第20話 凛の決意
「なつ……きさん」
声に出してみる。
(やっぱり無理!!)
熱を冷ますように両手で頬を覆う。
男の人の名前を呼ぶのがこんなに恥ずかしいとは思わなかった。
(柊ちゃんは幼馴染だったし……)
柊ちゃんとも違う、男の人。誤魔化しようもない。わたしは月之院さんを意識している。
柊ちゃんには幼い頃の初恋を引きずっていただけで、彼のために何かしてあげたいと思う気持ちなんてとっくになかったことに今さら気づいた。
月之院さんは不思議だ。大人の男性なのに可愛くて、わたしなんかでも役に立つなら何かしてあげたいと思ってしまう。
『楓、「なんか」は禁止だよ』
月之院さんの言葉がわたしの頭に浮かぶ。
(わたし、月之院さんのこと――)
まだ恋がどういうものかなんてわからない。でも、これからも彼の側にいたい。わたしはそう思うようになっていた。
「月之院さん遅いな……」
仕事の電話だろうか。忙しいだろうにお休みの日をわたしに費やしてくれて、申しわけなく思う。
店員さんも誰一人部屋にやって来なくて、わたしは不安になって部屋の扉から顔を出してみる。
個室は2階にあり、すぐそばにはらせん状の階段がある。階下は白を基調にした売場になっていて、このお店の洋服がハンガーにかかって並べられている。お客さんは一人もいない。
ショーウインドウのマネキンは長袖のジャケットを羽織っており、立秋が過ぎてもなお残暑が続く今日は、見るだけでも暑い。
「どれも綺麗……」
下のフロアに下りて、月之院さんを探しつつ服を眺める。
今着ているこのワンピースも素敵で、鏡に映った自分を見ると、月之院さんはセンスがいいなあとうっとりしてしまう。
「お姉ちゃん!?」
突然響いた聞き覚えのある声に、身がすくんだ。
振り返れば店のドアを押し開け、凛が立っていた。すぐ後ろには義母が立っていて、驚いた顔でこちらを見ている。
「お客様! 今は貸し切りで……。申し訳ございませんがご入店はお断りしております」
凛の声を聞きつけた店員が奥から慌ててやって来た。凛は店員の制止を振り切り中に入ると、怖い顔でわたしの目の前までやって来た。
「何でお姉ちゃんがこんな高級店にいるの!?」
「り、凛……」
ひどい剣幕で言い寄られ、わたしは言葉が出ない。凛はわたしの全身を一瞥すると、眉を寄せた。
「そのワンピース、お姉ちゃんにぜんっぜん似合ってないんですけど?」
「!」
恥ずかしくてカッと赤くなったわたしを見て、凛が嬉しそうに畳みかける。
「服に着られちゃってるっていうか? 地味なお姉ちゃんが着こなせるわけないじゃない」
凛の顔が見られなくて、わたしはだんだん俯いていく。はんっと息を吐き、優越感に浸る凛はさらに続けた。
「ねえお姉ちゃん、見てくれだけでも良くしようと、こんな残酷なことをされているの?」
(違う、月之院さんは純粋にわたしにプレゼントしてくれただけで)
言い返したいのに、言葉が出てこない。そんなわたしを見て、凛はもっともらしく言い寄る。
「どうせ月之院でも足手まといになってるんでしょう? 日ノ宮なら無能なお姉ちゃんでも柊が使い道を示してくれるよ。ねえ、帰ってきたら?」
「か、帰らない……。月之院さんはわたしを必要としてくれているんだもの」
凛はわたしを「使う」と言った。日ノ宮はどこまでいってもわたしを個人としては見てくれない。傷付きながらも、それがよくわかった。
――帰りたくない。
心からそう思ったわたしは、声を振り絞って凛に告げていた。
(月之院さんは日ノ宮とは違う。わたしでも役に立つと教えてくれた。何よりわたしを大切にしてくれる!)
「――はあ?」
凛の顔が怒りで歪むと、わたしの足が恐怖で震えた。
「お姉ちゃんのくせに何言ってるの? あたしの言うことが聞けないの? 黙って帰ってくればいいのよ!?」
「か、帰らない!」
力の入らない手を握りしめ、震える声で抵抗した。
わたしが抵抗したことに凛は信じられないといった顔をした。そして――
「何よ! 無能のくせに、あたしに歯向かうの!?」
凛の右手が頭上で振り上げられ、ぶたれると思ったわたしは反射的に目をつぶった。
「何をしている」
月之院さんの低い声が店内に響き渡り、わたしはそっと目を開けた。
彼は急いで駆けつけてくれたのか、息を切らしてわたしの前に立ちはだかり凛の右手を掴んでいた。月之院さんの表情は見えないが、背中から怒っているのが伝わる。
「月之院さま! お姉ちゃんがご迷惑をおかけしていませんかあ? 月之院さまもようやくお姉ちゃんの無能さに気づいて、預かったのを後悔しているんじゃないかと思って!」
空気を読まない凛は、可愛い声色を作り、掴まれていたのと逆の手を月之院さんに伸ばした。その手を月之院さんは振り払い、地を這うような声色で言った。
「俺の楓を貶めるな。次はない。今度楓に近付いたら殺す」
「な――」
「凛!」
食い下がろうとした凛を、義母が慌てて駆け寄り止めた。
「行こう、楓」
月之院さんはわたしの右手を取ると、店を出た。そっと振り返れば、義母が青ざめながら凛の両肩を支えていた。
「凛、あんな怖い人にはもう近寄らないほうがいいわ」
夏煌と楓が店を出て行き、取り残された二人は向き合う。
「お母さん……あたし、絶対に月之院さまがいい」
「何言って――!?」
凛の発言に、彼女の母はぎょっとした。
「だって、柊よりイケメンでお金持ちなのよ。日ノ宮なんて衰退の一途じゃない。あんなハイスペックな男があたしより無能なお姉ちゃんのものになるなんて許せない。大丈夫よ、あたしが狙って落ちなかった男なんていないんだから」
凛は口の端を上げて悪魔のように笑った。
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