第22話 遠征前日2

「ノイアー?」


 扉をノックしたルチアは、返事を待たずに扉を開けた。顔を出すと、ノイアーはソファーでくつろぎながらブランデーを傾けており、その手には書類が持たれていたが、目を通している様子はなく、扉が開くと書類をテーブルに置いてルチアの方へ顔を向けた。


「ルチア、ただいま」

「お帰り。お夕飯はちゃんと食べた?」

「ああ、会食があったからな」


 明日の遠征に向けての壮行会があり、ノイアーは遠征の総責任者として出席してきたのだった。

 部屋に入ると、ノイアーが座る位置をずれたので、ルチアはノイアーの隣に腰を下ろした。目の前のテーブルには、チョコレートの盛り合わせや、王城での茶会で出たクッキー、その他ケーキやサンドイッチなどの軽食が置いてあった。ノイアーが果実水をグラスに入れてくれる。


「すまないな、明日からしばらくいないのに、一緒に夕飯も食べられなくて。壮行会に一緒に出席できれば良かったんだが」

「しょうがないよ」


 壮行会には、王族に長老院、貴族院の面々、遠征に出る兵の家族や婚約者などが呼ばれていた。ルチアは正式な婚約者ではないし、今の肩書きはゴールドフロント王国の侯爵令嬢なのだから、呼ばれる筈もなかった。


「これ、ルチアが好きそうだと思って、土産にもらってきた」


 ノイアーが重箱を取り出して開けると、中にはローストビーフが薔薇の花のように盛り付けられてあった。


「すっごい!綺麗だし美味しそう」

「こっちはデザートだ」

「うわぁっ!」


 もう一つの重箱には、デザートがぎっしり詰まっていた。上品な一口サイズのデザートは彩り豊かで、見た目も楽しめた。

 何より、こんな可愛らしいデザートを土産に頼んでいるノイアーの姿を想像すると、胸の奥が温かくなってきて、何やらニマニマとした笑みが溢れてしまう。


 もちろん、どんなに目に楽しい食事やデザートだとしても、食べないという選択肢はない。

 ルチアはいつもの調子でパクパクと食べながら、今日あったことなどをノイアーに話し、ノイアーはそれを聞きながらブランデーを嗜んだ。ノイアーのお土産にテンションが上がったルチアは、既成事実を作ろうとしていたことなどすっかり忘れていた。

 忘れていたからこそ、スカートが短く足がむき出しだったのも、肩からストールが落ちてしまっていることも気付いていなかった。


 ノイアーは、微妙にルチアから視線をそらし、これはどう指摘すれば良いのか考えた。

 ソファーに落ちてしまったストールを肩にかけてやるべきか、足にかけてやるべきか、それとも自分のガウンを脱いで着せれば良いのか。


 夜会などで、肩や腕が丸出しで胸がポロリしそうなくらい露出した令嬢や、スリットが際どいところまで入ったドレスを着ている令嬢も見たことがあった。それに比べれば、ルチアのワンピースは膝が見えるくらいだし、肩は出ていて胸元は多少透けてはいるが、首まで布(レース)はある……が!

 戦争のどんな局面にも冷静なノイアーが、ルチアの格好に酷く動揺していた。間違えて、甘いチョコレートを口にして、その甘さを流し込む為にブランデーを飲み過ぎてしまったくらいには。


 ある意味、ルチアの色仕掛けは成功していると言えた。


 食べるのに集中していたルチアだったが、ノイアーがさっきテーブルに置いた書類が重箱の下敷きになっていることに気がついて、その書類を重箱の下から救出した。


「これ、食べ物の下にあったら汚れちゃうわよ」

「ああ、そうだ。それにサインを」

「何、これ」


 手にした書類は、婚約誓約書だった。


「前に話しただろ。正式な婚約は今回の遠征が成功した後になるが、先に誓約書だけ作って、信用のおける人物に預けておくと」


 見ると、そこにはすでにノイアーのサインがあり、証人の欄にもサミュエル第二王子のサインがあった。


「もちろん、ルチアがいまだに俺と婚姻を結ぶつもりがあるのなら……だがな」

「ある!あります、ありまくりだから」

「万が一俺に何かあったら、これは破棄するように言ってある。ルチアに傷は残らないから安心していい」

「縁起でもないこと言わないで」


 ルチアはペンを借りると、重箱の蓋を下敷きにして、ノイアーの名前の隣に自分の名前をサインした。


「これが受理されたら、私はノイアーの正式な婚約者なのね」

「本当にいいのか?」

「じゃあ逆に聞くわ。ノイアーは私みたいな小娘で良いの?はっきり言って、この遠征が終われば、ゴールドフロント王国なんかプラタニアの脅威でもなんでもなくなるのよ。私と結婚しても、プラタニアに旨みなんか何もないんだから」


 ルチアはノイアーの顔を真剣に見つめながら言う。ノイアーの忌眼を真っ向から受け止め、ルチアはその夜空のような濃紺の瞳を心底綺麗だと思った。


「俺の目を真っ正面から見て、気絶しない女はルチアくらいだろう。俺を見て青褪める妻より、笑顔を向けてくれる女が良いに決まっている」

「もし、そんな女性が私以外にいたら?」

「そんな女はいない。いたとしても……俺はルチアを選ぶ」


 ルチアはノイアーに飛びつき抱き締めた。


「それって、私が好きってことで間違いない?」

「え……いや、それは……」


 ノイアーはシドロモドロになり、返答に困る。


 ルチアとの婚約を勝手に決めたのはサミュエルだった。ノイアーは今まで結婚する気はなく、実家の侯爵家には兄がいるし、いずれノイアーが継いだ伯爵位も、ノイアーに何かあったら侯爵家に返還すれば良いと考えていた。

 そんな中、ポッと現れた婚約者候補は、ノイアーの畏眼も恐れることなく、可愛らしい笑顔を向けてくれる少女だった。可憐な少女の横に厳つい自分が並んで良いのかとか、年が離れ過ぎているんじゃないかとか考えないこともなかったが、そんなことが吹き飛ぶくらい、ルチアと過ごす時間は楽しくて、自分の横で笑ったり拗ねたりする表情豊かな彼女の存在は、ノイアーの中ですぐに大きくなった。


(俺はルチアのことが好きなのか?)


 今までルチアに対する感情に名前をつけて意識をしていなかったが、真っ直ぐに見つめてくる薄紫の瞳に自分の顔が映り込んでいるのを見て、ノイアーは覚悟を決めた。

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