第9話

 雪川と有紗は裏寂れたホテルにいた。晴斗はそっと彼らの後からホテルの部屋に入った。


 据えたにおいのするベッドに腰掛け、有紗は無表情無感動な顔をして、じっと雪川を見つめた。髪の薄くなった額をごしごしとこすりながら、雪川は有紗に苦笑いを浮かべて見せた。彼は初めてらしく挙動不審に目を動かしていた。数分間ぼうと立っていた雪川は突然思いついたように言った。


「抱きしめても良いかな?」


 有紗は無感情に

「いいですよ」


 つま先歩きの忍び足で雪川は、ゆっくりと有紗に近づき、両手を広げて少女を捕まえた。彼は、有紗の髪の中に鼻を埋め、そこで深く呼吸した。


「なんだか臭いな。君、ちゃんと風呂に入っているのかい?」


 有紗は、ぱっと顔を赤らめた。


「一緒にシャワー浴びよう」雪川はそう言って、ズボンを脱ぎ、上着を脱いだ。

「君も」


 そう言われて、有紗も制服を脱いだ。そして、ブラジャーのしていなくて、とんがった乳首の浮き出たシャツとショーツ姿になると、一瞬息をつめて雪川の様子をうかがった。初めての相手だったので、彼がどんな反応をするだろうと思ったのだ。


 好奇心の目でみるか、豚などの汚らわしい家畜をみる目でみるか。雪川は有紗の体を食い入るように見つめていた。とくに乳首の浮き出たのや、ショーツの割れ目などを見て、深く考え込んでいるようだった。そんなふうにあけすけに見られると有紗は恥ずかしくなって、手でやらしく見えるだろうところを隠した。雪川は、はっとして、一瞬その下卑た目を責められるだろうと怯えたような顔をしたが、すぐに、彼女を好きにできるのだと思い出したようで、武者震いにぶるぶると頬をふるわせた。


 彼らは裸になると浴室に入った。浴槽に二人で入り、シャワーカーテンを閉めた。雪川は有紗に温かいシャワーを浴びせて体をぬらすと、シャワーを止め、ボディーソープを手で泡立て、有紗の腕、背中、胸と、泡をのばしていった。両手を使って、有紗の尻を鷲掴み、泡で手を滑らせた。雪川は鼻穴を膨らまし、興奮したように息を荒げた。指は奥まったところまで伸びた。有紗は顔を背け、目をきつく閉じ、うつむいている。雪川の勃起したペニスが有紗の腹部に固く当たった。彼らはそこでした。有紗は強く目を閉じて、唇を噛みきる勢いでかみしめ、揺すぶられていた。ときどき有紗は呻いた。ふっとはじける息の泡のように、甘い声でないた。


 風呂から上がると、彼らはバスローブを着て、ベッドに横になった。雪川は横になった有紗の上に馬乗りになり、彼女のローブの襟をはだけた。そして、白い膨らみを眺め、嬉しそうにその胸に頬ずりした。彼は有紗の左右の胸の間のくぼみに耳をくっつけ、その心音に耳を澄ませた。


「君の命の音が聞こえるよ。君も生きた人間なんだね」

「どういう意味ですか」


 有紗は馬鹿にされたように感じてむっとして言った。それはまるで自分の意見や感情をもたないような他人の好き勝手に出来るやすいおもちゃのように。


「いや、ふつう嫌じゃないか。僕の言いなりになるなんて、でも君は言いなりになって、まるで人形のようだ。大きい人形を抱いているのかな。いや、僕は現実味がないんだ。君のような若い女の子を抱けることが、信じられないんだ。夢で見ているようだ。それに君は本当に可愛いね。僕みたいなおじさんなんかが触ってもいいものなのかな……」

「いいんですよ。タダで体を明け渡しているわけじゃないんですもの。お金を払ってくださるのなら、私はどうなってもいいのです」

「どうなってもいい? じゃあ、百万円あげるから、僕と一緒に死んでくれるかい?」

 冗談めかして脅してやると、有紗は表情も変えずに

「百万円では少なすぎるわ」

「はは。じゃ、しょうがないや。へんだね。僕はときどき死にたいと思うのだよ。君みたいな可愛い子に抱きしめられながら死ねたなら幸せだろうなあ」


 そう言って、雪川は有紗の額に被さった前髪を手でかき分け後ろ髪に流した。有紗の美しい丸い額、濃く、太い眉が生えている。まつげの濃い、潤んだ目が雪川を見つめる。雪川は体を温かい綿で心地よく巻かれるのを感じた。彼は、犯罪的で、禁断ともいえる少女を抱き込めた幸せに胸があっぷあっぷして、息があがった。


「可愛い」

 雪川はとろけるような優しい微笑をうかべて言った。もはや彼は幸福だった。ふつうにしていちゃ触れられない美少女を好きに抱けるのだから。有紗の若いからだの瑞々しい感触は雪川に感動を与えた。彼は顔を赤らめ、きらきらと目を涙で潤ませた。


 嫌悪を覚えるべきなのだろうか。有紗は雪川が大切な壊れ物を扱うように口説いて、優しく触れるたびに、好きでもない男に触れられることを嫌だと思い、そう思うことが申し訳ないと感じた。彼に女を屈辱するという悪意が見あたらなかったから敵意を抱けなかった。彼は有紗と深くつながることに幸福を感じているようだった。有紗からはこの体以外何も返してやれないのに、見返りのない愛をくれるこの人が気の毒に思えた。そして、嫌なことを同情的にしている自分が情けなくて、憂鬱になる。

「死にたいですか?」

「え?」

「私も時々死にたいと思うんです」

「どうして」

「今の人生に不満があるから」

「うん。そっか。僕はね、思うの。ひとの人生は死にたいと思うように作られているって。世の中の全員がみんな死にたいと時々思うように人生がそういう道筋になっているんだ。神様は僕らが勝手に死んでくれるようにしたのさ」

「神様がどうしてそんなことするの?」

「神様は自分の分身を作りながら僕たちが神様以上になる素質を備えていたもので嫉妬して、人間がみずから命を絶つように組み込んだんだ。神様の知らないところでものすごい才能が神様を脅かすなんて事はあってはならないんだ」

「まあ、それじゃあ死にたいと思うのはみんな才能があるからなのね」

「そうさ」

「もし死にたいと思っても死なずに生きていたら……?」

「苦しみを与えるのさ。死ぬまで追いつめる」

「でも、世の中には死にたいと思うことをのりこえて幸せな人もいるわ」

「さあ、よくわからないけれど、たぶんその人は神様になったんだよ。生き神様さ。もういいだろう。僕は本当にわからなくなってきた」


 ふてくされたように、雪川は寝返りをうって、仰向けに寝転がった。彼は死をそこまで食い込んで追求されたことで、気分が萎えた。そして、ちょっぴり寂しくなった。虚しく暗い影が雪川の顔の半分におりていた。彼が余りにも寂しそうなので、有紗は子を思う母のように胸が騒ぎ、慰めてやろうと、雪川の胸に頬を寄せ、抱きついた。


「考えるから苦しいのよ。考えないことにしましょ。私いつも、苦しくなると、どうでも良いことを考えて、苦しさを紛らわすの。苦しみにどっぷり浸かるのも人間らしいでしょうけれど、それでほめてもらえるわけでも、人間が向上するわけでもないのだから、私は、それをないもの、自分の身に降りかかっていないこととして考えるのよ。たとえばトマトね。青い実から赤い実になるのを想像するの。そして、それを口に含んで歯をたてるの。酸っぱい味が口中に広がって、青臭い香りが鼻を抜けるの。なんでもいいの。考えることは。ただね、頭を苦しい方に向かわないように急いで適当なことを頭に思い描くのよ」

「おいおい、そんなこと言ってさ、君は、僕と今日こうして過ごしたことも、あとで考えないようにするのかい?」

「嫌ですか?」

「そんな贅沢言わないよ。どうせわかっているさ。汚いおやじと若い少女が愛し合うには無理がある。君だって、本当は嫌なんだろう。ただ、金につられて僕と一緒に過ごしてくれるだけだ。僕を好きなんじゃない。金が好きなんだ。金以外のことを考えないようにするのはとても理にかなっているじゃないか。僕は君から欲しいものを買い、それ以上のものまで欲しがったら、あんまり欲深だね。そう思わない? いいんだよ。僕のことはさ。僕のせいで君の心が汚されるのなら、僕の事なんて考えないで忘れてくれた方がよっぽどいい」

 そう言いながらも、雪川はどこか寂しげだった。

「私、余計なこと言ったわ」

 有紗は人を傷つけたということに敏感になり、心から申し訳なさそうに言った。

「いいんだよ」

 弱々しく雪川は言った。彼は有紗という少女が、自分の心の奥まで踏み込んだのを感じて、胸の奥が波立つのだった。

 事が終わると、雪川は有紗を家まで送りがてら、途中のお菓子屋でケーキを買ってやった。彼はそうやって、罪を償い、有紗の笑顔を見て、自分のせいで傷ついたという有紗の姿を忘れようとした。有紗は与一の爺さんのところで鍛えていたために、それは馴れた態度だった。はじめは嫌だと思ったが、二人きりの時間を過ごすと愛着もわいて、それほど悪い人に見えないことから、有紗は彼に愛想笑いを浮かべ、彼の心の重石をおろしてやったりなどした。


 最後まで何もせず、ずっと見ているだけだった。晴斗は自分の無力を嘆いた。晴斗は思った。有紗は嫌がっていなかった。助けも求めず、自分から抱かれていた。晴斗は、有紗という女が恐ろしく思えた。


 でも、僕の妹を汚したのだ。裁きを与えなくちゃ。でも、でも、良い人だった。そのように見えた。有紗を愛撫する手は優しかった。悲しい人なのかもしれない。晴斗は何かやらなきゃと仕返しを考えながら、有紗と分かれた雪川の後を追いかけた。ついに彼の家まできた。そこはありふれた二階建ての家で、黒い玄関扉を開けて、雪川は中に入る。晴斗もついて行った。家の中に足を踏み入れた瞬間すえた臭いがして、晴斗は息をとめた。部屋の奥に、ベッドがあり、雪川はまっすぐベッドの方にいく。ベッドにすでに誰かが横になっていた。それをみて、晴斗ははっとした。髪の毛のまばらな少女が両目を殆どひっくり返るくらいに上目かせ、口を大きく開けて、四肢をぐにゃりと曲げて、奇怪な格好をしている。その少女には明らかな重い障害があった。


「優芽、ただいま。お父さんだよ」

 雪川は、少女の頬に触れた。

「おしっこしたんだね。いまおむつを換えよう」

「おあーーーー」

「そうだね。怒っているの? 遅くなったから」

「あーーーー」

「ごめんね。優芽」

 そう言って、雪川は悲しそうに顔をゆがめた。


 腰回りのゴムでできたズボンを脱がし、おむつを新しいのに換えてやると、臭いを気にして、雪川は窓を少し開けた。涼しく新鮮な空気が入ってくると、雪川は家の中の空気と外のきれいな空気の差に驚くのだった。彼は窓を背にして立った。夕方で、夜に近かった。緋色の光が窓から射し、部屋を薄く照らしている。夕方の光を背にすると、体の前の面が暗い影で黒く塗られる。しばし、雪川はじっと立っていたが、その表情は暗くてよく見えなかったから、何を考えていたかはわからない。


 ふいに雪川は動き出した。彼はキッチンに行き、お湯を沸かして、インスタントコーヒーをカップに入れた。お湯が沸いて、お湯をカップに半分注ぎ、砂糖と牛乳を入れ、スプーンでからからとかき混ぜる。彼はカップを持って、優芽のいる部屋に行く。


「優芽、コーヒーだよ」

 雪川は自分で先にコーヒーをすすり、飲み込むと、それがうまいことをよく確かめて、それから、スプーンでコーヒーを掬い、優芽の口元に持っていった。優芽の口の中にコーヒーを入れると、味わうために優芽の口がもぐもぐ動く。舌を動かして、口の横にあふれたコーヒーの滴が一筋垂れた。それを雪川はティッシュでぬぐう。


「情けなくなるんだ、優芽。お前を見ていると」


 感情もなく、呼吸のように自然にあふれて飛び出た声に、雪川は、ぎょっとして目を見開いた。彼はこんなこと言うつもりはなかったのだ。彼は自分の言葉の魔力に恐れ、優芽の顔色をうかがった。まるで病気の彼女のせいで自分の格が下がるみたいな言い方だった。そうとられてしまうことを雪川はおそれた。


「違うんだ。優芽。お父さんは自分が情けないんだ。お前みたいな良いこの前では。お前のせいで情けないんじゃないんだよ。お父さんが出来ていない人間な為にお前のような優しい子が気の毒で、自分をせめてしまうのだよ」


 あわてて慰めるように取り繕う。優芽の涎が枕に落ちる。


「お父さんは優芽と同じくらいの年の女の子を見ると、どうしても嫉妬してしまって、憎んでしまうんだ。いけないことだね。女の子たちは悪くないのに。それで、それでね、いけないことだけれども、お父さんは女の子を下に組み敷いてしまって、根を上げさすのだよ。そうすると、その征服感がすべての嫌な気持ちを見えなくしてしまうんだ。お父さんは元気な女の子をいじめて楽しんでいるんだよ。それでね、そうすると、優芽がいっそういとおしくなるんだ。いじめているのは悪いことだと思うかい? でもお父さんは一つの傷跡に一万円払って、女の子に謝っているのだよ。女の子は嫌と言わない。いじめられることを喜んでいるんだ。ははは、馬鹿だろう。お前よりも馬鹿がいたよ」


 雪川は腹を抱えて笑った。その長い弁説は、最後を言いたいがためのくだらない羅列だった。そうだ。彼は娘よりも下の女の子を作ることで、劣等感を慰めていたのだ。なんとあわれな父親だろう。しかし、彼は自分の下にした女に対して可哀想だという同情も感じていた。彼はそうすることで、心で燃え上がる憎しみや恨みの汚いものが綺麗に忘れられるのだ。そして、彼は自分がひどく嫌らしい種類の人間だとよく理解していた。たとえ同情しても嫌らしい気持ちがあったのは事実だ。それだから、彼は泣きそうな赤い目をしていた。


「おおーうおお、はあがーあ」

 優芽は必死に何か伝えようとしていた。雪川は娘の吐く息に耳を澄ませ、なんて言ったのか解読しようとした。彼は何年もの介護で娘の言葉を理解できるようになっていた。晴斗はわからなかったのに、雪川には伝わったようだ。


「優芽、駄目だというのかい?」


 怯えたように震える声で雪川は言った。


 ふと雷鳴が起こった。雲行きが怪しく雨が降る気配だった。雪川は開けた窓に目をやった。そのとき雪川の充血した目に涙の膜が張り、きらりと光った。

「そうだね。こんなこと駄目だ。優芽のお父さんが尊敬できないお父さんじゃ、優芽も嫌だろうし。お父さんおかしいだろう。他に優芽よりも下の女の子を作らないと優芽を愛せないんだ。いや、愛しているんだ。でもお前をみるたびに劣等感が消えないんだ。誰よりも惨めな家族の気がして、それで、手を出してしまったのだよ。いま? いまは劣等感はない。いい気持ちだ。彼女に感謝だ」

 このおじさんは有紗を踏み台にして、幸せを得ようとしたのだ。晴斗は踏みつけにされた有紗を思って腹を立てた。しかし、すぐにその気持ちはやんだ。優芽がこっちを見ていた。晴斗の存在に気づいたように黒目が一瞬動いた。

「あぁっあぁっ、おいーがあー」

「なに? 誰かがいる?」

 雪川はすばしこく辺りを見渡した。そして、薄く開けてあった窓を大きく開けて、外に身を乗り出し、通りをみた。

「誰もいないよ」

「わあーー」優芽は怯えたような目をしていた。

「罪がお父さんたちを見ているんだ……この家族に災いあれ……と」

 雪川は感動したように言うと、急に胃に痛みを感じた。ポケットから瓶詰めの胃薬の錠剤を無造作に取り出し、口にほうりこんだ。そして、ぼりぼりと齧った。

「あー」お菓子と思ったのか、物欲しそうに優芽が指の先を少し動かす。

「優芽も欲しいのかい。いいよ。飲みやすいようにお茶に溶かそう」


 そう言って笑うと、雪川はキッチンに行き、冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、ガラスのコップに注いだ。そして、少し思案したように壁を見つめると、思い切ってポケットから財布をとりだし、小銭入れの中に隠し持っていた毒を抜き取った。白い粉薬のようなそれをお茶の中に混ぜると、雪川の青髭の口元がぶるぶると震える。彼はそのお茶の入ったコップをつかむと、一気に口の中に流し込んだ。コップが空になると、彼はコップを叩き割り、平然として、優芽の元に戻り、ベッドの横のいすに腰掛けた。彼は許せなかった。娘のせいで負い目を感じていた自分を慰めるためにしたことが。それは意地の悪い考えからしでかしたことであった。そして、優しいと思えるようなことも、意地悪の気持ちをごまかすことで、ぜんぜん清らかなところからくるものではない。僕は父として全くふさわしくない。そう思うことで、彼は娘を養うことから逃げようとしたのかも知れない。


 やがて、雪川は白い泡を吹き、眠るように逝った。白い輝くレースの布のようなものが雪川の死体から立ち上り、ふわふわしていた。幽霊になった雪川だった。彼は晴斗を見つけると、なんで知らない人が家の中にいるのだという顔をした。彼には見えていた。


「僕、有紗の兄です」

「僕は死んだのかな」

「そうですよ」

「娘に悪いことをした」

「僕の妹にも悪いことをしましたよね」

「ああ、責めないでくれよ。僕の臆病な意志が僕を突き動かしたんだ。僕が劣等感の固まりだということを忘れちゃいけない」

「それを考慮しても、あなたは悪い人だ」

「なんとでも言ってくれ。僕は死ぬよ。何度だって君らの怒りを飲み込んで死んであげる。それが僕の良心だ」

「いいえ、それは良心ではなく逃げですよ。しかも死ぬのは一回きりしかできません」

「厳しいな」

 ふてくされたように雪川の霊はベッドに腰掛けた。

「あなたが死んで娘さんはどうするんですか」

 簡単に自ら死んでしまった雪川に晴斗は腹が立った。彼を責め立てたくて、言った。

「週に二回ヘルパーが来るんだ。そのときに、僕の死んだのがわかるだろう。あとは役所がやってくれるよ」

「無責任ですよ」

「なに、いいんだ」

 雪川は自分の役目を終えたことに安堵し、軽い心地になっていた。

「僕なんて死んだ方がいいのさ。心の中で優芽を見下し、それがまずいと思って、他の女を見下し、それもまずくて、でも俺はそれをとっくにやってしまっていて、取り返しがつかない。自分の汚さは心の奥底からでるもので消せないのだし、心というのは治しようがないのだし。いなくなったほうが社会のためだろう。どうせ僕の周りには優しくて良い人間ばかりだ。僕のようなのはそんなにいないから生きづらいのだし。いないほうがいいのだから、僕のようなのはそんなにいないのだし」

「娘さん見てますよ」晴斗が教えてやると、雪川は優芽の顔をみた。彼女は泣いていた。そして必死に声を出して訴えかけていた。

「おああーん、ごええんえ、あっしああううお」

「お父さんごめんねあたしが悪いの、か優芽、ごめん。悪いのはお父さんだ。お父さんの心が汚すぎて、お前に苦労かけたね」


 親子が泣いているのを見るのは辛くて、晴斗は家をでようとした。


「待ちなさい。君は上へ行かないのかい?」


 雪川は意味深に天井を指さす。それがあの世のことだとすぐにわかった。


「まだ行きません。僕、家族を見守らなきゃ」

「僕は先に行こう。僕はやっぱり未熟だ。人間一人を世話できるほど出来た人間ではない。僕は自分がやっぱり嫌だ。神様が与えてくださったチャンスを不意にするほど僕は駄目人間だからね」

 そういって、雪川は逃げ出すいいわけをひりだした。晴斗は彼を哀れに思い、彼は逃げることしかできないのだと、同時に憎しみがわいてきた。簡単に死んで、僕は死にたくして死んだ訳じゃないのに。生きたかった。家族がどろどろになっていても、生きて守ってやりたかった。ずるい、そう思った。

「さよなら」

 晴斗は外にでた。そして、自分の家に向かった。


 外は真っ暗だった。家族はもう寝ているかなと思いながら、晴斗は静かに家の中に入った。家の中は暗い。誰かのいびきが聞こえる。みんな寝ているのだと思った。しかし、暗闇の中、ぎらりと光ものがみえて、じっと見据えると、輪郭がみえてきた。それは、拓人が目を見開いて暗闇を見つめているのだった。可哀想に拓人は眠れず考え込んでいた。いろんなことが拓人の心を苦しめていた。まず一つは先生の財布を盗んだこと。それを先輩にとがめられたこと。財布を捨ててしまい、謝る機会を失い、先生に苦しみを与えてしまったこと。有紗が男と連れだってどこかに行き、帰ってきて、顔を見ると、憂いをひめた寂しい顔をしていたこと、お母さんが有紗に紹介料払ってといい、有紗が大金を惜しげもなく、お母さんに渡したこと。その金はどこから出てきたのだろう。そのとき、何の紹介料? と拓人はお母さんに聞いた。すると、「パトロンだよ」といった。パトロンという言葉を知らない拓人はきょとんとしてしまった。

 お母さんは笑って「有紗を可愛がってくれる人がお小遣いをだすんだよ。有紗が出世するように援助するんだ」といった。「何のために援助するの? 見返りもないのに」というと、お母さんは含み笑いをして「あら、あんたそうおもう? 女ってだけで目の色を変える人が世の中にはいんの。女はね、男に出来ないことをするからね」そう言ってしどけなく節目になったお母さんをみながら、拓人は恐ろしくなって震えた。お姉ちゃんもなのかしら、拓人は考えた。お姉ちゃんもお母さんと同じように知らない男に愛して貰ってお金をもらうのだろうか。どんなことをするんだろう。いや、僕は知っている。体を合わせるのだ。拓人は息が詰まった。胸がかきむしられたようだ。しかし、姉の体が汚らしいとは思わなかった。病を患った体を思うように、儚く、可哀想に思うのだ。痛ましく思うのだ。


 声を抑えながら拓人は泣いた。すると、横で寝ていた有紗が気づき、

「どうしたの、拓ちゃん」

「家が貧乏だから、お姉ちゃんも変なことしないといけないんだろう」

「変て何? 何のこと?」

「男の人にお金貰っているんだろう?」

 有紗はどう返事して良いかわからないで、息をつめた。

「僕、働くよ。高校には行かないよ。医者にはならない。家にお金を入れたら、お姉ちゃんもう変なことしないよね」

「駄目よ。拓人は医者になるんでしょ。医者になるんだって言いなさい。お姉ちゃん医者になるって言わないと許さないから」


 そう言ったきり、有紗は寝返りを打って、拓人に背を向けた。その背中は微かに震えていた。笑っているのではない。涙を押し殺しているのだ。


 彼女は弟がいつか医者になり、輝かしい権力と富を得るという心の支えを失うことを恐れていた。いままで自分が頑張れたのは弟を立派にしたいがためだ。有紗は拓人の美しい未来を描くことで、心を癒していたのに。それがふいになるとしたら、自分の頑張りはいったいなんだったのであろう。


「お姉ちゃん、泣かないで」

「あんたがお姉ちゃんをいじめるから……」

「わかった。医者になるから……」

「本当ね?」

「本当」

 有紗は布団で涙を拭いて、仰向けになった。

「拓人が立派になったのを見届けられたらそれで良いの。それで、立派になった拓人がお姉ちゃんとお母さんを疎ましく思って忘れてしまってもいいの。お姉ちゃんは拓人が立派な人にすることが生き甲斐なんだから」

 そう言うのを聞きながら、拓人は額に汗がにじむのを感じた。彼は自分がとても立派な医者になれるとは思っていなかった。勉強も難しくてついていけない。そんな自分が医者になるだなんて。とにかくがんばるしかない。勉強をいっぱいするのだ。拓人は目が回る気がした。

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