第8話

 家にはいると、有紗がおかえりと言い、顔を見せる、姉の優しい顔が目に映ると、拓人は今にも泣き出しそうになった。鼻水が垂れないように鼻で息を吸い込み、口から息を吐いた。そうしても胸のふるえは収まらない。ただいまと言おうとして、呻くような声がでた。拓人は言葉を飲みこみ、すがるように姉を見た。有紗は拓人の不自然さに気づき、心配し、眉を上げて、目を大きく見開く。そして、くりっと小首を傾げる。


「どうしたの、拓人。何かあったの?」

 静かに押し込むように有紗は聞いた。


「え……っと」


 されど拓人はいえなかった。先生の金も盗み母と姉の金を盗んだのだから、もう盗みのベテランだ。弱音を吐いて罪をこぼし、身を軽くするような、やわではない。その期間は過ぎ去り、彼は罪と肌の肉が癒着していた。罪を打ち明けることは罪を裏切ること。つまり自分を裏切り、殺すことなのだ。彼は固くなに思った。辛いけれど絶対に話しちゃだめだ。それを聞かされる立場の人になったつもりで考えるんだ。驚きと、信じられないという疑い、罪を持った者に対する拒絶。失望。辛いけれど、正しいと思うから我慢するのだ。ぼくは良心の呵責に悩まされている。しかし、その良心は自分のことしか考えていない。僕だと知ったときの相手の気持ちの落ち込みをフォローすることはぜんぜん考えていないのだ。考えているのは、ただただ、罪を打ち明けて謝り、楽になることだ。馬鹿だろう。謝っても消えた金は戻ってこないのに!


「雀が……」拓人は必死に言葉を探した。「猫が雀を食べていたんだ。可哀想だと思ってさ」すでににじんだ涙の言い訳をする。


「それで落ち込んでいたの? 拓人は優しいから。あんなに可愛いけど雀も猫の餌だものね。愛嬌のある生き物が殺されるのは悲しいわね。でも、ムカデや毛虫が鳥に食べられるのを見ても何にも思わないのは不思議ね」

「ムカデや毛虫は鳴かないじゃない」

「そうね。声があるからだわ」

「うん」


 勉強するよといって、拓人は部屋に入った。

 鉛筆を鼻と上唇の間に挟んで、頬杖をつき、ぼうとしていると、拓人はだんだん心が落ち着いてきた。もうやらないんだ。拓人は心に決めた。もうお金は盗まない。僕のことを非難する先輩達とも縁を切れば、もう怖いことは何もない。とたん、拓人はすっきりした気持ちになった。そうだ、もう終わったことだ。僕は今日を境に心を入れ替えるのだから、盗みをしていた自分は、過去の自分であり、今の自分ではない。責任をすべて過去の自分に押しつけると、今の自分は実に身軽になった。今新たな心境になった自分こそ本当の自分という気がして、そんな自分を愛せる気配に拓人は楽観した。


 夕方になると、拓人は夜ご飯の準備をする。おかずはナスの焼いたのに醤油をかけたもの。わかめの味噌汁。白いご飯。おいしい湯気に誘われて、お父さんが襖を開け、壁のように突っ立っていた。彼は口を閉じて顎を下げ、鼻の下をのばし、恨めしそうに見ていた。気味の悪いお父さんをみて、拓人は笑ってしまった。あんなに怖かったお父さんも、いつの日だったか子供達に詫びるように優しくなり、その次の日には壊れてしまった。悪いことをして謝ると人格が壊れてしまうのなら、拓人はふいに怖くなる。僕は謝らない。だって罪がばれていないうちは静かにするがいいだろう。それに僕は生まれ変わった。謝罪の代わりに僕は良い人間に生まれ変わるのだ。


 なんだか外が騒がしかった。拓人は男と女の声を聞いた気がして、窓から外をのぞいた。夕暮れの寂しい暗がりに、男女の姿があった。その女の方は母だった。

「本当なんだね。くれるんだね」

「ああ、君こそ本当なんだろう。本当に言うことを簡単に聞く阿呆の女の子がいるってのは」

「本当だよう」

 お母さんの高い笑い声が聞こえた。

 玄関をがらがらと開ける音のあとすぐに

「有紗! いるの? ちょっときて」というお母さんの声に、有紗は何だろうそんなに騒いでというように拓人にちょっと目配せして、出て行った。有紗は玄関にちびで女みたいに華奢な体をした、陰険な顔の青白い男とお母さんをみつけて、嫌な予感がし、きゅっと体に力を入れた。


「雪川さんよ。有紗。この人あんたと知り合いたいって言うから。うちのお客さんなんだけど。つれてきたの。この人さ、お金持ちなんだよ」


 はしゃいだように言う母の横で、雪川は高慢と侮蔑をこめて有紗をなめるように見て、欲深く目の奥を光らせた。


「どうしてもあんたに会いたいって言うからさ。あんたも小遣いほしいだろうし、雪川さんと遊んできたら」

 雪川と遊びにいくことが何を意味しているのか悟った有紗は苦い顔をした。

「今は遅いし」有紗は後込みした。

「いいよ。明日の朝までに帰ればいいじゃない。甘えといでよ」

 そういうお母さんは、有紗をどうしても雪川と一緒に外へやってしまいたいようだった。

 暗く沈んだ顔をして、有紗はこめかみを神経質にぴくぴくと動かした。

 雪川は罪の呵責でも感じているのか、喉元の違和感を取り除こうとするように何度か咳払いした。その咳のしかたがねちっこくて気味が悪かった。

「有紗、行っておいでよ」

 お母さんにしつこく言われると、有紗は泣きそうになった。

 姉が行きたくないと言うのが聞き耳を立てていた拓人にも伝わった。なんでお姉ちゃんはあんな気持ちの悪い男と遊びに外に出ないといけないんだ。助け船を出すつもりで

「お姉ちゃん。ごはんできたよ」

 と玄関に首を出して姉に行った。有紗は振り返り、不安でいっぱいの泣き出しそうな顔をみせた。お姉ちゃんは嫌なんだ。拓人はすぐにわかった。しかし、お母さんの声は強かった。

「有紗。ごはんは雪川さんと食べな。もういいでしょう。行ってきなさいよ、ほら早く、ほら」

 有紗は雪川の意地悪そうな器量の悪い顔をみると、頭がくらくらして気を失いかけた。だが、彼女は母に逆らうことは鬼に逆らうようなもので、恐ろしかった。

「わかりました」有紗は目をつむって、目の前のことは何も見えなくし、恐れを隠し、靴を履いた。

 雪川はくだらない者を見るように唇をゆがめて、顎を反らした。そうすることで、彼は女をちっぽけな存在にしてしまうのだった。

「お姉ちゃん」

 拓人は呼び止めた。

「ごめんね。拓人。お姉ちゃん、ちょっと遊んでくるから。先に寝てて」

「行こう」

 雪川は有紗の尻を掴んで引き寄せた。そのさまが拓人の目に弾丸のごとく飛び込んできて、拓人は、ぎょっとした。有紗は嫌とも言わず、されるがままにうつむいてしおらしくしていた。


 二人が行ってしまうと、拓人は母を非難がましく見て言った。彼は母のせいで姉があんな男と出て行ったのだと思ったのだ。母が姉にしつこく遊びに行くように言わなければ、姉はいかなかった。姉の嫌そうな様子が、拓人を苦しめ、可哀想に思わせた。

「大丈夫かなあ。あの二人」

 お母さんはひどく面白がって笑っていた。

 すると、拓人は母の冷たさがしゃくに障った。むすっとむくれて、不愉快な気持ちを表したが、母は拓人を見ても、なお、そんな悪い顔を見るより有紗と雪川が二人して出かけたことがおかしくてたまらないようで、いつまでもにやけていた。


 壁にとけ込むように晴斗は立っていた。いまさっきの出来事をみて、晴斗は胸に杭を打たれたみたいに心臓がつぶれた気がした。女と男がつれだっていくのだ。与一の爺さんとやったことと同じ事を有紗がするのだ、そう気づいて、彼は悲しみでいっぱいになった。有紗を追いかけて何が行われるか見てやることもできた。しかし、晴斗は行きたくなかった。見たくなかった。恐ろしいのだ。最悪な出来事を目撃してしまうことが。有紗の神聖な扉が汚い男に不用意に何度も開けられたりしている事実がたえられなかった。兄として守ってやれないことにいらだった。


 晴斗は考えた。あの雪川という人、お父さんのときのように体の中に入ってこわしてやろうか。しかし、彼は自分の価値観や考えや意志を持った人を簡単に壊してしまうのは道徳的に悪い事のように思え、大きな損害で、それをするのは僕のような子供がやっていいようなものではないと思った。ひとりの人間を壊す責任の重さが、晴斗にのし掛かるのだ。それは、罪悪感として残るものだ。以前の大柄な熊のようなお父さんを消してしまった力に彼は恐怖すら感じていた。もし、有紗を苦しめる男達の心を壊しても、お母さんが新しい人を見つけてきて有紗にあてがうだろう。ひょっとして、お母さんを壊してやるべきなのではないか。ふと感じた疑問に晴斗は身震いした。


 お母さんはお母さんなのだ。どんなことをしようが、やはり、僕たちのお母さん。お母さんまで壊れたら、拓人と有紗はどう思うだろうか。どうやってくらしていくのだろうか。有紗はお母さんから教わったことをやめるだろうか。


 有紗に従おう。本当にだめなことなら有紗もしないはずだ。有紗がすることが正しいのだ。もはや晴斗は正義とかいう自分の意志を放棄した。自分の気持ちを疑い不信感を抱き、よくわからなくなって、一番の被害者である有紗のこえに耳を傾けることにしたのだ。有紗がいいというなら僕もいいという。僕は知っておくべきだ。有紗は無抵抗に何でも受け入れている。それが彼女の許していいことなのだろうか。ちがう本当は、無抵抗なのは、諦めからである。しかし、晴斗は自分で判断することから逃げた。有紗に従おう。有紗がいいというのなら良いのだ。晴斗は、被害を受けている本人ではなく、部外者であり、そこから何かを決めるのは、違う気がした。晴斗は自分の意見を裁かれることを怯えた。失敗したくなかったのだ。だから、責任を有紗に投げつけた。


 走った。晴斗は有紗を追いかけた。有紗が嫌だといったら、僕は助けよう。晴斗は胸に訴える刺激が欲しかった。このとき、晴斗は怯えていたのだ。またお父さんの時のように人が壊れるのを見るのは嫌だ。

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