第4話

 拓人は不思議な気持ちだった。なぜ姉は老人と手をつないでいるのか。あの老人は誰なのか、なぜ姉はあんなに怖い顔をしていたのか、考えてもわからなかった。道に迷った老人を親切に道案内していたのかもしれない。お姉ちゃんは優しいから何か親切をしていたのだ。そう思うと、自分が愚かなことが心に大きく持ち上がり、苦痛であった。あんなに優しい姉を騙して僕はお金を使い果たして、なんて悪い奴だろう。拓人は自分の悪事を思い出し、胸が悪くなった。


 晴斗は拓人が逃げ出したとき、その場を離れなかった。驚いたように有紗を見つめた。そして、彼女の隣に立っているのが誰なのか知っていた。見た顔だった。彼は与一の爺さんだった。無理矢理に有紗が与一の爺さんの家に連れ込まれた日のことを晴斗は思いだし、あの爺さんと二人きりの有紗を見て、胸が騒いだ。なにか良くないことが起こっている気がした。晴斗は横断歩道を渡り、車が体をすりぬけていくのも気にせず、有紗のそばに行った。


「どうだ、わしとくればこうして旨いものが食べられるんじゃよ。得だと思わんか」与一の爺さんは笑い顔で有紗を見て言った。


「とても」有紗は笑おうとして悲しげに顔をゆがめた。


 与一の爺さんの口ひげにケチャップがついていた。二人はさっきまでどこかの店で食事をしていたらしい。


「タクシーで帰るより、こうして手をつないで歩いて帰る方がいい」

 与一の爺さんは繋がった手を胸の前まで持ち上げて下品に笑った。有紗は青い顔をして、彼女の優しさから、お愛想で微かに笑う。


 二人は歩き、晴斗は彼らの隣を歩いた。

 やがて与一の爺さんの家についた。鍵を開けて、三人は中に入った。晴斗はどきどきした。他人の家に勝手に上がり込むなど失礼だ。自分は本当に見えていないのだろうか。半信半疑で様子をうかがうが、二人が晴斗を気にしている素振りはない。晴斗は安心して二人を観察した。


 居間を横切り、寝室のふすまを開けると、そこにベッドがひとつあった。

「そこに座ってもらおうか」

 与一の爺さんに言われて、有紗はベットに腰掛けた。セーラー服のギャザースカートが、マットの上に裾を広げた。有紗は緊張した面もちでベッドの柔らかさに気を取られている不利をして、わざと老人をみないようにした。


「ほら、こっちを見てくれ」

 有紗がしぶしぶ顔を上げると、眩しいフラッシュがたかれた。いつの間に構えたのか、与一の爺さんがポラロイドカメラで、有紗を撮ったのだ。

 有紗のあごがぷるぷると震える。有紗の両目は涙で潤んでいた。しかし、涙が頬を伝ってこぼれるほどではなかった。

「スカーフをとって胸元をはだけてくれ」

 有紗は言われたとおり、白いスカーフをほどき、胸元の襟の留め具をはずした。白い歯かない膨らみと谷間が見えた。またフラッシュがたかれた。


「スカートをたぐってくれんか」

 有紗は頬を赤らめた。しかし、恥ずかしがらずにあっさりとスカートをたぐってみせた。二本の柔らかな太股があらわれ、白い綿の三角形がちらりと見えた。


 与一の爺さんは興奮した面もちで鼻息を荒くし、その大きな黒い鼻の穴を膨らまし、カメラを棚の上に置いて、有紗の隣に腰掛けた。そして、有紗の肩に腕を回し、抱きしめた。有紗は不快そうに顔をゆがめた。


「おまえの良い匂いがするよ」

「先生、服は脱いだ方がいいですか」

 有紗は甘えてくる爺さんを振り切るように言った。

「脱がなくて良い、脱がなくて良い」


 与一の爺さんは有紗の太股にしわしわの手を置いて、上へ滑らせた。


 眉をしかめて、眉間にしわを寄せ、有紗は苦い気持ちを押し殺すように唇をかみしめた。老人と少女はベットの上に横になった。やがて二人の荒い息が交互に発せられ、家の中が若干湿っぽくなった。


 有紗と与一の爺さんがしたことに、晴斗は愕然とした。恐ろしくて汚らわしい。有紗の悲鳴が途絶えたときの喉の奥の苦しさ。涙を両目にためても、涙の滴を落とすまでにはならなかった妹の代わりに晴斗はさめざめと泣いた。




 すっかり辺りが暗くなった頃、有紗は家に帰ってきた。ドアを開けて、玄関で有紗が靴を脱ぐ音を聞いて拓人はびくびくして胸が騒いだ。彼はいけないことをした。参考書に使うお金を遊びに使ってしまった。ずるい自分が、拓人のために無理して金を作ってくれた純粋な有紗の前にたつのが息の詰まる心地がした。


「おかえり」

 拓人は自分の罪に気づかれないように祈りながら、落ち込んだ気持ちを隠すようにわざと元気に言った。

「うん」

 視線を逸らして、有紗はかすかに口元に笑みを浮かべた。それが、どこか元気のない感じだったので、拓人はぎくりとした。もしや、僕の罪に気づかれたのではないか。拓人はらはらしながら、姉が何か言うのを待った。


 ふと、有紗は気づいて、怪訝そうに拓人をみた。

「なあに、そんなにじっと人のこと見て」

「いやあ、みてないよ」拓人は自分がおかしな事をしていことを、バカ野郎、そんなことしてたら何かしたってばれるだろうと心で叱り飛ばした。

「そうだ、参考書買ったの? おつりは?」

「買ったけど高かったんだ。足りなくて友達にお金借りてかったからお釣りはないよ」

 それを聞いて、有紗は表情を険しくした。

「借りた?」

「うん」姉が怒っているのに気づいて、拓人は自分が悪いことを言ったと知った。彼はにやけながら罪を責められることに怯え、おどおどしていた。

「誰に借りたの。だめじゃない。借りないといけないくらい高いなら、まずお姉ちゃんに言ってよ。お姉ちゃんが払うから。で、誰に借りたの?」

「新太君」

「いくら借りたの」

「……千円」

 思いつきを言うとき、強く胸を締め付ける後悔を感じ、拓人は自信なげに小さい声で言った。


 有紗はポケットから財布をとりだし、千円札を抜き取り、拓人につきだした。

 拓人は千円札をじっとみつめた。


「すぐ返してきなさい」有紗は強い口調で言った。

「いま?」

「そうよ」

「もう遅いよ。こんな暗い時間に訪ねるのは逆に迷惑だよ」

「お姉ちゃん借金していると思うと我慢ならないの」

「でも明日学校で渡すよ」

「そう」


 有紗の千円札を、拓人は苦い心地で受け取った。そうしながらも、千円もうけたことに浮かれた心地だった。彼は若いのだ。遊ぶ金ができたので嬉しかった。彼の頭には上級生のことが浮かんだ。彼は上級生を特別な親しみをもって思い浮かべた。上級生に好かれると自分まで上の方へいき、偉くなった気がするのだ。またそんな気持ちを得られることを期待して、この金を上級生との交流に使おうと彼は胸が躍った。

「参考書は鞄の中にしまっているんだ」

 高価な参考書の行方を不振な気持ちで探される前に、拓人はうそを言った。

「ちゃんと勉強するのよ」

 姉はそれだけいった。参考書を見せられることは期待していないようだった。拓人はほっとした。


「嘘はいけないよ。正直に話して謝りなさい」晴斗は拓人の耳元で訴えたが、拓人はいじけたように笑って、上目に姉を気遣わしげにみるだけだった。晴斗はそんな弟のずるさが憎かった。


「そういえば」拓人は思い出したように言った。


「お姉ちゃん、今日へんなおじいさんと一緒にいたでしょ。道案内?」

 そうよと言われたら、拓人は姉の善意をほめるつもりだった。そうして自分の参考書の件を姉の頭から忘れさす作戦だった。

 しかし、有紗は怯えたように泣きそうな顔をして振り返った。ぎょっとして、拓人は自分の言ったことに何か間違いがなかったか振り返った。だけれども、姉を傷つけるようなことを言ったとは思えない。


「お姉ちゃん?」

「そ、そうよ、道案内」笑おうとして苦い顔をする。

 拓人は深くつっこまない方が良いと思った。未だ歪んでいる姉の表情から、彼は姉の心の苦痛を読みとった。なんにせよ、僕に聞かれるのは嫌なのだ。姉のプライバシーなのだ。

「ごはんにしよう」拓人は言った。

 有紗は無理に笑って、

「そうしようね」


 その夜、寝室で、お父さんと拓人と有紗は布団に横になっていた。お父さんと拓人はいびきをかいて寝ていたが、有紗は眠れなかった。居間には電気がついていて、お母さんが酒をあおってそのままその場所で寝ていた。


 胸がむかむかと苦しくて、有紗は新鮮な空気を求めて、窓の前まで歩いていき、窓を開け、座って夜空を見上げた。丸い月が出ていた。月の前を暗い色の雲が横切り、銀色の光りを放った。有紗は美しい月の光りに圧倒され、夢の中に旅立ちたいと思った。全てが幸せいっぱいの夢の世界。しかし、現実の痛みを思い起こし、有紗は身が震えた。「あたし、幸せになりたいなんて望んじゃいけないのだわ。このままどんどん汚くなるの。誰かが助けてくれるなんて間違いよ。あたしを助けるのは誰もいないの。自分でやるしかないの」


 有紗は下唇を噛む。胸がせり上がり、鼻がしみた。かっと見開いた両目から涙が静かにこぼれた。


「あたしに何ができるというの……。そうよ。拓人を立派にするの」

 有紗は眠っている拓人を月明かりを通して眺め、意を決したように瞬きした。

「お母さんはパチンコで稼いだお金を全部使っちゃうし、あたしが稼がなきゃ。できることがある内は全部やってみるのよ、そうよ、なんでもよ」

 有紗は両手に顔を埋めると、嗚咽を噛み殺し、そして、手をおろし、顔を上げた。白く丸い月を眺め、その美しさに自分の苦しみを投影した。


 まもなく有紗も床に入ると、晴斗は眠りに入った家族をそれは温かな気持ちで見守った。どうしたら、自分は家族を救えるか。拓人の裏切りを、晴斗はなま暖かい目で見ていた。偽りで得た金を使ってしまったこと。安らかに眠る可愛い彼を見ると、そんないたずらも彼の本意ではないという気がして、許してやりたくなる。




 朝になると、眠っている母をまたぎ、有紗は拓人と作った朝食をテーブルに並べる。お父さんはテーブルの前に座り、有紗が並べていく皿に視線をやり、途中で目の前に乱入した蠅を目で追う。蠅はさんざんくるくると飛び回った後、お父さんの手に止まった。お父さんは手に止まったのが何なのか理解できないというふうに、首を傾げ、目をとろんとさせて、ぼうとする。

「ごはんよ。さ、お父さん、ごはん」

 有紗がお父さんの口に飯を運ぶ。機械的にお父さんは口を開ける。

 いつもどおりの朝が来て、ごはんをたべた拓人と有紗は中学校へ向かう。

 考え事をしていて、拓人はいつもよりも無口になっていた。

「拓人、今日はいつもよりもしゃべらないわね。何か思い悩んでいるの?」

 学校への道を歩いている途中、静かな二人の間に突然姉から問いをぶつけられ、拓人はぎくりとして、思わず愚かな笑みを浮かべて姉を見た。姉はその空っぽな笑いを無表情で受け止めた。


「な、なんでもないさ、どうでも良いことを考えていたんだ。そうだ。夢のことさ」

 拓人は嘘を付いた。自分の考えを見破られてはいけない。

「夢?」

 本当にどうでもいいことね。と言いたげに有紗はため息をはいて、うなづく。


「お金、忘れずに返すのよ。お姉ちゃん借金していると思うと嫌なの。誰かに絶対に返さないといけない貸しを作るのって、そのことばかり頭にあって、毎日息がつけないんだものね。ちゃんと返してね」

 まさに今、その金の事を考えていた拓人は姉の言葉が胸に刺さった。

「わかっているさ」

 拓人はすねたように唇をとがらせた。

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