ナオミ×ホープ ①

 ダウンタウンから車で15分ほどの閑静な住宅地。質素なスーツに身を包んだホープ・イリックは、玄関ドアを開けた。褐色の肌に金色の瞳が輝く35歳の男は、妻のいるリビングに急いで向かった。

 

 もうすぐ、子供が生まれる。


 妻のナオミと結婚して10年。二度の流産を経験したが、三度目の今回は、初めて安定期まで迎えられた。今や臨月だ。出産予定日は10月1日。


 はやる気持ちを抑えきれない。リビングでくつろぐナオミに、弾んだ声で話しかけた。

 

「ただいま。赤ちゃんはどう?」

「おかえりー。今もお腹をポコポコ叩いてたよ」


 眼鏡を掛けたナオミが振り返る。笑みを浮かべ、柔らかな瞳で夫を迎えた。サファイアそのものと言って良いキンドリー家の瞳と、母親譲りのおおらかな性格。

 

「赤ちゃんが元気でよかった。あと少しだね、ナオミ」

 

 ホープはナオミを手伝いながら、ふとテーブルへ置かれたタブレットに目をやった。東欧戦争の状況がスレッドにびっしり並んでいる。


「また戦争の情報を見てるのか……」


 ホープの手がジャケットを放り投げる。少し乱暴な音が響いた。背中を向けていたナオミが溜め息をつく。お腹を抱えゆっくりと振り向いた。


「ちょっとは両親に興味を持った? お義父さん達は今、最前線にいるんだよ」

 

 ネクタイを緩めたホープが、妻の横を通り過ぎていった。


「ナオミが心配する事ないよ。親父達は、そこいらの軍人よりよっぽど強いって」


 言葉とは裏腹に、ホープの心は遠くにあった。幼少期の記憶が断片的に蘇り、苦い感情で胸の奥が疼く。


 ――あの親のせいで、俺はどれだけ引き裂かれてきたんだ。

 

 心に浮かぶのは、幼少期の記憶。両親への失望。彼は、その全てを無理やり閉じ込めた。口角が引き攣ったように上がる。

 

「ねえ!」


 ナオミの率直な声が廊下に響き渡った。呼ばれたホープは妻に微笑んだが、瞳の奥には明らかな拒絶が見え隠れしていた。


「どうしたの、ナオミ。そんなに怖い顔して」

「笑顔をやめて。もう二年だよ。お義父さん達は貴方と話したいの」


 スウッと金色の瞳が三白眼を帯びる。口元は相変わらず微笑みを貼り付けたままだ。


「なあ、ナオミ。東欧戦争の最前線には、どういう人が一番多いか知ってる?」

「知ってるわよ。元海軍なんだから」

「じゃあ、教えてくれよ。俺にはわからないんだ、普通のサラリーマンだから」


 ――最前線に居るのは重罪人や過激組織に所属する者。


 ナオミは言葉に出せず唇を噛んだ。

 

 両親の話になると必ずこうだ。最後には身重の身体を大事にして欲しいと、本質から遠ざかる。

 彼女は、夫から体よく利用されていると感じていた。

 

 ホープは身体能力に恵まれ、ずば抜けた戦闘能力を持ちながらも、普通のサラリーマンを選んだ。

 気まずい沈黙を喜んでるかのような、嫌味の籠もった声が夫の口から零れる。

 

「親は義勇兵として最前線にいるけど、裏では何をしてるんだろうな。俺は疑ってるよ。ブラックダイアモンド抹消のために、政府と密約をとりつけたんじゃないか?」

「好戦的な言い方は止めて。喧嘩したくてこんな話をしてるんじゃないんだってば」


 ナオミが懸命に話しかけるが、ホープは返事をすることなく窓の外を見つめた。その横顔はどこか怯えているようだった。俯いたナオミが背中にそっと手を添える。


「俺……マトモな父親になれるよな?」


 戦闘訓練を受けて育った自分に、父親として何ができるのだろうか。不安が心の隅々にまで染み込んでいく


 眉を下げたナオミがホープの前に立ち、優しく微笑んだ。


「気にしすぎ。私なんて、両親ともに死神の遺伝子入りなんだから。でも、それが運命なら、向き合って生きるしかないでしょ」


 ナオミ自身も、この悩み多き世界でどのように家族を守っていくか、毎日考え続けていた。死神の血を持つ者としての責務。産まれてくる子は、間違いなく死神の能力者だ。

 だからこそ――ナオミはずっと言えずにいたことを口にした。


「ホープ。私ね、次期特別顧客に指名されたの。死神界との交渉に私は不可欠だわ。でも、それを一人で背負うのは無理。貴方の力が必要なの」


 特別顧客の名を耳にして、にわかに金色の瞳が開く。何となく予感はしていたが、こうしてナオミの口から聞くのは初めてだ。


 ホープは一瞬、目を逸らしたが、やがて視線を戻して口を開いた。


「お前の使命は受け入れてる。だから心配しなくていい。ただ……」

 

 歯切れの悪い口調で黙ったホープは、言いにくそうに呟いた。

 

「子供といる時間が長くなる分、上手く向き合える自信がない」


 ナオミは夫の手を取ると、しっかりと握った。


「私だって母親は初めて。それに、私の両親だって沢山の問題を抱えてた。でも、乗り越えてきたでしょ? 貴方だって見てたじゃない」


 握る手に力が籠もる。温かな脈動が伝ってくるようだった。真っ直ぐなサファイアブルーで夫を見つめる。


「貴方がどう思っていても、私たちは一緒に子供と生きて行くの。生きていきたいんだよ、ホープ。だからお願い、お義父さん達と会って」


 ホープはその言葉に少しだけ救われた気がした。それでも心の底に溜まった暗い感情は、まだ消えてくれない。幼少期の記憶、両親との距離、そして家族の未来が心を揺さぶる。


 張り付いた微笑みの仮面を手放すのが怖い。

 そうしていないと、父親と同じ過ちを犯してしまいそうになる。


「そう言えば、7s達がご飯を持って来るって。スープでも作るか」

「え、ちょっと……話を誤魔化さないで」

 

 ホープはその言葉に何も応えず、ナオミの手が虚しく宙を舞った。

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