第2肢

 一夜明けたら、子ダコが大ダコになっていた。


 ――というのは大げさだが、少なくともオレンジ大からバスケットボールサイズになっていた。

 世界最大のタコ、ミズダコだって、最初は米粒サイズから数か月かけて大きくなっていくもので、こんなふうに、水を吸収した海綿カイメンみたいに一気に成長したりはしない。もし今後もこの調子で巨大化されてはたまらない。

 とりあえず彼/彼女か?を入れた水槽は実験に使う小型のタコ用だったから、僕は左隣のもっと大きな水槽に彼/彼女を移すことにした。


 バスケットボール大といっても、タコは軟体動物なので、自分の表面積よりはるかに体積の小さい容器や隙間に入り込むことができる。

 適当な容れ物を探していると、またドアが打ち鳴らされた。

「今度は何だよ! 今忙しいんだ!」

 開/閉ボタンに拳を叩きつける。と、胸の前にバケツが突き出された。

「……ステラ」

「昨日の今日だから様子を見に来たの。あなた、まだ餌もやってないでしょう」

 バケツの中にはシシャモが入っていた。


 ステラの姿が水面に映るが早いか――餌を持ってきてくれたにも関わらず、だ――子ダコは彼女に向かって勢いよく海水を吹きかけた。

 そうしてあの、スロットマシンの大当たりのような光の斑点をきらめかせたので、僕は声を出して笑った。

「帰れよ、餌は僕がやる」

 ステラはフグブロウフィッシュそっくりに片頬を膨らませ、バケツを僕に押しつけて出ていった。


 まだ生きているシシャモをつかみ出し、水中に放つ。タコはその腕を投げ縄のように伸ばして小魚を絡め捕った。

 腕の間に二列に並んだ吸盤で、ご馳走をゆっくりと、腕の付け根にある口に運ぶ。


 小魚の一匹で満足するとも思えなかったから、もう一匹、今度はじかに与えてみることにした。

 魚を差し出すと、紅色の腕がそっと伸びてきてこちらの手に触れ――つるつるして、同時に粘液のぬめりにも覆われている――それから探るように手首に絡みつく。と同時に、別の腕が僕の手から魚を受け取る。魚は膨らんだ外套膜の陰に消えていく。


 外の海からやってきたにしては、こいつは物怖じしなくて人懐こい。この様子なら、バケツに入れて水槽を移動できるかもしれない。

 残っているシシャモ数匹をそれぞれ別の腕に手渡す。独立した生き物のようにうごめく腕、その中で一本だけ、先端に吸盤のない腕が見えた。

 この子――こいつはオスだ。


 シシャモをつかんだままの左手を水中に入れると、子ダコは魚と僕の腕に吸盤を吸いつかせた。

「よしよし、いい子だ。今から広いお家に連れていってやるからな」


 そのままバケツで掬いあげようとしたが、やつは魚をむしゃむしゃやりつつ、同時に僕の腕をひっぱった。

 子ダコといえどもタコの力は想像以上に強い。大の漁師を海の底へ引きずり込むほど――この場合、僕を逆さに水槽に突っ込ませるほど、ということになる。


 こんな時に備えて、タコの嫌う真水のホースをそばに這わせておいた。ひっぱりこまれないよう右手でガラスの縁を掴み、足で床に落ちているホースノズルをひっかけようと――悪戦苦闘しているうちにホースを踏んづけて足が滑った。


 世界が逆さまになって、歪んだ視界が真っ白い泡に覆われる。鼻の奥にキリでも突き刺されたかのような激痛。いじめっ子に水たまりに顔を突っ込まれた時の数倍ひどい。

 酸素を求めて振り回した手がつるつるしたものに触れる。掴もうとするが手が滑る。クソ、僕に吸盤があれば!


 それでもどうにか水槽の縁に手がかかり、体を起こすことができた。鼻の痛みで視界がまだ涙でにじむ。

 冷たい海水に頭から浸かったせいで歯が鳴る。シャツからパンツまでずぶ濡れ、髪の毛は浜に打ち上げられた海藻みたいにうねって肌にべったり貼りついている。

 ……それからタコも。

 左腕に目をやると、やつはバルーンアートでできた猿みたいに丸くなって、まだしっかりしがみついていた。


 蹴飛ばされてすっ飛んだホースを回収し、子ダコを大きい水槽の水面に近づける。

 もしまたこちらを肺呼吸の限界に挑戦させようとするならこいつをお見舞いするぞという腹づもりでいたのだが、それを察知したのかどうか、八本の腕はするりとほどけた。


 ★


 翌日。案の定、僕は風邪をひいた。

 帰ってから熱いシャワーを浴びたが、46℉〔8℃〕の水温にはものの役にも立たなかった。連日の寝不足も祟って、頭は痛いわウナギの粘液みたいな鼻水は出るわ悪寒は止まらないわでフラフラになりながらラボにたどりついた。

 風邪薬コンタックを飲んだものの、バケツの中のカニが動き回る音が、歯医者のドリルくらい頭に響く。


 実験用タコの水槽に一匹ずつカニを放り込む。

 子ダコを移した先は、大型のタコを一時的に保護しておくために造られた、直径14フィート〔約4m〕のアクリル製の水槽だった。床にタブが切ってあるので、三分の一は床下に埋まり、上部の縁は僕の胸のあたりにくる。


 この水槽の蓋を開けるときは、回らない頭でもさすがに用心した。心臓発作でも起こしたら一巻の終わりだ。

 僕の姿を目にしたやつは、羽ばたくように水面に上がってきた。

 カニを一匹落としてやったが、子ダコはハサミと脚をばたつかせながら水底に落ちていく大好物に目をやろうとも腕を伸ばそうともせず、水槽の縁にかかった僕の手に、腕の一本でそっと触れ――あわてたように離した。


 その様子は、こっちが真水のホースを(いつでもぶっ放せるように)構えていたからではないと思う。

 すぐに戻ってくると、今度もまた遠慮がちに、ふわふわした吸盤を手の甲に吸いつかせた。

 それから、小さな噴水のように、漏斗で水を数インチ噴き上げた。

 本当にほんのちょっぴりで、飛沫しぶきは僕にかすりもしなかった。

 そしてそのあと腕はするりとほどけ、子ダコはカニを追って優雅に水中へ戻っていった。


 どうして彼がそんな行動をとったのかはわからない。前日に餌をくれたのと同じ人間だと思って触ったら、不味まずい薬の味がしたのかもしれない(タコは腕で味を感じる)。あるいは――いささか人間めいた見方をするなら――昨日自分が僕をずぶ濡れにしたのはわざとじゃなかったんですよ、とでも言いたかったのかもしれない。

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