第4肢

 シーザーが人間界ラボにやってきてから2か月後。研究所のある東海岸はハリケーンの襲来を受けた。

 僕は不測の事態に対応するためとラボに泊まり込むことにした。研究所にはこうした事態に備えて非常電源装置があるので、実際やることといえば夜の見回りくらいだったが。

 

 夜の8時。いつもならまだ日が残り、太陽がようやく水平線の向うに沈もうかという時刻だが、すでに空は真っ暗、時折稲妻が電気ウナギの気まぐれな放電のように一瞬余光を放つのが見える。

 買っておいた冷凍食品で夕食をすませ、デスクトップPCのモニターで〈パイレーツ・オブ・カリビアン〉のDVDを再生する。迷信と偏見に満ちているとはいえ、海と海の生き物が出てくるこの映画はお気に入りのひとつだ。


 牡蠣、シュモクザメ、ノコギリザメ、巨大な化け物イカクラーケン……どうして人間ひとは冷血の海の生き物を、これほど醜く忌み嫌うべきもののように描くのだろう。

 僕はシーザーの水槽に背中を預けてモニターを眺める。外は嵐が荒れ狂っているが、深海のように照明が落とされた室内は蛸壺の中みたいに静かだ。モニターの四角い発光だけが、深海探査艇の舷窓から漏れてくる光のように目を射る。


 メラニン色素すら自由にならない僕が、陽光と人々がさんざめくゴナイーヴ湾なんかにいようものなら、ものの数分で皮膚は真っ赤に火ぶくれしてしまうだろう。

 だから、僕は海の底が好きだ。

 もちろん、浅い海底には日の光は降り注ぐし、珊瑚礁はパーティードレスをなびかせたような派手派手しい魚でいっぱいだけれど。


 でも僕は魚たちのようになりたいとは思わない。

 僕の好きなのはタコだ。好奇心旺盛なくせに岩礁にひっそりとひそみ、時にサメをも殺す力がありながら、まるでニンジャのように擬態して敵を欺き、交接する時以外は他の個体と出逢わなくても気にしない、そんな彼らが。


「なあ……知ってるかい、海で死んだ船乗りの魂は、ディヴィ・ジョーンズのロッカーってところに閉じ込められるんだってこと。反対に、おかで死んだ船乗りは、ラム酒と音楽の流れるフィドラーズ・グリーンって天国へ行く……。僕は酒にも音楽にも興味はないから、それほどいいところだとは思えないけどね。ロッカーに閉じ込められるっていうのも……まあ悪くないのかもな。蛸壺みたいだ。誰にも会わなくてすむし、狭いながらも楽しい我が家……住めば都ってやつか。でもずいぶん陰気な場所みたいだ。お前がそんなところから来たとは思えないよ」


 画面の中の海の悪魔、ディヴィ・ジョーンズは、まさしく頭足類が擬人化したような姿で、別れた恋人・海の女神カリプソを想って、フジツボに覆われた醜悪なパイプオルガンを弾き鳴らす。

 彼女は彼を裏切った――とディヴィ・ジョーンズは思っている。それも当然、海は女のように美しく、気まぐれで、残酷だから。そして男は……。


「そういえば、日本の昔話フェアリーテイルでは、海の底には竜宮城ドラゴン・パレスっていうのがあるそうだ。漁師の青年がタートルに案内されてその海の中の宮殿を訪れると、そこには美しいプリンセスがいて、海の生き物がダンスを披露するんだ。同じ海の底なのに、どうしてこうも違うんだろうな……」


 日本といえば。

 思い返してみれば、僕はこのときいつもより気が大きくなっていたのかもしれなかった。何といっても部屋には自分ひとり――と一匹――しかおらず、おまけにどちらも独身男バチェラーだ。

 僕は立っていって、本棚ブックシェルフから一冊の本を抜き出し、ぱらぱらめくってお目当てのページを見つけた。

 葛飾北斎カツシカホクサイ春画エロティック・アート〈蛸と海女〉。

 仰向けになった海女(プロの女性ダイバー)が、小さなタコには口に、大ダコには陰部に吸いつかれてクンニリングスをされている絵だ。

 絵の周囲の書き文字は奇妙な模様のようにしか見えないが、僕が竜宮城ドラゴン・パレスの存在を知ったのもこの絵からだった。


 水槽の前にかざすと――タコの視力はあまりよくない――シーザーの瞳孔が大きく丸くなった。興味を示している証拠だ。体の色も濃く赤くなった。絵の中のタコが自分の同類だと認識しているのだろうか? この絵のタコには吸盤が腕の先まで並んでいるから、メスだという説もあるけど。


 何度も目にしたことのあるその絵を眺めているうちに、下腹部がむずむずするのを覚えた。男なら誰でもお馴染みであろうあの感覚だ。

 カーゴパンツのジッパーを下ろして、“滑りやすい棹スリッパリー・ディック”(同名の魚がいる)を掴み出す。鼠径部の肌より少し赤みが濃く……チンアナゴガーデン・イールみたいに直立して……丸い先端はすでに透明な塩辛い液体で濡れている。


 何でそれが塩辛いなんて知っているのかって?

 それは……探求心に溢れた男子なら、一生のうち一度はセルフフェラチオを試してみようという熱意に駆られることがあるだろう。タコが自分の腕を食べるようなものといえるかもしれない。幸か不幸か僕は軟体動物でもアクロバットダンサーでもなかったので、その試みは常に失敗に終わったけれど。


 僕の生殖器の表面はタコの表皮のようになめらかで、弾力があって、でもずっと熱い。自分が温血動物だと実感するのはこんな時だ。

 自分で分泌したぬめりを利用して上下に擦りあげる。最初はゆっくりと、それから徐々にスピードをあげて。

 今から何十年か前のニューヨーク大停電の後には出生率が上昇したというし、暗くて他にやることがない時に考えることはきっと皆同じなんだろう。


 思い描くのは海の中をたゆたっているところ。上も下もない。四方のすべてが水。潮の流れが体を揺らす。小波リップルが全身をくすぐる。タコのリップスじゃなくて。

 残念ながらこれは想像で、実体験じゃない。

 前にも言った通り僕と生身の海との一番深いふれあいは、波打ち際で飛ばされた帽子を拾おうとして膝まで海水に浸かった経験だけだから。


 息が荒くなってくるのは――呼吸困難じゃなくて絶頂が近いから。こらえきれないうめき声が漏れる。輸精管から尿道に精液が流れ込むのさえ感じられる。でもまだイきたくない。


 映画の音が遠くなっていき、聞こえるのは酸素サーキュレーターの規則正しい息遣いのようなモーター音と自分の声だけ。

 頭をのけぞらせると、湾曲したガラスの向うからシーザーの大きな黒い眼がこちらを見つめている。好奇心いっぱいに、あるいは……。

 海と区別がつかなくなった暗い夜空のようなその瞳に、白いものが映り込む。それが悶える自分の姿だとわかった瞬間、強い快感の波にさらわれて、僕はイッた。


 上昇した血圧と動悸が元に戻るまでの間、僕は冷たいガラスにもたれかかっていた。

 うっかり閉め忘れていた蓋が押し上げられるかすかな音がした。

 シーザーが腕を一本伸ばして僕の頬に触れる。汗に溶けた神経伝達物質を味わっているのかもしれない――サケが、大海原に流れ込む自分の生まれた川の水のにおいを感知するように。

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