第6話

 大金を手にした拓人は、心が浮ついた気分だった。楽しくておかしくて、でもその金が本来自分のものじゃないから、うち震えるような怖さもあった。金にバリアがはってあるみたいに、手に握っても自分の肌になじまない。まだ使わないうちから次の瞬間には手の中から消えていたなんてことになったほうが、拓人には納得がいった。


 この金を使ってしまおう。でも気が咎める。僕が盗んだせいで、お母さんの中絶のお金が足りないとなったら、お母さんは中絶を思いとどまるだろうか。いっそそうなったらいい。僕がお兄ちゃんの生まれ変わりかも知れない赤ちゃんの命を救えたらどうだろう。拓人は強い感動に胸が迫った。僕の弟か妹のために僕はお金を使うのだ。そうして、拓人は自分の罪に罪悪感を抱かないために、聞こえのいい言い訳をする。


 学校で、拓人は新太を捕まえ、金があるんだと、熱い息を吐きかけて教えた。

「毎日君はどこから金を調達してくるんだい」

 新太は感心したようにいった。

「つてがあるんだ」

 まさか親の金を盗んだとはいえず、拓人はうそぶいた。

「ふうん。君って金持ちだね。すごいや。ゲーセンに行くんだろう。先輩たちも連れてさ」

「そうさ。僕はめぐまれない君たちに恵んでやる神父さ」

「アーメン」

 新太はキリスト教のお祈りのポーズをとった。拓人は嬉しくなって、舌を見せて笑った。

「神と崇めよ」

 てっきりゲーセンに行くと思ったら、違っていた。山口先輩が拓人に頼んだ。

「その金俺に預けてくれないか。楽しい事を教えてやるからさ」

 先輩から頼まれると、拓人も断りづらかた。

「いいですよ」と言ったものの、自分の金なのに先輩に好きに使われることが不服だった。自分の監視の元にゲーセンでお金を使うのとはまた違う。先輩はスマホを操作し、指で文字を打っていた。

「どこかに連絡しているんですか」拓人は聞いた。

「そんなとこ。SNSで人募ってんのさ。今ここに呼ぶから」山内先輩は拓人を見ずにスマホに視線を落としたまま言った。

「え、いま呼ぶんですか。何でですか」

「楽しいことすんのよ。女呼んだよ。隠語つかって」

 山内先輩と岩崎先輩は目配せして、にやりと笑った。

 拓人と新太は意味がわからず、二人で心配そうに先輩を見やった。

「駅に行くぞ」


 拓人たちは駅に行き、そこで色黒の太り気味の女と合流した。女は自分は二十四歳だと言っていた。五人でカラオケに行き、そこの個室で、女はみんなの前でストリップした。自らの胸をもみしだき、ブラウスのボタンをはずして、大きな乳を、黒い乳首のとがった大きな乳を揺らして、みせた。下着を脱ぎ、スカートをめくって黒い茂みをみせて、割れた薄い肉を摘んで、その奥の湿った部分をみせた。拓人は女のそこを初めてしっかりと見た。気持ち悪いと思った。自分の気分が萎えたのが、他の人に悪い印象を与えはせぬかと思い、拓人は友達の姿を眺め回した。新太は自分と同じようにきょろきょろして怖じ気付いていたが、それでも面白そうな顔を浮かべるよう頑張っていた。岩崎先輩と山内先輩は目を血走らせて、鼻息を荒くし、今にも飛びかかろうとする獅子のように前のめりになっていた。山内先輩は股間に手を持っていて、ズボンのチャックをおろし、言った。


「おい、ババア、入れてやるから来いよ」

「誰がババアだ」女はむっとして言った。

「我慢できねえよ」

 女は人差し指を立てて、目を細めた。

「これだよ、あんた持ってるの?」

「千円か」

「バカにしてるよ」女は怒ったように言った。「もう帰るからね。五千円だして、今日の見せ物代」

「カラオケの料金の釣りで払うよ」

「拓人、お前、サービスしてもらえよ。お前の金なんだから」

 岩崎先輩に言われて、拓人は困惑した。サービスって何をしてもらうんだ。

「ババア、こいつにサービスしてくれ」山内先輩は上機嫌で言った。

「口が悪い奴の言うことは聞きたくないね」

 女はそう言って、下着をはく。

「頼むよ。こいつのなけなしの小遣いで、こうやってあんたと会えたんだから。可愛いだろう。中学一年生だぜ。ババアの相手するなんて犯罪だ。こっちが金欲しいくらいだぜ」


 女は拓人を品定めするように見た。拓人は頬が赤くなった。女のあそこの気持ち悪さが頭に浮かんで、汚いと思い、触れて欲しくなかった。顔を逸らすと、それをどうとったのか、女は頷き、はだけたブラウスからもろだしの乳房を二の腕でよせて、拓人の顔に押しつけた。乳首のつんつんした塊が頬を転がる。柔らかくてくすぐったくて、恥ずかしくて、気持ちよくて、ぞくりとする快感がせり上がり、拓人は思わずのけぞった。女は声を上げて笑った。気づくと鼻の穴から赤い血が一筋たれていた。


「こいつマジかわいいな」

 と先輩たちも笑っていた。

 たった一日で拓人の盗んだ金は消えた。すると、拓人は心臓を落っことしてきたみたいに胸のすかすかした残念な気持ちになった。楽しいことにお金を使えて嬉しかった反面、その金が自分の金ではなく、盗んだ金なので、それを返すことなく使ってしまったことに罪悪感を覚えた。


 家に帰ると、すぐに居間の隣の部屋に引っ込んで、勉強道具をとりだし、拓人は勉強に熱中した。彼はこう思った。お金持ちになるんだ。いっぱい勉強して良い高校と大学に入って、医者になるんだ。そうして、お母さんとお姉ちゃんにお金を倍にして返すんだ。

拓人は教科書の文字を見ているうちに文字がにじむ。今日会った女の乳首の固いころころした感触が、頬によぎり、こんな恥ずかしい、きっと母と姉の前ではいえないことにお金を使ってしまった事へ後悔を覚えた。愚かしいことだ。お母さんとお姉ちゃんに知られたら絶対冷たい軽蔑の目でみられることだろう。拓人は自分が間違ったことをしたと知っていた。だから、胸が迫り、悔しくて涙がこみあげてきた。なんてことにお金を使ってしまったんだろう。もやもやしながら、何もかも忘れ去ろうとするように勉強に集中していたら、ごはんの準備をするのを忘れてしまった。有紗が帰ってきて、

「あら、ごはんの準備していないの」と言われ、拓人ははっと我に返った。

「拓人、具合でも悪いの?」

 いつもと違う弟の行動を心配して、有紗はそっと襖を開けて、拓人の様子を見た。

 拓人は教科書から顔を上げた。姉の姿を見ると、拓人は針で喉を突かれたみたいに痛みを感じた。

「忘れてた」小さな声でそう呟いた。

「勉強してたの?」有紗は拓人の手元のびっしりと文字で黒くなったノートをのぞいて優しく聞いた。

「そう。だって、僕、勉強しなきゃ。勉強しなきゃ医者になんてなれないんだからさ」拓人は追いつめられた気がして、怒ったような口調で言ってしまい、自分の口調の荒さに驚いて恐ろしくなった。

 有紗は優しい眼差しで、

「いいよ。勉強してて。ごはんはお姉ちゃんが作るから」

「僕も手伝うよ」さっきの怒った言葉を弁解しようと拓人は甘えるように言った。

「いいよ。あんたせっかく集中してたのに。ごめんね」

「ううん、もう疲れたし、僕も息抜きしたいから」

「そう? じゃあ、一緒に作ろうか」

 ほうれん草を茹でて、お浸しを作り、味噌汁を作った。朝に炊いたごはんがあるので、今日の夜ご飯ができた。

 スプーンですくったご飯を有紗がお父さんに食べさせているのを、じっと見つめて拓人はご飯を口に入れ、飲み込んだ。

「お母さん赤ちゃんおろすって本当かな」

 ぽっかりと思い出したように浮かんだ疑問をそのまま口にした。

 拓人の呟きに有紗は不愉快そうに眉をひそめた。

「僕は生んで欲しいよ。弟か妹ができるのって嬉しいもん」

「そう言う問題じゃないのよ」

「お金がかかるから生まないの?」

「そう言う問題でもないの」

「どうして? 僕たちは生んで、新しい命は生まないの?」

「拓人」

 有紗は体ごと拓人の方を向いて、改まったように言った。


「あんたにも知っておいて欲しいのよ。もう中学生になったんだし、いいわよね。ちゃんと聞いてね。これを聞いて、お母さんを嫌いにならないでね。あのね、お母さんね、世間体の悪い仕事をしていてね。それで、子供ができることがあるの。お父さんとの子供じゃなくて、知らない男のひととの子供よ。欲しくて生まれる子供じゃないの。失敗して生まれる子供だから、いらないの。わかるかな。愛していない人との子供だから、愛せないから生まないの。他人に言っちゃだめよ。この話はお姉ちゃんとの秘密。お母さんを悪く思わないで。こうするしかないの。生きていくために、お母さんは一生懸命仕事しているんだから。いつかあんたも気持ち悪いとか思って嫌悪するときもくるでしょうが、貧乏になるとね、女というのはね、落ちるところまで落ちていくものなの。うちは裕福な家ではないのだからね」


 有紗は服のそでで目元を拭った。

 ふと、ストリップしている太った浅黒い肌の女と痩せた母親の姿が重なった。

 どういうこと?

 拓人は押し黙って考え込んだ。

 お父さんとの子供じゃない。知らない人との子供。

 うそ、じゃあ、お母さんは淫売だ。

 がんと殴られたみたいに目の前が暗くなった。

 ぼんやりしていたために、拓人は味噌汁の入ったお椀を手に持って、それがつるりと滑って、膝の上にぶちまけてしまった。その熱さに驚いて、拓人は跳ね上がった。


「拓人、大丈夫?」

 素早く有紗が塗れ雑巾で拓人の汚れたところを拭いた。


「あーあ、こんなに濡れてる。もうズボン脱いじゃって。洗うから」


 お椀をひっくり返した失態が、どうでもいいことなのに、このときはどうしても許せなくて、失態した自分自身に腹が立った。拓人は顔をくしゃりとゆがめた。本当はお母さんに怒りたかったのだ。しかし、お母さんには刃向かうことができなかった。愛していたからだ。だから、拓人は怒りを自分にぶつけた。他人をなぐるよりも自分を殴る方がやりやすい。


「何? 泣くの?」

 有紗は拓人の歪んだ顔を見て、怖そうに言った。

 しかし、拓人は泣けなかった。涙が出てこない。そうすると、拓人は感情の毒々しいものを吐き出せない気持ち悪さを感じて、面白くなかった。


 ズボンを脱ぐと、熱い味噌汁をこぼした所が、軽いやけどで赤くなっていた。痛くはなかった。水で濡らしたティッシュを足の赤くなったところに貼って、熱が引くまで、下半身は下着一枚で足を投げ出し、居間で休んだ。拓人は洗い物をしている姉を見ながら、お母さんの帰りが遅いことを考えた。お母さんはずっと知らない男の人と寝ているのだろうか。保健の授業で習った。知らない男の肉棒をお母さんは自分の体の内部に迎え入れているのだ。夫婦じゃないのにそんなことするなんて、不貞だ。だけど、赤ちゃんは生んで欲しいと思う。違うお父さんの子でも、拓人は小さい命ができることを純粋に喜んだのだ。その小さな命を迎えて、自分の子分として従えてみたかった。しかし、お母さんはその小さな命を捨ててしまった。今日病院に行ったのかも知れない。不貞に殺人。これが僕のお母さん。拓人は悲しくなった。


「まだ起きてる?」

 洗い物を終えた有紗が、お父さんを寝かせながら居間で休んでいる拓人に聞いた。

「ううん、今日はもういいや。寝るよ」

 拓人は布団の中に入った。なかなか寝付けなかった。お母さんが帰ってくるまでとうとう起きていた。居間に電気がともり、拓人たちの寝ている隣の真っ暗な部屋に、襖の隙間から一筋の明かりが漏れた。


 缶ビールを開ける音がした。お母さんは一人で遅い夜ご飯をとる。

 拓人は母の気配を感じて、気持ちが高ぶった。

 ねえ、お母さん、赤ちゃんどうしたの?

 今日病院に行ったの?

 それで、まだお母さんのお腹にはいるの? いないの?

 今日も男の人と寝たの?

 ぶわあと恐ろしい質問が頭に浮かんで口から出そうになった。しかし、拓人は母に聞けなかった。聞かなくてもわかっていた。拓人は母の咀嚼音から逃れるように暗い眠りの世界に沈んだ。

 拓人が寝た後しばらくして、有紗がむくりと布団から起きあがって、隣の居間に入っていった。

「お母さん」

「なに、まだ起きてたのあんた」

 お母さんは首をねじって、有紗を振り返ると、鼻で笑った。

「病院行ったの? あたし気になって」有紗はお母さんのとなりにひざを突いて座った。

「行ったよ」

「で、おろしたの?」

「まだだよ。手術の日を決めたの」

 どうでもいいことを言うようにしらけ顔でお母さんは言った。

 両手で顔を覆って、有紗は静かに泣き出した。

「なに泣いてんの」お母さんは馬鹿にしたように言った。

「だって、生んで欲しいの」

「馬鹿。お母さんは生みたくないの。誰の子かわからない子供なんて気味が悪いじゃないか。一緒に住みたかないね。あんたは愛せるの? あたしは愛せないよ、汚らしい男の顔が浮かんでどうしてもやだね」

「でも、せっかくの命なのに」

「世間体が悪いよ」

「産まれてくる子に罪はないわ」

「ばかだね。親に罪があるじゃないか。もし生んで、罪の産物をみて毎回苦しい気持ちになるとね、やだねえ。あたしはね、いちおうは常識人なんだよ。あたしをせめないでよ有紗。必要ない者を処分するのが冷たく悪く思えてもね、これが正しいのよ。子供だってこんな親からは生まれたかないでしょうよ。あたしのために子供のために、未来を考えて辛い判断をすべきなの。自分のエゴで可愛いからって赤ちゃん産んで、そいつが大人になったらどうするんだい。自分の生まれを知ってあたしを恨んで、そうさ、ぐれて、そしたらさあ、もう愛せない。憎いよ。生みたくて生んだ子じゃないのだからね。大切にできないのよ。どうでもいいのよ。そのこは。あたしのそういった思いが伝わって、子供も自分の存在を否定されたと思って、あたしの言葉をあたしの考えを壊そうとするの。そしたら、子供に殺されるかも知れない」

「そんな怖い子が産まれるわけ無いわ」

「あたしは生まれてくる気がするんだよ」

「お母さんから産まれた子はみんな良い子よ」

「やっぱりお父さんの子じゃない子供を産むのはお父さんに気の毒だよ」

 有紗は何もいえずうつむいた。

「寝な」

 有紗は「おやすみ」といって隣の部屋に入った。そして、静かに布団の中にもぐって、死ぬ運命の赤ちゃんを思い、どうした救えるかわからなくて声を押し殺して泣いた。そして、彼女はふと思った。私もお母さんと同じ事をするかも知れない。与一の爺さんとのまぐわいは、避妊はしているというものの、万が一の危険があった。もし、自分に赤ちゃんができたらどうするだろう。膨らんだお腹。お腹の中で赤ちゃんが足を蹴り上げて、ぼこぼことお腹が動く。出たいよ、出たいよ、お母さん。出て、お母さんにだっこしてもらいたいよ、そういうのだ。私たぶん生むわ。弱いんだもの私は。有紗は怖くなった。妄想が現実じみていて恐ろしかったのだ。赤ちゃんが可哀想で泣いていたのに、こんどは赤ちゃんを自分で生むのが怖くて泣いた。

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