捨てた」

 お金を自分のものにしなかったと聞いて、有紗はほっとした。自分の弟が完璧な悪に染まったわけではないと気づいたのだ。

「なんでそんなことしたの」

「お金が欲しくて。でも怖くなって捨てた」

「馬鹿だね。明日お金を持って先生に謝りに行くのね」有紗はじっと拓人の目をのぞき込む。

「うん」

「じゃあ、お金はお姉ちゃんが用意してあげる。それで、お兄ちゃんの写真はどうしたの」

「先生に渡そうと思って。先生の財布に亡くなったお母さんの写真が入っていたんだ。でも川に捨てちゃったから。僕の大切な写真を先生に渡して、煮るなり焼くなり好きにして貰うんだ。そうすると先生の気も済むだろうし」


 拓人は泣いた自分をあんまりだと思った。泣き脅しでお金を手に入れようとする自分が狡猾だ。姉の有紗に頼めば絶対にお金が手にはいると思っている。お母さんみたいに有紗からお金を搾り取っているんだ。しかし、このときばかりは、姉の有紗が、中学生らしからぬことをして金を稼いでいることに感謝した。そのおかげで、手持ちぶさたを感じながら謝ることもない。いや、謝るのだが、最低の形でそれをすることは避けられる。財布は返ってこないが、お金は返ってくるのだ。消えた先生の写真のことを思うと拓人は辛かった。晴斗の写真で先生の気分も和らぐと良いが、だが、こうして晴斗の写真を持ち出さないといけないところまで追いつめられた自分を思うと、ふいに感傷的な気持ちになり、そこまで犠牲的な気分になれる自分を先生は感動しながら誉めないかなと期待して、胸が轟く。


 夕食を食べ、夜、なかなか寝付かれず、寝返りばっかり打っていた。すると、隣に寝ていた有紗が暗闇の中で少し身を起こし、

「拓人。寝らんないの?」

 拓人はぎくりとした。

「明日、先生に言うのが怖いんでしょう?」

「……うん」

「大丈夫よ。ちゃんと謝ったら許してもらえるから。緊張してもがんばって謝るのよ。きちんと声を出して。先生はあんたなんかよりずっと大人なんだから、懐だって広いし、大丈夫。許してもらえるよ。一人で言える? お姉ちゃんもついて行こうか?」

「いい」

 拓人は姉の同行を拒否した。それをするのは、姉に自分のみっともない姿を見せたくなかったからだ。姉から惨めな目で見られることが怖かった。もやもやした焦燥のようなむずむず感から逃れたさに、拓人はまた寝返りを打って、姉に背を向けた。

「明日一日、頑張るの。打ち明けてしまえば、その次の日からもう楽よ。負い目を感じたまま学校に行くのは辛いでしょう。整理できていない気持ちのまま、大きくなれば、いつかその気持ちの不味さに自分を否定したくなって、堂々と出来ず、こそこそするみっともない人間になるんだからね。お姉ちゃんはあんたに堂々と顔を上げてほしいの」

「お姉ちゃん」

 拓人はふと、学校の勉強が難しくてついていけないことを言おうと思った。なぜ言おうと思ったのだろうか。姉の話を聞いて、もやもやする自分の中での問題を打ち明けようと思ったのだ。

「なあに?」

「お休み」

「お休み。拓人」

 拓人は暗闇で苦い顔をした。姉の期待を裏切ることは死刑になるのと同じだと考え、歯を食いしばった。

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