第2話
家に帰ると、お母さんが化粧支度をしていた。手鏡の前で粉を顔にはたいて、真っ赤な口紅を唇に塗る。髪を手でふんわりさせながら、お母さんは鏡と睨めくらしていた。
「可愛くなったじゃねえか」
お父さんは、そんなお母さんを見て、笑って言った。
お母さんはまんざらでもないというように笑うと、服を脱いで、ミニスカートをはいて、タイトなチューブトップを着た。胸の小さいお母さんはなんとか谷間を見せようと服をずらしたりした。
「これからはよ、俺の前でもずっとそんななりをしてみたらどうだ」
お父さんは、ぎらぎらと目を光らせて、若干の怒気を含んで言った。
お母さんはその怒りの影に気づいて、お父さんを振り返ると、優しい顔になった。
「いやだよ、家でこんなの恥ずかしいったら。商売だからできるんじゃないか」
お父さんはやおらお母さんを背後から抱きしめて、腕の中へ閉じこめると、首筋にキスし、お母さんの顔を両手で挟んで振り向かせた。お母さんは無理な体勢に痛みを覚えて、顔をしかめた。
「痛いよ」
「え? 卑しい男と寝るのに、お前も気合いが入っているじゃねえか」
お母さんはお父さんの目に激しい嫉妬を読みとり、呆れたように笑った。笑われたことに、お父さんはかっとなった。いきなりお母さんを突き飛ばし、足で蹴飛ばした。お母さんは悲鳴を上げた。部屋の隅で、有紗と拓人が息を殺してその様子をながめていた。
「やめとくれよ、なんなんだい!」
「このくそあまのあばずれめ! 死んでしまえ!」
お母さんは怒りに顔を青くして、唇をかみしめ、ぶるぶるとふるえた。
「あんたが死んだらいいんだ」
「何を!」
お父さんは血走った目を剥き出しにして、お母さんに躍り掛かった。
殴る音が響いた。お母さんの悲鳴。
「何を怒っているんだよ、何を怒っているんだよ! あたしが行かなきゃおまんまも食べさせられないんじゃないか、この穀潰し! そんなにイヤならあんたが働け!」
それからまたお父さんは怒ってお母さんを殴った。
有紗と拓人は恐ろしくて泣いていた。晴斗は二人をかばうように前に立って、成り行きを見ていた。
お母さんは殴られながら何とか、這い蹲り、玄関まで行くと、隙をついて靴を持って一目散に外へ逃げていった。
お父さんは外へは出なかった。彼は開け放たれた玄関を乱暴に閉めると、部屋に戻ってきて、二人の子供に目を留めた。
「なんだその目は」
二人の子供は怯えきっていた。お父さんは眉をつり上げ、目を剥いた。
「俺を鬼みたいに見やがってよ! このクソ餓鬼!」
怒りが静まらなかった。怒りのままにお父さんはベルトを抜いて、それで有紗と拓人を打った。鋭い音が鳴り響いて、二人の子供は苦痛に呻いた。二人くっつきあって痛みから逃れようとした。
「ええ! こうされたいんだろ! 俺がこうすると思ってたんだろう! 望み通りにしてやる!」
「やめてお父さん!」
あまりにも残酷な光景を見ていられなかった。晴斗は泣きながらお父さんの腕にしがみついた。しかし、その手は透き通る。
二人で固まっているのが気に食わなかったのだろう。お父さんは有紗と拓人を引きはがして、突き飛ばし、這い蹲って逃げようとする子供を追いかけ、ベルトでしたたかに打った。
晴斗はお父さんの躯に抱きついた。すると、お父さんの背中に光が見えて、それに触れてみた。とたんに躯が激しくふるえ、晴斗はお父さんの躯にぴったりと重なっていた。鈍い重み。目も躯もひどく疲れていた。
うずくまる妹と弟が見えて、気の毒になった。
「有紗、拓人」優しい声がでた。でも、それは晴斗の声ではなかった。しゃがれて酒焼けしたお父さんの声だった。
「お父さん?」
有紗が情けを求めて晴斗をみた。晴斗は自分の手をみた。大きな手。自分の服をみた。お父さんの服だ。鏡を見た。酒に酔い、黒い瞳を血走らせたお父さんがいた。
僕、お父さんになってる。
晴斗は感動して、ふるえた。ベルトを手から落とし、晴斗は有紗に手を伸ばした。有紗は打たれると思って肩をすくめて縮こまった。しかし、晴斗は打たない。有紗の体を抱きしめた。感触があった。晴斗は感動し、胸がせり上がってきた。涙が頬を伝った。
「お父さん?」有紗はお父さんの涙に気づいて不思議そうに顔をゆがめた。
「もうお父さんは叩いたりしないよ」
晴斗は拓人の方を見て、腕を伸ばした。拓人は怯えて近づかなかった。
「おいで拓人」優しく言うと、拓人は急に優しくなった父が不思議で、変な顔をしていた。拓人が来ないので、晴斗は有紗をはなし、拓人を捕まえ、拓人は逃げなかった。石のように固まっていた。晴斗は拓人を優しく包み込むように抱きしめた。子供の体温が温かかった。晴斗は触れられたことが嬉しくて、そして、存在を認められたことが嬉しくて、胸がドキドキ高鳴っていた。惜しみない愛情を注いで拓人を見下ろすと、それに堪えるように拓人は涙をこぼした。悲しかったからじゃない。お父さんが優しいので不思議で嬉しくて涙が出たのだ。
お父さんの暴力を止められた。そのことを思うと、晴斗はずっとお父さんになっていようと思った。お父さんの中から出て行けば、またお父さんが悪い人になるかもしれない。そうなってほしくないから、自分がお父さんの代わりになってとめていようと思った。
僕がお父さんの代わりになろう。このままお父さんでいよう。だが、急激に体が強い力で引っ張られるのを感じた。晴斗は焼けるように体が熱くなって、お父さんの体から抜け出した。お父さんはばたりと倒れ、意識を失った。拓人と有紗は心配そうにお父さんを囲う。
「お父さん」
「お父さん、目を覚まして」
弟たちの声を聞きながら、晴斗は自分の身に何が起こったのか、不思議で、手を見ると、砂のようにさらさらと手があった場所が崩れ落ちて、肘から先が消えていた。そして、足も、膝から先が砂のように落ちて消えていく。腰が消え、肩が消え、とうとう晴斗の頭が消えかかる。晴斗は、自分という存在が永久に消えてなくなる気がして、恐ろしくなり、涙を目にいっぱい浮かべて家族に助けを求めた。
「たすけて!」
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