DE PROFUNDIS 〜深き淵より〜

吉村杏

第1肢

 西欧人は、といっても英米アングロサクソンに限ってのことだが、頭足類をそれこそ悪魔の魚、どこか外宇宙からこの青い水の惑星を侵略しにやってきた、クトゥルフ神話にでも出てくる凶悪で不気味な生き物だと思っているふしがある。


 が、彼らはまったく誤解されている。

 彼らは5億年前に人類の祖から分岐した、れっきとした地球上の生命体だ。ただ棲む場所を異にしているだけで、彼らには我々のように脳があり、心臓があり、ふたつの目とひとつの口を持ち、血管にはまぎれもなく血液が流れている。


 これらの共通点に比べれば、我々より腕――脚も含めてか――が四本多かったり、心臓が三つあったり、そこを循環する血液が青いことなど些細な相違にすぎない。


 何より彼らは賢いし、食べておいしい。彼らの知能は、犬や三歳の人間の幼児を凌ぐ。周囲を認識し環境に合わせて擬態し、道具を使い、他者の意図を理解する。


 そんな知性のある生き物を食べるだなんてと憤る向きもいるだろうか? だが地中海人種にとってイカやタコは海の恵みの一部だったし、日本人にとってはスシネタだ。


 それでもむかつくディスガスティングというなら、西欧人が北極圏や南氷洋捕鯨にこぞって参加し、あのおおきく優美な生き物を大量に殺戮し、肉や皮をムダに棄てていたことを今一度思い起こすべきだ。タコは人間の赤ん坊と同様、煮込みにすれば美味しく食べられる。


 ――だが、彼のことを思うと、僕にはとてもそうする気にはなれない。赤ん坊なら話は別だけれど。

 彼は賢く、美しく、優しい――時に、人間われわれよりもずっと。


 僕の名前はロイ・フィッツジェラルド、海洋生物学者だ。

 海洋生物学者と聞いて何を想像するだろうか。marineのイメージから、潮風と日に焼けて、可愛らしいイルカやアザラシと笑顔で戯れる、人好きのする男女、といったところか?


 あいにく、僕の出身地は海から100マイル〔約160㎞〕は離れていたし、子供の頃にひどい中耳炎をやったせいでスキューバダイビングもできない。今でも、学会に出るために飛行機に乗るのは拷問に等しい。特に、着席してからタラップを降りるまでしゃべり続けるホモサピエンスが隣にいる場合は。

 前に、隣に座った客が心臓発作か何かで急死して、死体と一緒に4時間のフライトをしたことがあったけれど、その時がそれまでで最も静かで快適だった。

 あまりのうるささに、本気でタトゥーを入れることを考えたくらいだ。ヒョウモンダコのように、全身にいかにも毒々しくおそろしげな模様が入っていたら、大抵の捕食者は恐れをなして近づいてこないのではなかろうか。

 僕の髪は生まれつき、ついぞ陸にあがることのなかった藻みたいな色だし、それをヒッピーみたいに長く伸ばしている。肌の色ときたら死んだサンゴのように白いから、いやでも目立つに違いない。


 それに、僕の専門は海棲哺乳類でも、人々の目を楽しませるペンギンでもクマノミアネモネフィッシュでもない。軟体動物門、頭足綱、八腕形上目――つまりタコだ。


 ★


 沈没した潜水艇の生存者が発する救難信号のようなかすかな金属音が、深海にまどろむダイオウイカの眠りを破り……やがて騒音はドラム缶の中に入れられて外からバットで叩かれているくらいやかましくなった。

 そこで、目を覚まされて怒ったダイオウイカ……もといモニター前に突っ伏して寝てしまっていた僕は立ち上がって、二本の脚で研究室ラボの入口へ向かった。


 ドアの開閉ボタンを押すと、文字通り目と鼻の先に同僚のステラ・マンスフィールドが立っていた。

「インターコムのケーブルを切らないでって言ったでしょ!」

 彼女はハリセンボンバルーンフィッシュのように髪の毛を逆立たせて叫んだ。

「僕じゃない。先月逃げたスパークルがかじったんだ」

 ちなみにスパークルとはタコの名前だ。

「だったらちゃんと直しておいて!」

「用件がそれだけならもう閉めるよ。昨夜ゆうべ徹夜したから眠いんだ」

 「閉」ボタンで閉まりかけたドアとレールの隙間に、ステラはゴム長靴の爪先をこじ入れた。

「用はそれじゃない。早くこの子を水槽に入れて!」


 僕は彼女の抱えているものを見下ろした――薄黄色をしたボロ雑巾のようなそれは――間違いなくタコだった。

 しかも弱って、死にかけている。

「何でそれを早く言わないんだ!」

 僕は部屋の奥の水槽に駆け寄り、前後で開閉できるようになっているアクリル製の蓋を持ち上げた。

「知らせたわよ! あなたがケーブルが切れたままにしてるからでしょ」

 ステラも急いでやってきて、息も絶え絶えな(様子の)タコを、海水で満たされたアクリルガラスの箱の中にそっと下ろした。

 黄色いスカーフの切れ端のように水中をたゆたいながらゆっくりと水底に沈んでいくタコを横目でにらみつつ、机の中をひっかき回して注射器とアンプルを探す。この間使ったとき、どうして元に戻しておかなかったんだろう!

 引き出しの奥に隠れていたそれらをひっつかみ、ガラスにへばりつく。


 タコは動かない――が、色を失っていた体が、わずかに茶色みを帯びてきている。

「この子はどれくらいの間外にいた?」

「わからない。十五分以上なのは確かだけど」

「これだけ小さいなら脱走したのに気づかなくてもおかしくないが――君の研究室ラボは本当に管理が甘いな。僕のところまで50ヤードはあるだろう」

「この子はわたしのところの子じゃない。わたしのラボの水槽にいたのは認めるけど。いつのまにかいたの。気づいたのは数日前。多分、餌のバケツの底にでもくっついて潜り込んできたのかも。ほんとに上手に姿をくらましてたから全然わからなかった――たまたまふりむいたら赤いものが見えて、それからサッと砂と同じ色になったの。まるで『見つかっちゃった!』って言ってるみたいに」

「何タコだろう」僕はつぶやいた。

 一見するとミズダコの擬幼生のように見えるが、予断は禁物だ。タコは世界におよそ270種いるが、海洋はその95%が未探査なのだから。

「それで、一緒の水槽のヒラメが全部いなくなっちゃってたのよ、間違いなくこの子が食べたんだと思う。まだこんなに小さいのに――」


 5分もすると子ダコ(?)はすっかり色を取り戻し、美しい赤褐色に体表を輝かせながら水槽の中をすいすい泳ぎ出した。

 僕としてはステラにさっさと立ち去ってほしかったのだが、タコに万が一が再発すれば人手が必要だし、彼女は二枚貝にからみつくヒトデスターフィッシュのようにガラスにへばりついていた。


 そこへ子ダコがスッと水槽の縁に寄ってきて、小さな漏斗をすばやく動かし、ステラ目がけて海水を噴射した。

 その精度はテッポウウオアーチャーフィッシュも顔負けというくらい精確で、塩水はステラの鼻に命中した。

「……それだけ元気なら大丈夫ね」

 ステラは腰に下げているタオルで顔を拭ったから気づかなかっただろうが、僕の目ははっきりとらえていた――子ダコの体表がネオンサインのように水玉模様にちかちかまたたくのを。


 ステラが退散するのを見送って、僕はスイと泳ぎ去る研究室の新しい住人に声をかけた。

なあデュード、僕たちはうまくやっていけそうじゃないか?」

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