第7話

 息苦しい思いで拓人は目が覚めた。寝相の悪いお父さんが、太い腕を拓人の腹の上に投げ出して寝ていたのだ。腹立たしい気持ちで、拓人はお父さんの腕を払いのけた。天気のいい朝の日差しが窓から降り注いでいる。


 欠伸をして拓人は頭を掻いた。頭がぼうと重たい。昨日一生懸命頭を使った気がするが、何を考えていたのだか忘れてしまった。口を開けていびきを掻いているお父さんの顔を拓人は半目で眺める。お父さんの向こうに、お母さんが横になって寝ている姿が目に飛び込んできた。拓人はぐっと息が詰まった。お母さんは知らない男と一緒の布団に寝ているのだ。そう思い出すと、お母さんに嫌悪感を抱いた。拓人は起きて着替えると、朝ご飯を作る。目玉焼きを油のしいたフライパンで熱して、フライ返しでひっくり返して両面焼く。ご飯を炊けるまでの間に少し勉強する。朝早くに勉強すると頭に入る気がする。姉も起きて、茶碗などをテーブルにならべる。そうして姉の有紗は元気のない憂鬱そうな顔をしている。ふいに姉は勉強に熱中している弟の小さな背中に身を投げるようにして抱きついた。


「なに? どうしたの。お姉ちゃん」


 びっくりして拓人は、自分が驚いたことが格好悪く思い、平気さを気取るために薄笑いを浮かべた。しかし、彼の心臓は激しく轟いていた。

「私たち姉弟よね」

 震えた声で有紗は言った。

「そうだよ」

 拓人は訳が分からず答えた。

「お姉ちゃんを愛しているの?」有紗は強いるように聞いた。

「大好きだよ。僕、お姉ちゃんが一番」

 拓人は姉への愛情を示すために、肩を抱く姉の手を握った。

「本当ね?」

「うん」

 すっかり気持ちが楽になった有紗は拓人から離れた。

 なんだか得体の知れない不安が拓人の胸に宿った。


 ごはんを食べて、姉と学校に向かう。

 憂鬱そうな顔をしている姉の姿が、拓人はひどく気にかかった。

 僕はお姉ちゃんの愛を裏切っている。拓人は姉から盗んだ金のことを考えた。お姉ちゃんは何も知らない。僕が意地汚い人間だって。


 自分の悪童ぷりに閉口する。罪を犯してそしらぬ顔をするなんて、僕はなんて器用なのだろう。

 拓人は心の中で自分を責めた。お姉ちゃんに謝るんだ。だが、謝って何になる。お金は返せない。とっくに使ってしまったのだから。謝って許してもらえるわけがない。言わなくてもいい。お姉ちゃんは何も知らない。知らないほうがいい。いらなく知って失望されるくらいだったら。失望するときの姉の苦しみを思うと、拓人はそっとしておきたかった。自分の罪を明かさない方が幸せでいられるならその方がいい。


 学校の教室の前で有紗と別れ、拓人は自分の教室に入った。そして、すぐに悪友の新太の所へ言った。彼は例のごとく教室の端の本棚の前で、本を読んでいた。

「新太君おはよ」拓人は言った。

「やあ、兄弟」新太は本から目を上げて、ニヤリと笑った。「今日もお金があるの?」

「ないよ」

 そう言うと、新太は失望したようにため息を吐いた。

「昨日はどうも新世界だったね。あれ見たかい?」

 目先の楽しみがないと知ると、過去の楽しみに浸って、新太は言った。

「あれってあれ?」

 新太はにやにやと笑い、拓人もつられたようににやにや笑った。

「芝生の生えた土は湿っているのさ」拓人は流し目をして、同級生の女子を卑猥な気持ちでみやった。

 それを見た新太はふっと吹き出した。

「女の子はみんなあれなんだろう。参っちゃうな。白い下着の中があんなグロテスクだなんてね」

「女の子も僕たちの下着の中のものをエイリアンと思っているかも知れないよ」

 二人は笑いあった。秘密の扉の鍵を得たみたいに、拓人たちは同級生よりも優位にたった気がして、面白かった。

「先輩達と今日も遊ぼうよ」

 拓人はまた新たな楽しみを見つけたくて、言った。

「お金がないと大した遊びができないから、先輩達も僕らと遊んでくれるかどうかわかんないんだよね」新太はしぶった。

「お金か」

「でも、いちおう誘ってみよう」


 休み時間、拓人と新太は先輩の教室に向かった。岩崎先輩と山内先輩は拓人達の姿を見るとすぐに教室から出てきた。

「先輩、今日はお金ないんですけど、遊びません?」新太が腰を低くして媚びる目で言うと、岩崎先輩と山内先輩は目配せして、一瞬嫌そうな顔をした。拓人はそれを見て、不安になった。お金がないと遊んでくれないのかと、先輩の愛情の薄さに、ひどく悲しい気持ちになって、傷ついた。

 しかし、岩崎先輩は笑顔を浮かべて

「いいよ」と言った。


 拓人は嬉しい反面申し訳なかった。後輩の気持ちに答えてくれる先輩の優しさが身にしみて、彼を喜ばせて、なにかで詫びたかった。自分なんか何も価値がないのにつきあってくれるなんて、すごいと嬉しいし、タダでこの愛情を貰うには忍びないのだった。


 放課後、掃除当番で、職員室を掃除しなくてはいけなかった。クラスの女子に言われ、そうだったと拓人は思い出した。

「掃除があるからちょっと待ってて」

 新太に言って、拓人は職員室の掃除に向かった。掃除用具のロッカーからほうきをとって、床をはく。先生はまばらにいた。椅子をどかし、机の下もはく。すると、先生のバックがおいてあるのを見つけた。バックの口は開いていて黒い財布がのぞいていた。拓人はお金があることを悟って、興奮したように鼻をふくらませた。欲しくてすぐに手に入れたくて、誰も見ていないことを確かめて、拓人は屈み、財布を奪って、ポケットにつっこんだ。何気ないように掃除を終えて、拓人はどきどきしながら新太のところへ行った。

 拓人は悪いことをして、自分が偉くなった気がした。誰もしないことをあえてしたことに彼は価値を見いだした。自分を賞賛した。悪いことしている自分格好いいと思わないと、自分のずるさが恐ろしくて震えてしまいそうだった。

「取ってきた」

 拓人はスケベそうな顔をして、新太に財布を見せた。

「先生の財布」

 新太は息を飲んだ。

「まじ? すげえ」

 新太は感心したように言った。彼には自分たちよりも上の立場の所有物を簡単に盗めたことが大変面白く思えて、そして、お金が手に入ったことが嬉しかった。

 ほくほくした気分で、先輩達の所に行った。

「先輩、こいつ先生の財布盗んだんですよ」

 新太が言うのを誇らしい気分で聞いていた。

 すごいと言われたかった。しかし岩崎先輩は怖い顔をして、

「それ泥棒だろ。騒がれるぞ。すぐ返してこい」といった。

 威圧されて、拓人はだんまりした。

「サイテーだな」

と山内先輩も面白そうに言った。

 拓人は涙がこみ上げてきた。先輩の為に持ってきたのに。

「でも凄いですよね。先生の財布を盗むなんて。すごい度胸だ」

 新太は慰めるように言った。

「いいんだ」

 友人の袖を引っ張って、それ以上何か言わないように頼み込む。先輩達の軽蔑の視線が痛かった。僕は行きすぎたのだ。間違ったことをしたのだ。先輩の愛を買うには、他人のお金じゃだめなのだ。盗むことになれて、盗みに罪悪感を覚えず、先輩達に盗んだと言ったのが間違いだ。盗みというのは常識はずれのことなのだから。僕は否定されるべきだし、裁かれるべきだ。先輩達は悪そうだけど悪じゃない。だから、僕のしたことを許さない。僕は先輩達を僕の心の最低の部分まで貶めて、想像でこれくらいなら許してくれるだろう。先輩達も喜ぶと、げひた心で先輩達のランクを侮辱的にけ落として値踏みしていた。僕は最低だ。


「お前、馬鹿じゃねえの。返して来いよ。騒ぎになるぞ」


 山内先輩に尻を叩かれて、拓人は一人ともだちの群から離れた。廊下にでると、拓人の足取りは重くなる。返しにいく。見つかったらなんて言われる。なんて言い訳する。取るときは興奮して、楽々と盗めたが、それを返すとなると、気が重くなり、どうしてもいけない。


 職員室の前に来て、窓から、中を覗いた。拓人が盗んだ財布の持ち主だろう理科の竹内先生が席に座っていた。彼の足下には財布の引き抜かれた鞄がある。あっと拓人は思った。竹内先生の財布だったのか。彼には親しみを感じていたので、こうなってみるとまずいと思った。


 今、いけない。ばれたくない。僕が盗んだと先生の信頼を裏切ったと思われたくない。先生がいるから、返しにいけない。ばれないように返したかったのに。手に持った財布が嫌に重かった。しばらく待っていたが先生が席をどける気配はない。代わりにほかの太った先生が職員室に入ろうとして、拓人に声をかけた。

「君、なにか用あるの?」

「いいえ」

 拓人は胃がひゅっと冷えた。

 慌てて学校を出た。彼は帰ることにした。帰り道の途中にある橋の真ん中で、彼は思い詰めたように立ち止まり、財布をとりだした。財布の重さが拓人には苦痛に感じた。これが罪の重さなきがした。彼は財布を川に向かって投げた。ぽちゃんという音がして、財布は革の水面に浮かびながら流れていった。彼は自分の罪という失敗を無かったことにしたかった。手元に財布をいつまでも握っていることが嫌で、たまらず川に投げ捨ててしまった。彼は後悔した。彼は財布を盗まれた先生の気持ちになった。大切なカードやお金が入っていた。先生は慌てるだろう。探すだろう。でも無くて、悔しくて、どうしてだと怒るだろう。喪失感に悲しくなるだろう。


 拓人は逃げるように走った。走って家までたどりつく。頭がしめつけられ、胸を強く押されているみたいな圧迫感があった。眉間にしわを寄せ、唇が自然とへの字になった。両目に涙が浮かぶ。先輩の信頼を裏切ったことが許せない。冷たくあしらうような先輩の声を思い出すと、拓人は絶望した。拓人は先輩達を愛していた。だから、冷たくされたのが辛かった。そして、財布の持ち主の先生のことも。拓人は先生が恐ろしかった。先生だけが、拓人に裁きの魔法をかけられるのだと思い、その魔法がとても辛く冷たいものである気がした。ああ! 竹内先生は、僕に優しかったのに。

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