第26話  月之院家当主の婚約者②

「ああ、日ノ宮の。ありがとう」


(日ノ宮も呼ばれていたの?)


 会長と握手する柊ちゃんを見ながら、思わず後ずさりしてしまう。


「楓、大丈夫だ」


 夏煌さんがわたしの背中を支えるように後ろに立ってくれ、ドクドクと上がった心拍数が落ち着いていく。


「じゃあ私はこれで。ごゆっくり」


 会長さんは、側に来たスーツの男性から何やら耳打ちをされると頷き、にっこり笑って柊ちゃんに会釈した。

 そしてこの場を離れようと歩き出したが、わたしと夏煌さんの前で立ち止まった。


「楓さん、ハンカチは新しいものを贈らせて欲しい」

「そ、そんな! ハンカチは捨ててくださっても構いませんので!」

「いやいや、婚約のお祝いも贈らないといけないからねえ」


 はっはっはと笑う会長に、また顔が熱くなる。


「会長……」

「夏煌くん、彼女を放すんじゃないぞ?」


 困った顔を向けた夏煌さんに会長は満足そうに微笑むと、パーティー客の中へと消えていった。会長がこの場を去り、集まっていた人たちも散らばっていく。その中で柊ちゃんと凛だけがこの場に留まり、目が合った。


「久しぶりだね楓」

「は、はい……」


 柊ちゃんに声をかけられ萎縮するわたしの肩を、夏煌さんが抱きよせてくれる。


「さっきの……楓が月之院ご当主の婚約者? 笑えない冗談ですね」


 くすりと笑いながら柊ちゃんはわたしたちに近付いて来る。

 夏煌さんは睨むように柊ちゃんに顔を向けた。


「冗談ではない。楓は俺の嫁にする」

「その無能を? 月之院のご当主ともあろう方が?」


 わたしを横目で見ながら笑う柊ちゃんに、身体がびくりとしてしまう。

 わたしを安心させるように、肩を抱く夏煌さんの手に力が入る。


「時任会長の話を聞いていなかったのか。会長を呪詛から救ったのは楓だ。月之院の嫁としても楓は会長に認められた」

「月之院の自作自演では? なにせ鬼の末裔だ」


 柊ちゃんが突然そんなことを言い出し、わたしはぎょっとした。

 幸いにも周りはガヤガヤと煩く、各々歓談を楽しんでいて、こちらを気にしていない。


「日ノ宮も鬼の血を混じらせておいてよく言う」


 わたしの前に立ち、近付いて来た柊ちゃんと夏煌さんが対峙する。睨み合う二人は一触即発だ。


「柊、行きましょう」


 意外なことに、大人しく見ていた凛が柊ちゃんの袖を引っ張り、連れ出した。


「ああ」


 柊ちゃんはわたしに視線を向けたのち、すぐに背を向けこの場を去って行った。何事もなくてホッとする。


「楓、怖い思いをさせてごめん」


 申し訳なさそうな顔を向ける夏煌さんがいつも通りで泣きそうになった。


「楓?」


 気づけば夏煌さんのジャケットの裾を握りしめていた。


「わたしのためにその身を危険に晒さないで……。もし月之院さんのことが明るみになったら……そうなったら、わたし……っ」

「鬼の末裔だってこと?」


 泣き出しそうなわたしの頭を撫でてくれる夏煌さんに、わたしはこくこくと頷いた。


「そのことは会長をはじめ、国の重鎮たちは知っているから大丈夫だよ」

「そうなんですか?」

「時任とは親戚でもあるって言ってたでしょ?」


 会長の娘さんが月之院に嫁いだ話を思い出す。


「良かった……」


 安心して脱力したわたしを夏煌さんが抱きとめてくれる。


「心配してくれてありがとう。好きだよ」


 ちゅっと頭にキスをされる。


「だからそういうことを……」


 いつも通りにこにこしながら愛を囁く夏煌さんに、わたしは素直な気持ちを言いそびれてしまった。


(わたし、夏煌さんと離れたくないと思ってる……。夏煌さんのこと――?)


「月之院社長」

「ああ、これは。いつもお世話になっております」


 一人の男性が夏煌さんに話しかける。お仕事の話らしく、わたしはそっと後ろに下がった。


「紹介したい人物がおりまして。こちらにいらしてくださいませんか?」

「ええと……」


 ちらりと振り返った夏煌さんにわたしは笑顔で頷く。


(さすがにお仕事の邪魔はできない)


「ごめん、楓。すぐに済ませてくるから。料理でも楽しんでおいで」


 夏煌さんはわたしの頭を撫でると、ビュッフェコーナーのテーブルを指差した。

 何度も振り返る夏煌さんをわたしは笑顔で見送り、バルコニーに足を延ばした。


「ふう……」


 慣れない場所で気疲れしたわたしは、ようやく一息をつく。

 八月ももう終わろうとしていて、夜は風があって少しだけ過ごしやすい。月が空高く上がり、綺麗だ。


 月を眺めていると、誰かがバルコニーに踏み入る足音がして振り返る。


「まだ月之院さんにしがみついているの? みっともない」


 そこには凛が立っていた。どうやらさっきあっさり引き下がったのは、わたしが一人になるのを待っていたからのようだ。


「ねえ、日ノ宮に帰ってきたら? 月之院さんの側にいてもみじめなだけでしょ?」


 それが当然かのように凛はわたしを窘める。


「凛……合成写真まで作って、どうしてわたしを連れ戻そうとするの? わたしを無能扱いする日ノ宮には必要ないじゃない」

「なーんだ、もうバレちゃったんだ。でも夏煌さまは日ノ宮なら誰でもいいんでしょ?」

「なっ!?」


 悪びれもせず笑う凛は、わたしを覗き込むように腰を曲げて近寄る。


「ねえ、あたしがお姉ちゃんの代わりに月之院の生贄になってあげる」

「何を言ってるの!?」


 ヒヤリと汗が背中を伝う。凛は名案だとも言いたげに無邪気に笑った。


「お姉ちゃんには柊を返してあげるから。ね? いい話だと思わない?」


 凛はわたしがそんな条件を本気でのむと思っているのだろうか。


「それは……それだけは断るわ」


 心を奮い立たせるように、震える手をぎゅうっと握りしめる。


「何でよ!? 夏煌さまのほうが柊よりスペックが高いから!? お姉ちゃんのくせにいい気になんないでよ! お姉ちゃんなんて日ノ宮の血を目的にされてるだけで、夏煌さまに愛されてなんかないくせに!」

「違う! 月之院さんはそんな人じゃない!」


 カッとなってまくしたてる凛に抵抗する。


「何よ! お姉ちゃんのくせに口ごたえしないでよ! 夏煌さまはあたしのものよ!」


 凛の手がわたしの頭上高く上がり、ぶたれると思った瞬間、低い声がこの場を支配した。


「俺がなんだって?」

「月之院さ――」

「夏煌さま!」


 すぐ後ろに現れた夏煌さんへ振り返ると、凛は彼に抱きついた。


「夏煌さま、お姉ちゃんじゃなくてあたしにしませんか?」

「お前?」


 上目遣いで誘惑する凛を夏煌さんが見やる。


(やだ……夏煌さん……)


 凛が夏煌さんに触れるのも、見つめ合うのも嫌で不安になる。


「あたしのほうが日ノ宮としての力もあって可愛くて、月之院の妻に相応しいでしょう?」


 そうしましょうと話を進める凛に夏煌さんは冷ややかな目を向けると、抱きついていた身体を剥がした。


「気安く触るな。俺の名前を呼んでいい女は楓だけだ」

「なっ――!?」


 夏煌さんの冷たい声と表情に、凛は信じられないといった表情で青ざめた。


「次に楓を貶めたら殺すと言ったぞ?」

「な、なんでよ! なんでお姉ちゃんなんか……」


 気迫に押された凛は夏煌さんから離れ、後ずさる。


「何で?」


 夏煌さんは凛を通り過ぎ、わたしのところまでやって来ると後ろに立ち、両肩に手を置いてくれた。


「楓のほうがお前よりも能力があるし可愛いぞ」

「はあ!?」


 きっぱりと告げた夏煌さんの言葉に凛の眉が吊り上がる。

 凛じゃなくわたしを選んでくれる夏煌さんに、嬉しくて涙が出そうだった。


「まあ俺が楓を愛している理由はそれだけじゃないけどな」

「つ、月之院さんっ」


 わたしの髪を一房すくい上げると、夏煌さんは唇を落とした。わたしは慌てて彼を見る。


「行こう」


 夏煌さんはわたしに優しい眼差しを向けると、肩を抱いてパーティー会場の中へと促した。

 彼は一切凛を振り返らなかったけど、わたしは気になってそっと視線を向けた。

 凛は微動だにすることなくこちらを睨んでいて、わたしは逃げるように目を逸らしてしまった。

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