第6肢
そのスパークルが消えた。
朝、ラボに来てみたら、彼の水槽がもぬけの殻になっていた。
巣にしているブロックの隙間に隠れていないか、周囲の色と同化してこちらの隙を見て脱獄を図ろうとしていないか調べたが、小さな体はどこにも見つからなかった。
計器や海水のパイプが通る開口部には、タコの嫌がるざらざらした材質の網を充填剤に詰めてある。破られた様子もなかったが、スパークルは悪知恵の働くやつで、仕切られた水槽にいた時、隣の住民の実験用おやつを盗み食いした後、元通りに蓋をして何食わぬ顔をしていたことがあったから(証拠映像が残っていた)、ひょっとしたら抜け出した後で再び塞いだのかもしれなかった。
とはいえ、床の排水溝の蓋はいかにタコでも開けられない(人間だって専用の道具がなければ開けられない)特殊なねじ止めがしてある。
それとも、夜の間に、床上3フィートのところにあるドアの開閉ボタンまでたどり着いて、乾いた世界に出て行ったのだろうか?
シーザーがラボにやってきた時の様子を思い出して、胸が痛んだ。スパークルが力尽き干からびた姿で発見されたら、その責任の一端は僕にある。
しかし、スパークルの姿はラボの中にも外にもなかった。
スパークルのゆくえと脱出方法も気がかりだが、他にも懸念事項があった。
シーザーの成長というか巨大化が止まらないのだ。
最初は花瓶で収まっていた巣からも、体が半分以上はみ出ている。腕をいっぱいに伸ばすと水槽の底が見えなくなるほどで、本人もどことなく窮屈そうだ。
シーザーが何なのか(ミズダコの一種なのかあるいは新種なのか)は未だにわかっていなかった。彼がいることは、インターコムを直していないことでステラが所長に文句を言った際に聞かれたので伝えてはいたが。
★
さらにタコが一匹、また一匹と姿を消すに及んで、僕はある種の疑いを抱かざるを得なかった。
疑念が確信に変わったのは、ある朝、シーザーの水槽の蓋を開け、冷凍のエビを投げ入れてやろうとした時だった。
いつもなら喜んで僕の手からもぎ取っていくのに、全く食欲がわかないようなそぶりで、エビが沈んでいくのにも構わない。代わりに、水槽の縁からはみ出さんばかりに、こちらの腕に腕を絡めてくる。
水面にテントのように広がったシーザーの腕の隙間から何かが見えた。
水槽の底に落ちていたのは、シーザーに比較すれば小さな小さな肉片――交接腕の先端、吸盤のない舌状片だった。
「お前がやったのか?」
僕は思わず声に出していた。もちろん彼に聞こえるはずもない。
タコのこうした行動は別段奇異なものではないが、動機がはかりかねた。直接接触しているわけではないからストレスによるものではないだろうし、スパークルたちはシーザーよりずっと小柄でおとなしく、脅威になる存在でもない。
シーザーはクリーム色の腕で、宥めるように僕の手の甲を撫でていたが、一瞬、その表が赤褐色に染まり、吸盤が離れた。僕の血管を流れたアドレナリンを感じ取ったのだろうか。
ルームメイトが、夜な夜な家を抜け出して、罪のない同族を殺して回るような切り裂きジャック的存在だったとしてもそれが習性だというのならそれまでだが、
その日以降、僕は研究室から出られなくなった。
残る実験用のタコはおとなしいメス、マギー一匹。シーザーはどんどん大きくなっている。引っ込み思案でほとんど巣にこもりっきりの彼女の水槽が、ある日覗いてみたら空っぽだったなんてゾッとする。
僕は胸が締めつけられる思いで、シーザーを水族館へ送ることを決めた。たとえ一緒にいられないとしても、広い水槽の中でなら彼も気ままに過ごせるだろうし、一般公開されるなら、ガラスの向うに、二本足の生物の生態を含めた興味深い光景を見ることができるだろう。
★
シーザーは水槽の曲面にべったり貼りついている。八方に無数の白と薄桃色の大小様々な吸盤が並ぶ様子は、千の花が咲いているようだ。その中心に花芯のように見える黒い半月の形をした二対は
やがて彼は体を表に返し、餌が欲しいという合図を送ってきた。
僕は冷凍庫からエビを取り出し、水槽の蓋を開けた。
いつものように、白い斑点をきらめかせたシーザーの腕が伸びてくる。
「必ず」「近いうちに」会いに行くよ、と伝えたかった。だが、彼らに時間――「明日」とか「いつか」といったような――の感覚や、「希望」なんていう抽象概念は存在するのだろうか? 少なくとも僕はそれに該当する信号/言葉を教えなかったし、教える必要もなかった。
これまでは。
でも今は、シーザーが、それらの概念のかけらでも理解してくれていればいいと心から願う。そうすれば、次に会う時まできっと僕を覚えていてくれると確信できるし、狭い箱に閉じ込められるのも、彼を傷つけたいからじゃないとわかってくれるだろう。
けれどそれを伝える方法がないので、代わりに僕は、ガラスの縁からテヅルモヅルのようにくるりと垂れ下がっているシーザーの腕の一本に触れた。僕の体内を流れる赤い血液が運ぶ神経伝達物質が、シーザーの吸盤を通して彼の青い血液中に流れ込み、僕の感じていることが伝わればいいのにと。
「――痛ッ!」
ぼんやりしていた頭が、指先の鋭い痛みでクリアになる。
しまった、咬まれた!
左手が火に触ったように熱くなり、全身から冷や汗が噴き出す。抗ヒスタミン剤が机の中にあったはず――
水槽に背を向けた瞬間、足がもつれた。つまずいた拍子にクロックスの片足がすっぽ抜けて飛んでいった。
冷たい床に倒れ込んだ背後で、巨大な重量物がぞろりと這い出した気配がする。まさか、ついにマギーを食べに――?
僕は水槽の横に落ちていた真水のホースをたぐり寄せた。
足首と腰に何かが巻きついた。
「ひ……」
思わず声がひきつる。それは(もちろん)シーザーで……10フィートはあろうかという腕の3本が僕を絡めとり、巨大化した胴体の半分以上は水槽の外に乗り出している。
「やめろ、離せ!」
さらに腕の一本がこっちへ伸びてくるのへ、僕はホースノズルを向けてトリガーを引いた。
――が、出ない。
スパークルがいなくなった後も水は出ていたから、昨日今日のことでなければ……
僕はシーザーの無表情な黒い眼と真正面から向き合っていた。巨大なその瞳には、星のように輝くシーリングライトと、無様に固まっている僕の姿が反射していた。
鞭のような腕が僕の手からノズルを撥ね飛ばした。4本目と5本目の腕がそれぞれ左手首と頭に巻きつき、床から持ち上げにかかる。
何とか脱出しようともがく僕の動きは、蜘蛛の糸に巻き取られた芋虫そっくりだった。咬まれたところから熱が肩先まで上ってきていて心拍数が上がり、口の中はカラカラになっていた。
体は3フィートは浮き上がっていて、シーザーはじりじりと僕を自分の方へ引き寄せている。ガラスにへばりつく白い吸盤の間に、真っ黒なくちばしが見えた。
腕の一本がTシャツの中に潜り込んできて、エビの殻でも剝くように、器用に服をくるりと抜き取る。体が火照っているせいで、粘液の冷たさも、気持ち悪さより妙なゾクゾクが勝る。寒さとは違う鳥肌が立つ。
下半身の方に巻きついた腕は少しの間、ごわごわする布地の上を這い回っていたが、知恵の輪を解いてしまうシーザーが、ボタンとジッパーの機構を理解しないわけがない。
「シーザー、やめろ!」
叫んでもタコには聞こえない。
邪魔な布きれは、痺れて満足に動かせない脚からあっさり抜き取られた。僕は完全に、海の捕食者の前の肉の塊だった。
神経毒で僕を麻痺させて食べるつもりでいるのかと覚悟を決めたが、違った。
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