レイラ×カイン ②
ここは、ウクライナとソビエトを隔てる国境線。巨大な森の外れ。東欧戦争において、侵攻時より最も戦況の苛烈な地区だ。
緑と茶、ベージュの混ざり合ったデジタル迷彩服を着たレイラが立っている。肩には青と黄色のパッチ。年齢なりの皺を刻み、戦禍ですす汚れているが、美しさは健在だ。特徴的な大きなつり目がアジアの美を強調している。
「これを使って。アンタのはもうボロボロだわ。あと数十センチ前に出ていたら、確実に死んでた」
戦闘用のベストは、前線で命を守るための最終防衛線だ。ベストの外側には追加マガジンポーチとグレネードポケットが取り付けられており、戦闘に必要なすべてが手の届く範囲にある。
戦況は常時、暗号化メッセージアプリで共有された。まさしく現代の戦争。煙幕に紛れたレイラがアプリを素早くチェックする。
「4 km頑張れる? 機械化旅団がいるわ。負傷兵を受け入れてる」
パン!
乾いた銃声が響いて、レイラの黒髪から眼帯が覗いた。崩れ落ちたのは、味方の軍服を着た敵兵であった。寝っ転がったままのカインが構えた銃から、硝煙が立ち上る。
「今のヤツ、あからさまにお前を狙ってた」
「……『噂』が広まったのね。逆に二年もよく持ったわ」
差し出された腕を掴んだカインが頷く。彼は、今すぐレイラに口づけをしたかった。夢を見たせいかもしれない。汚れたの頬を拭って、優しく眼帯を撫でる。近くの物音に邪魔された二人は、銃を構えると森の中を移動し始めた。
気を失っている間に激しい戦闘が起きたのだろう。そこいら中、死体だらけだった。
「座標は旅団に送ってある。必ず迎えがくるからね」
――そんな風に悲しむなら、どうしてこんな場所へ来たんだ。
カインには、妻の選択がどうしても理解出来なかった。
彼女は、瞳に人類の歴史を埋め込まれている。己の価値を最大限利用してきたからこそ、最も戦禍の激しい場所へ赴く行為自体が、信じられなかった。
キングとプルト――二人の死神が保護を申し出た時も、レイラは黙って首を横に振っただけだった。
カインは少年時代、死ねと言われればその場で死ねる自信があった。それが、彼にとってのプライドだったからだ。
自分を育ててくれた義両親を否定したくなかった。
そんな彼を変えたのはレイラだ。
子供が生まれた時、カインはあまりの愛おしさに溢れ出る涙を止められなかった。ホープと名付けられたその子は、父親の褐色肌と金色の瞳に母親の顔立ちを譲り受けた。
それはあまりに柔らかく、暖かな記憶――
二人はホープを大切に育てた。一人でも生きていけるよう。愛する人を守れるよう。親なら誰でも願う事だ。キーウ近郊のバイク屋で平凡な日々を送り、なるべく普通に生きようとしてきた。
「テロリストの子」学校でそう陰口を叩かれた彼は、小学生の時、両親から犯した罪の全てを聞いた。
出入りする人達を見て、何となくは感じていた。学校の子供達は、それを見て
『親父、どうして俺に戦闘訓練なんてしたんだ』
ホープに生まれた葛藤を、両親ではどうしてやる事も出来ない。彼らの存在が息子を悩ませているのだから。
「結局、私達は戦いの中でしか生きられないのよ」
夫の戸惑いを断ち切るかのようにレイラが吐き捨てた。眼帯をしている横顔は表情が分かりにくい。ハッとしたカインは、腰のナイフに手をやった。
「コイツで村を守ってくれ。お前も自警団の仲間入りだ」ナイフを初めて握った日に義父が言った言葉。あれは、どこまでが本音だったのだろう。
「……俺はお前とホープの所へ行きたい。ナオミとの間に、もうじき赤ん坊が産まれるんだろ? アイツだってもう気にしてないって言ってたじゃないか」
大きな三つ編みで髪を束ねていたレイラが、遠くを見つめながら首を振る。
「だからこそ、消えなくちゃいけないの」
「なんでだよ」
「ホープはね、私達を許してない。過去の所業も、あの子にさせた戦闘訓練も」
嘘だ、と言いかけてカインは押し黙ってしまった。微笑みを絶やさない息子。けれども、それだけだ。彼は、笑顔で両親を拒絶し続けた。
茨だらけの森が、地上を覆い尽くてゆく錯覚に囚われる。妻と息子が何処までも遠く思えて……怖い。
いや、本当に恐ろしいのは俺だ。
ごく自然に、当たり前にナイフを握らせ、戦闘の喜びを教えた。
あの時のレイラの泣き出しそうな顔を、俺は一生忘れられないだろう。
俺達は、何一つマトモに育ってない。この
けれど、子供達は違う。
アイツらに何を残してやれるのか。
「ここで……終わりにするつもりか?」
レイラは振り向く事なく、淡々と答えた。最初からそうするつもりだったとでも言わんばかりに。
「ええ。テロリストの子、ホープの汚名はこれで永遠に消えるわ。結構、戦果も上げたしね。トントンじゃない? 53年も生きたのよ。もう十分でしょ」
「でも、お前の瞳にはブラックダイアモンドが埋め込まれてる」
歩きにくいことこの上ない
「大勢の戦死者に紛れられるでしょ。ブラックダイアモンドなんて呪いでしかない。現に、クロエは未だに苦労してる」
「でも、それがお前の命を守ったのは事実だ」
「人類の全歴史が入ったチップ。権力者共はこれで小さな失敗を無限に繰り返して、金を稼ぎたいだけ。こんな死神の残骸、消えてなくなれば良いんだわ」
カインの歩みが
まだ永久歯も生えない頃から、共に過ごしてきた。
ずっと見てきたから知ってる。
お前はいつだって死に場所を決めてた。
レイラが初潮を迎えた日、彼女は沢山の大人から慰み者にされた。幼いカインは皆、そうして大人になると思い込んでいた。初潮を迎えたし、殴られたのは大人に逆らったからで、悪い事ではないと。
人一倍、繊細だから、お前は戦ったんだ。正しくあれない者に、本当はずっと傷ついてきたんだよな、レイラ。
とんでもない非日常に身を置いているからか、昔のことばかりが頭を過る。そうして逡巡するのだ。凄惨な経験をしてきた妻が口にする『死』という誘惑の果実を、飲み込むのも悪くないと。
けれども。
「俺は、お前を守るために生まれて来た」
「何言ってんの? こんなおばさんに言う言葉じゃないわ」
……!
強引に抱き寄せたカインが唇を奪う。邪魔でしかない茨も今だけは祝福している気持ちにさせてくれた。死体の臭いが充満する森で二人は、狂おしい程に唇を求め合った。
互いの頬を涙が静かに伝う。
「振り回してばかりで本当にごめんなさい。愚かな私を許して。こうする以外、選べなくて」
「良い、良いんだ。俺たちは息子を苦しめた。大勢を殺した『共犯者』だ。レイラ、死ぬまで離れない」
不意に銃声が轟き、地面が振動した。火薬の匂いと砂煙がなだれ込んで来る。レイラは息を潜めて腰のナイフに手を添えた。鋭い眼光が汗で濡れた黒髪から覗く。前方の大木の影に敵兵が潜んでいる。
「カイン、左側!」叫ぶと同時に、カインが即座に反応した。正確に三発の弾丸を放つ。敵兵二人撃ち抜き、もう一人が陰に隠れた。
レイラはその間、一度も瞬きをしなかった。息を整え、わずかな隙間から覗く敵の姿を見つける。彼女は一瞬の迷いもなくナイフを投げた。首に刺さる鈍い音と男のくぐもった断末魔が聞こえてくる。
森の出口付近に敵兵が集中している。爆発音が連続して響き渡った。耳をつんざくような音と共に、土煙が舞い上がり、木片が飛び散る。
「もう少しで目標地点だ」カインの声に微かな戸惑いが混ざった。
ここで息子の為に死ぬか。
みっともなくても、愛する人と生きるか。
突然、彼女の耳元で何かがヒュッと音を立てた。反射的に身を伏せたすれすれの所を、銃弾がかすめ飛んでゆく。すぐにカインが臭いを嗅ぎ分け、敵の位置を特定した。
「行くぞ」
その言葉に、生死の意味はない。ただ覚悟だけがゆらゆらと燃え上がる。
レイラの言う通りだ。結局、俺達はこうやって殺し合うしかない。それが俺らへの罰だから。でも、それでも人間らしく……最期を迎えさせてくれ。
罪の全ては俺が背負う。
だから頼む、レイラだけは生かしてくれ。
カインが先頭に立ち走り出した。レイラも後に続く。二人の前方には、まだ終わらない戦闘が待ち受けている。森の出口はすぐそこなのに、底なし沼のように暗い。
それでも二人は歩みを止めなかった。味方を失った茨の森を一歩、一歩進んでゆく。
大木の群れが見えた時、奥に敵陣営が見えた。数は優に百を超えている。
気を吐いたレイラが、真剣な眼差しをカインに向けた。しっかりと愛した証を焼き付けるように。愛する人と過ごせた人生は幸せだったと、ふわり、微笑む。
「カイン、貴方と出会えて良かった」
「俺もだ」
心を決めた二人は、銃を構えると敵陣へ突撃していった。
-『ナオミ×ホープ』につづく-
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(登場人物)
レイラ・イリック:53歳。アジア系。本編主人公、キングとは同じ集落出身。元テロリスト。ウクライナ在住。幼い頃の人身売買によって、人類の記憶『ブラックダイアモンド』を瞳に埋め込まれている。国籍はソビエト。隣にはいつも夫のカインがいる。
カイン・イリック:53歳。元テロリストでレイラとは同じ組織だった。殆ど喋らないくせして案外、ウエットな性格をしている。いつもレイラの隣にいる。ウクライナ侵攻があるまでは、バイク屋をやっていた。
ホープ・イリック:35歳。顔立ちは母親のレイラ似だが、それ以外は父親のカインとよく似ている。素質と幼少期からの訓練でずば抜けた戦闘能力を持つが、普通のサラリーマンになった。ナオミの妊娠に幸せを噛み締めている。
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