第5肢

 ハリケーンの夜から3か月。シーザーの理解力は加速度を増している。

 数字と、数量の概念を理解し、自分の周囲にあるものと、それを表わす単語は複数のアルファベットを用いた場合でも正確に再現できるようになった。もっとも、彼は水の外では生きられないから、陸上の事物の名称を知ったところで実際の役に立つわけではなかったが。

 それでも、物にはみな名前があること、そして“バケツ”に“たくさん”の“魚”があったり、僕が“ブラシ”を使って“水槽”を“擦”ったりすることで(つまり掃除をしていたのだが)、動詞を含めた文章でのコミュニケーションの可能性をも文字通り手探りしていた。


 もどかしいのは、複雑な意志の疎通はほぼ僕からの一方通行だったことで、シーザーは皮膚の色を様々に変えたり、大きくなったり小さくなったりして一生懸命何かを伝えようとしている(ような)のだけれど、哀しいかなそれを理解するだけの能力が僕にはないのだった。


 そのせいなのか、もっぱら彼は僕に触れたがった。

 朝、水質のチェックで蓋を開けるとき、彼は寝床にしている陶器の花瓶からするりと這い出して、貴婦人のご機嫌伺いでもするように、ビーカーを持っている僕の手に腕の先でちょんと触る。吸盤はイカと違って、ふわふわしていて柔らかい。

 エナジードリンクを飲んだりしていると、“味”が変わるようだ。抗議するみたいに、“NO/要らない”という意味を示す斑点を浮かべる。


 シーザーはレゴブロックに飽きて、知恵の輪で遊ぶようになっている。

 八本の腕とその間の傘膜を包み込むように広げて複雑な金属の塊のつながりを探求しているさまは、八人が額を突き合わせて相談しているかのように見えた。何日かそうしているうちに、やがて、ほどかれた金属パーツが水槽の底に落ちているのが見つかるのだった。

 “取ってこい”と僕が示すと、シーザーはバラバラになったおもちゃを拾い上げ、水面で待っている僕のところへ持ってくる。

 ひとつずつ手の平に載せるついでだろうか、別の腕がこちらの肘のあたりまで伸びてくる。

 僕の体毛(彼には無いものだ)はどんな存在に捉えられているのだろう。海底でゆらめく藻やイソギンチャクに向けるのと同程度の関心だろうか? 

 目蓋まぶたのない、神秘的な黒い瞳が、猫のそれのように形を変える。


 時にはこちらをからかうようになかなか部品を渡そうとせず、取れるものなら取ってみなと言わんばかりに吸盤を動かしてパーツを腕から腕へとすばやくパスしながら、残る腕がくるりと手首に巻きついてくるあたり、小悪魔だなと思わずにはいられない。

 一度だけ、いつまでたっても僕の腕を離そうとしないので、鼻先(タコに鼻はないので、眉間のあたり)に水をひっかけたことがあった。

 シーザーは、襟首に氷を入れられた人みたいに飛び上がって退散し、それから数日、僕が餌をやりに行っても寄ってこようとせず、水面から細い瞳孔だけをのぞかせて、じっとこっちを見ていた。


 シーザーはもう大きなカボチャくらいにはなっていて――といってもタコは体の形を変えることができるので、全長は4フィート9インチ〔約150㎝〕くらいだろうか――成長するにつれて腕の力も強くなっている。簡単に僕を水槽の底に引きずり込めるだろう。

 でも最初の一件以来彼がそうしようとしたことはなかったし、僕を咬んだこともない。僕が真水のホースを使うこともなかった。

 僕に触れている時の彼の体は乳白色に輝いている。リラックスしている証しだ。それとも……タコがいかにうまく相手を欺くかを考えると、そう見せかけているだけかもしれないけれど。


 お返しにシーザーの頭(目の上)と外套膜(胴体)を掻いてやり、まとわりついてくる腕をひっぺがす。ぽん、と空気の抜ける小気味いい音がして、跡を残すことなく吸盤がはずれ、シーザーはずるずると自分の領域に戻り、僕は仕事に戻る。


 シーザーと戯れていない時の僕は研究者だった。某海洋科学研究所の一室を地上における仮の棲み家にしている。目下のテーマはタコの神経生理における――いや、細かいことを説明しても理解できないだろうからやめておく。


 シーザーの他に実験用の小型のタコが4匹いて、皆それぞれ性格も違う。餌を入れてもすぐには巣から出てこようとしない奴、気に入ったおもちゃを手放そうとしない奴、同居しているイソギンチャクにちょっかいをかける奴……中でも、スパークルと名付けた1匹は脱走の名人で、パイプを通すためのわずかな隙間でも体をねじ込んで煙のように姿をくらましてしまうものだから、僕は彼のために水槽の蓋に重石おもしをつけ、中からは開けられない掛け金を取り付けた。

 スパークルがその硬いくちばし――腕の根元にある――で電気ケーブルをかじったのは、彼の飽くなき好奇心がさせたのだろうと思っている。たとえその探索行のためにあやうく日干しになりかけたのだとしても。

 世界は海と同じくらい、命を賭けるに値する、知らないことに満ちている。


 タコたちは全員別々の水槽に棲んでいる。一緒にすると共食いすることがあるからだ。

 とはいうものの、血なまぐさいことにかけては僕も人後に落ちないと言うべきかもしれない。死んでいるか生きているかを問わず、研究のためにタコを解剖しているのだ。

 同種に属する生き物の体を切り刻んでいるのをシーザーが目にしたら、僕のことをどう思うのかちょっぴり気になるところだが、興味のある相手のことはすみずみまで知りたいと思うものだし、人間は興味のない相手こそを簡単に殺してしまうものだというのは、人類の短い歴史が証明している。

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