第3話

  ぼんやりと揺れ動く光を見ていた。温かくて暗い水のそこに晴斗は沈んでいた。頭の横に大きな石があった。石の隙間から草が伸びている。黒い大きな魚の影が、晴斗の横を泳いでいった。


 晴斗は川にいた。そして、そこにいると、すごく落ち着いた。何十年もずっとここに住み着いていたかのように愛着がある。水は体になじみ、息も楽に出来た。水の中は清潔で安全で、外は汚くて危険に思えた。晴斗はしばらく川の中に潜っていた。

 何日間そうしていたろう。明るくなったり暗くなったり、朝と夜が何回も繰り返された。晴斗は有紗の声が聞こえた気がして、水面から顔を出す。


 髪の伸びた白い肌の少女が水浴びをしていた。その顔は見覚えがある。有紗だった。前見たときよりも背が少し高くなっていた。そして、足もすらりと細く伸びていた。

「いやだいやだ、もうしにたい」

 感情も込めず機械的に彼女はつぶやいていた。有紗の顔色は悪かった。その顔は苦悶にゆがんでいた。

 晴斗は自分が消えなかったことに安堵しながらも、自分がいない間いくらか月日が流れたことを知った。そして、可愛い有紗が何か悩んでいるのだと知って、助けたいと思い、まず今どうしてくらしているのか知りたくて、有紗のそばに行った。


 有紗の背後に立つと、晴斗の息吹を感じたのか、有紗がはっとしたように振り返った。しかし、そこにだれもいないのを見ると、彼女は意地でも誰かを捜そうとするように目を細めて林の中をみつめた。蚊が細かい羽音を立てて、彼女の周りを飛んでいた。有紗は蚊を手で追い払い、川からあがって岸で体を拭き、服を着た。晴斗と有紗は、家へ帰る道を歩きだした。


 夜が迫っていた。夕日が沈みかけ、琥珀の光りの届かない暗い空の所には星が輝いていた。建物の窓は明るく光り輝いている。

 電車が線路の上を走っていく、そのとき電車内にいるスーツや制服を着た人たちを羨ましそうに見て、有紗は鼻にしわをよせた。

 ボロの家に着いた。


「ただいま」


 ごはんの炊けたにおいがする。拓人が台所で塩漬けの大根を包丁できっていた。夕飯の支度をしているのである。

「お姉ちゃんお帰り。もうすぐ出来るよ。お父さんを連れてきてよ」

 拓人が声を張り上げた。

 居間にはいると、部屋はゴミや汚れた雑誌などが散らばっていた。晴斗はその中に足をつっこみ、足の横を黒い虫がさっと横切ったのを見て、我が家の懐かしさをかみしめた。


「お父さん」

 有紗は寝室のふすまを開ける。お父さんは布団の中に眠っていた。


「起きて、ごはんだよ」

 お父さんは薄闇で目を開けた。黒い頭はだいぶ薄くなっている。少し痩せたようだ。頬がこけ、半開きの口から唾液が垂れていた。そして、つんと酸っぱいにおいがする。彼の首筋には鱗のような茶色い垢がはりついていた。


 有紗はお父さんを抱き起こす。お父さんはされるがままになって、おしのように黙り込み、有紗の顔に何か現れるのをじっと待つかのようにじっとみつめていた。

 有紗はやりきれなそうに眉をひそめた。


「お父さんしっかりしてよ。さあご飯食べよ」

 有紗に腕を引っ張られ、お父さんはのろのろと大儀そうに立ち上がり、居間に向かった。テーブルの前に座らせると、いまにも横になりたそうにぐらぐらと体を揺するので、有紗はお父さんのために座布団を背中において支えてやった。

「お父さんが一度、別人のように僕たちに優しくしてくれたときが最後だったね。あの日以来お父さんは人形のようだ。僕たちに優しくしたことでお父さんが壊れちゃったんだ。普段は怒りんぼうで、嫌だったけど、こうして人形みたいになられちゃうと、これもまた嫌なものだね」

 茶碗にご飯をもりながら拓人は愚痴っぽく言った。

「このままの方がいいのよ。お酒も飲まないし、元気だった頃はお酒をのんでばかりで、お酒を買うのも大変だったんだから」

「そうだね。おとなしい方がいいよ」


 彼らの話しぶりから晴斗は自分がお父さんをこんな風にしてしまったのだと気づいた。あのときお父さんの中に入ったときだ。お父さんのかわりに兄弟に優しくした。だが、すぐに体が引きちぎられたのを感じた。あの瞬間にお父さんの心も僕と一緒にはがれてきえたのだ。

 自分がお父さんの心をだめにしたのだと思うと、晴斗は悲しくなった。


 お父さんは自分からはご飯を食べなかった。有紗がスプーンですくった飯を雛鳥のように口を開けて受け入れていた。

 食事がすむと、お父さんを元の布団に寝かして、拓人は居間で勉強をした。有紗はそんな拓人をじっとながめ

「ねえ、拓人、あんた絶対にお医者になるのよ。あたしたちを養ってくれるようにならなきゃだめよ」

「わかってるよ」

 拓人は怒ったように言った。偉くならないといけないと言われると、それを強制させられているようで、むかついた。


「本当にわかっているの? お母さんも夜遅くまで働いて、お姉ちゃんだって少しだけど仕事してがんばっているのよ。大学まで行かせられるように頑張っているのよ。あたしたちの苦しみにちゃんと答えてくれなくちゃだめよ」

「お姉ちゃんも頑張って勉強して偉い仕事についたらいいんだ」

「今の生活を維持するには働かなきゃいけないの。あたし女だし、偉くならなくてもいいんだわ……それにあたしが学校なんていったら、あんたまで働かないとならなくなるのよ。あんたには勉強だけしてほしいのよ」


 拓人は口を屁の字にしてしかめてみせた。拓人は未来に対するあこがれが方々に彷徨う浮かれた時期にいた。彼は勉強が難しくなるにつれ、嫌になってきていた。こんな難しいことに頭を悩ませるより楽しいことを考えていたかった。勉強は辛い。だが、浮かれたことを考えたり、学校で悪い友達から悪いことを教わると、それは興味深いものであり、楽しいので、とてもそれにはまりそうだった。彼は息苦しい未来への期待をかけられると、憂鬱になり、その憂鬱をいやすために汚れた池に飛び降りて身を汚したくなっていた。


「お姉ちゃん参考書を買うからお金ちょうだいよ」

 拓人は難しい問題を解くのに、鉛筆がとまり、考えている内に別なことを考えて、そう言った。

 ずっとそばに座って拓人が勉強するのをみていた有紗は立ち上がり、奥の部屋に行くと戻ってきた。

「はい」

 有紗の手には五千円札が握られていた。それをみて、拓人は満足そうに受け取った。

「お釣りちゃんと返してね」

「うん」

 拓人は有紗とは目を合わせず、五千円札をじっと見つめて、ほくそ笑んだ。

 深夜まで拓人は勉強を続け、有紗はそれを辛抱強く傍らから見守っていた。二人が布団に入った頃、お母さんが帰ってきた。


 居間のテーブルにお母さんの分の冷えたご飯がおいてあった。お母さんはテーブルの前にどかりと座り、化粧の崩れたでろでろしてラメの散った顔を電球の下に晒した。お母さんはがりがりに痩せていた。つけまつげをつけて、黒いアイラインを引いて、派手な化粧をしているお母さんは色気のある美しさに溢れていた。お母さんはたばこに火をつけて、すぱすぱとやって、あたりにヤニのにおいを充満させた。

「ちきしょう」

 お母さんはそんなことを独り言のように何度かつぶやいていた。

 やがてお母さんは食事をとって寝た。


 朝になって、拓人と有紗は中学校の制服に着替えて、朝食に具のないおにぎりを食べ、学校に行った。

「帰りに本屋さんに寄ってくるんでしょう」

 途中まで同じ道を歩きながら、有紗は拓人に聞いた。

「うん。そうしようと思っている」

「私も用があるから、今日は帰りが遅くなるかも」

 拓人は何か言いたげに姉の顔を見た。だが、開きかけた口を閉じて、俯いてしまった。


 二人が別れると、晴斗は拓人について行った。拓人は眉のたれた丸顔で、目が大きく、頭を坊主にかっていた。背筋もぴんとしていて、どうかすると、彼は聡明にみえる。しかし、拓人はまだ物も知らない若い少年だった。自分の周りで動き変わるものが何でも眩しいばかりの魅力にみちて見える。善と悪が拓人の心をかき混ぜ、悪の方が分配が上になって、彼はそのために卑しい心で世間を見て、欲求を満足させていた。


 彼には悪い友達がいた。


 拓人は学校に着くと、自分の友達を捜した。友達は教室でいかがわしい雑誌を開いて読んでいた。


「やあ、新太君」


 拓人は彼の背中を軽く叩いた。

「どうしたの、君、いやに嬉しそうじゃない」

 新太はつり目の細面の背の低い男だった。拓人の軽い挨拶を心地よさそうに微笑む。

「今お金があるんだ」拓人は小声でささやいた。

「いくら」新太は目を光らせる。

「五千円。参考書を買うと言ってもらったんだ」

「もちろん参考書なんか買わないんだろ」新太はずるい笑みを浮かべていた。

「そうしようかな」

「そうするといい。そのお金で楽しいことをしよう」

「どんな」

「ゲームセンターに行こう、君のおごりで。嬉しいな本当にありがとう。ゲームをするなんて何ヶ月ぶりだろう。楽しみだ」


 拓人はお礼を言われると嬉しかった。彼は友達のために何かするのが楽しいのだった。


「いいよ。使おうよ。君も一緒に遊ぼう」


 待ってよ、そのお金は遊ぶお金じゃないでしょう。晴斗は怒って拓人の体を揺すぶろうとした。しかし、手が透けた。さわれない。晴斗は拓人のそばで必死に声をかけた。

「いけないよ。本を買うといったろ。お前、有紗を騙してそんなこと許さないぞ」


 拓人は卑しい笑みを顔中に浮かべて、自分の席に座った。

 授業を真面目に受けながら、拓人は時々、勉強が息苦しくなり、窓を見て、空を眺めた。彼は授業なんてほったらかして、屋上から飛び降りて空を飛べたらいいのにと空想した。

 一日の授業が終わると、拓人は新太を誘って一緒に帰ろうとした。


「まって、拓人。俺ね、連れて行きたい人が入るんだ。一緒に行ってもいいでしょう」

 拓人は不安に襲われた。二人だけで遊ぶつもりだったのに誰を連れていこうというのだろう。もはや友情の裏切りのようなきがして、少しむっとなった。

「上級生だよ。岩崎先輩と山内先輩。いい人たちだよ。本当」

「じゃあ、連れて来なよ」

 楽しそうに先輩たちのことを話す新太の気分を阻害する気にはなれなかった。拓人は無理に優しく新太の気に入る言葉を吐いた。そんな拓人の不愉快な気持ちなどしらずに新太は嬉しそうに受け取った。


 上級生の教室の前にたって、新太は先輩を呼んだ。太っていて優しい細い目をした岩崎先輩と美しい黒髪を伸ばして長髪にしている痩せた男前の山内先輩が新太と拓人の前にきた。二人とも背が高く、岩崎先輩は熊が目の前に立ったかのような迫力があった。上級生を前に拓人は怖じ気付いて、顔を赤くした。


「先輩、僕の友達です。帰り一緒に遊びに行きましょう。彼がお金を出すらしいですよ」新太は調子よく言った。

「マジか」

 上級生の二人は拓人をじろじろと眺めた。


 拓人は金を出したくないという気持ちで、胸がふさがった。知らない男たちに自分のお金を使われると思うと、嫌だった。このお金は友情の証として、大切な友達の新太とともに使い、二人だけで共通の快楽で盛り上がりたかったのだ。そして、より親しく絆を結ぼうと思っていたのだ。


「名前はなんて言うの、君」

 岩崎先輩は細い目をさらに細めて、感じよく微笑んで言った。彼には少しも嫌らしいところがなかった。彼の声は穏やかで優しく暖かかった。拓人は緊張がほどけて、大きな声で答えた。

「拓人です」

 四人は放課後、駅前のゲームセンターに行き、拓人のお金で楽しんだ。山内先輩はクレーンゲームが得意で、景品のお菓子やぬいぐるみを取って、拓人にくれた。太鼓のリズムゲームをやったり、テーブルホッケーをしたり、メダルゲームをしたり、実に楽しかったのだ。それに拓人は上級生に金を渡し遊びの世話をしてやることで、上級生から嬉しそうな笑顔をもらい、感謝の言葉を受け取り、可愛がられる楽しみを知った。


 すっからかんになると彼らは別れた。帰り際彼らは拓人にありがとうと感謝の言葉をかけた。その言い方は実に清く、温かだった。親密な縁が結ばれた心地がして、拓人を有頂天にさせた。拓人は人から好かれると嬉しかった。一人きりになると、拓人は大金が全てなくなった財布の心細さに憂鬱になった。お釣りを持ってこいと言った姉にどう説明しよう。お金は全て綺麗に使ってしまった。五千円の参考書を買ったといおうか。しかし、その参考書は手元にない。代わりに景品のお菓子とぬいぐるみがあるだけだ。こんな物を持って帰っては怒られる。拓人はもったいないがぬいぐるみをゴミ捨て場に捨て、お菓子を腹に詰め込んで証拠隠滅をした。有紗から何も聞かれなければいいが……と思いつつ、拓人は歩いた。


 スクランブル交差点で、立ち止まり、信号を待った。ふと、何気なく見た向こうの歩道に見知った姿を見つけた。その人を見つけたた瞬間、胸がわっと踊った。それは知っている人だったから。ごく親しい人だったからだ。それは有紗だった。紺色のセーラー服姿の有紗は、知らない老人と手をつないでいた。そのしっかり繋がった手が拓人の目を釘付けにした。有紗は凍り付いた顔をしていて、無表情だった。どうかすると苛ついているのではないかと想像するほど怖い無表情だった。拓人は自分は彼らから気づかれていないと知った。そして、なぜだか、有紗に自分を見られてはいけないきがしてその場を急いで離れた。

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