Ⅴ.

 ドアを開けるなり冷気の拘束衣に縮こまっていた栞奈が教室に飛び込んだ。

「ひえー、さむさむ。廊下で釘が打てるわ」

 凍ったバナナで、っていう話の事だろうか、それだとただのリフォームだけど。

 一時間目から暖房が入っていた教室は、熱で溶けた空気がどろどろとシチューみたいに垂れて来る感じがした。体に染み込んで来る熱が、疲労とか、倦怠と結び付き、重かった頭が重いまま油の中を浮遊する。窓際、後ろから二番目の席が異様に遠く、靄が掛かってるように見えるのは、近づくと窓に大粒の水滴が付いていた。栞奈が職員室で貰ったビニール袋を机に置くと、ごろごろと固い物がぶつかり合う音が鳴った。その音を聞いた女子達が群がって来た。

 男子も一人か二人、輪の外から様子を覗いている。

「ありがと栞奈」と楊田が言った。その下から上枝が手を伸ばし、払い除けられていた。

「ありがたいな?」と聞き返しながら、栞奈が缶を並べていった。ショートのスチール缶は熱々のおしるこが五本。アメリカンコーヒーが一本。ペットボトルはレモネードが二本。それからキンキンに冷えたコーラのロング缶。「あったかーいのはほとんど売り切れてたけど」

「二人はもう取ったの?」と瑶鼓が聞いた。

「栞奈、来る途中で全部飲んじゃったから」と答え、わたしはほうじ茶ラテを見せた。

「別に二本飲む事だって出来る」

「じゃあ、じゃんけん」と楊田が割り込んで言った。

 八人が手を出し、まず二人が勝って、栞奈に代金を送り、レモネードを取って行った。

 次に紛れ込んでた男子が勝って、机に小銭を放り投げてコーヒーを持って行こうとした。

「え、なんで参加してるの?」と楊田に指摘され、男子は愛想笑いを浮かべて逃げていった。

 次に勝った一人と、もう一人はおしるこを取って、熱いからってカーディガンやブレザーの袖を伸ばし、直接触れないようにして持って行ったけど、全然開けようとしなかった。不意に楊田が輪から外れ、前の方の席に呼び掛けた。「キンちゃん、じゃんけん。来る、早く!」

 席を立った玉木が少し足を踏み出しかけ、腰が引けたままの格好で立ち止まった。

 もう一度鋭く呼ばれると、他の机に腰をぶつけながら栞奈の席まで走り寄って来た。

「残ってるのが瑶鼓と美乃利と、キンちゃんで、おしるこが残り、三本?」

「コーラもある」と栞奈が手に持って、すぐに離した。「つっめた、なにこれ」

「全員おしるこでいいよね」と聞くと、瑶鼓と美乃利がすぐに頷いた。指の爪の先だけで二人の前に缶が押し出される。玉木の前にも、缶と、赤いロング缶。楊田が言った。「キンちゃんさあ、コーラも飲んじゃってよ。冷たいの誰もいらないみたいだから」

 冷たくても、というか冷たい方がいいらしい誰かが、机の上を遠巻きに覗き込んだ。

「え、いらない」って言われる前に、楊田が栓を開け、空気が弾け、缶を押し付ける。

 持った瞬間、玉木の両手が凍ったように僅かに膨れ、震えが腕を伝わって脳天で髪が逆立ちそうになった。「授業始まるから、早く」と楊田が言った。「ほら一気、一気飲みで」そう言われると玉木は律儀に缶を傾け、何度も何度も喉を鳴らした。玉木は目を固く閉じていた。

 栞奈は自分の席に座り、ブランケットを膝に掛けて、ビニール袋を畳んでいた。

 わたしも椅子に座り、膝掛け毛布を広げて、脚から、お腹までを覆わせる。

「ねえ、ななみ。さっきさあ」と栞奈が言った。

「ん、聞いとるよ」と上枝が返し、段々飲むペースが落ち、不意に息が詰まった玉木の背中を、震動だけ伝えるように軽く、四本の指で叩いた。喉が一際大きく鳴って止まり、玉木が手で口元を覆うと、こぽ、と水気の多い音が漏れる。楊田に栓を開けたおしるこを押し付けられ、コーラを奪い取られると、玉木がまたすぐに飲もうとした。「で、どうしたの、さっき?」

 玉木がすぐに口を離し、また手で押さえて、缶の飲み口を憎々しく見つめる。

「ひっきがね、今の人誰って、たぶん三年の先輩の事見ながら言うんだよ」

「いいって栞奈その話、別にそういうのじゃないし」

 上枝は内容を吟味し、一言「その人男子?」とだけ聞いた。栞奈が頷くと、もう見ていない玉木の背中を少し乱暴に叩き、上枝は完全に体をこっちに向けた。背後で玉木がコーラに噎せていた。「へえ珍しい。一目惚れして、そのままあと憑いて行ってこっそり写真撮って」

「撮ってない。ちょっと、本当に誰か気になったから聞いただけ」

「珍しいよね。ひっきが他人に興味あるなんて」

「どんな人だった? 京極くんみたいな雰囲気ある感じの」

「ほら頑張れ頑張れ」と適当に煽る楊田の声が聴こえて来る。「はい、よく出来ましたー」

 なぜか体の芯が心もとなく、震えそうになる。暖房の熱気は、暖かい。暖かい空気が教室に満ち、その中でごく稀に、やけに生気のない、やけに他人行儀な手付きが紛れ込んでいて、不安感を残していった。後ろの机の下に手を突っ込み、ブランケットを剥ぎ取って、それを肩に掛けた。「あ、寒がり」と栞奈が言った。「京極は知らないけど、その先輩は、なんか薄い人だった。色が白くて背が高くて体が細くて顔が幼くて目が細くて、でもシュッとした感じ」

「シュッが全てすぎる。サヨリとか好きそう」

「魚の? 食べた事ないけど」と言うと、そういうとこ、と上枝に笑われる。

「あとメガネ掛けてた。フチ無しの四角いメガネ」

「それは本当に珍しい。気になるなら今度くっつけてやろうか、みんなで」

「いいって本当にそういうのじゃないから。栞奈だって、気になるねって言ってたし」

「変っていうかね。薄い人っていうのも、よく見て考えてなんとか思い付いた事だから」

「なーんの話してるの?」楊田が栞奈の机に飛び付いて来ると、両手に缶を持ったままの玉木は、行き場所を失ってとりあえずゴミ箱に向かった。長いのと短いの、合計780ミリリットルくらいをお腹に収めて、明らかに苦しそうな表情をしていた。話にくらい、混ざって来ればいいのに。「真春乃、調子悪い? 熱ある?」いきなり楊田が顔を近づけ、聞いた。

「触ってみると冷たいんだよ、この人。三十五度ないと思う」と栞奈が答える。

「どれちょっと失礼」当てる、というより鷲掴みにしそうな手が迫り、思わず前髪を上げてしまう。熱い手が添えられると、その辺りから震えが伝わって来て、剥がれる瞬間の熱がじんわりと広がる感覚は心地よかった。「マジだ、こわ。ロボットみたい。あれ冷たいんだっけ」

「最近の家電は排熱追い付かないから結構熱いよね」

「家電ではないでしょ、疋田くんは」と上枝が突っ込み、こっちも額を触りたがった。

 自分の手を見て上枝が言った。「汗が。ペタっとする」それをずっと擦り合わせていた。

 機械を水に浸けるとか、浸ける用の液体があるとか、調べて盛り上がってると、いきなりドアが開け放たれ、奈々風が教壇に立って教室を見渡した。午後の授業が始まるまで、もうあと五分も無く、教室には生徒の六割が揃っていた。奈々風がゆっくりと口を開き、重々しい口調で言った。「次の時間は臨時ホームルームになります。地理・地学は無しです、無し!」

 書いとけよ、と前の方の誰かに言われ、奈々風は慌てふためいてチョークを持った。

 チャイムが鳴り、しばらく誰も動かなかった。六割が八割、八割が九割九分になった。

 そして最後の一人と、白いジャージ姿の先生が一緒に入って来た。

「まずは、時間を取って貰ってありがとうございます」と静かな、はっきりした声で言った亜子先生は、何も持っていなくて、一人だった。樺山くんは居ない。カメラを通して見ているのかもしれないけど、亜子先生は一度も教室の端と、逆の端の天井を見ようとしなかった。

 沈黙、五秒。

「今日はみなさんにお話があって、臨時でホームルームを開く事になりました」

 沈黙、五秒。そして。

「こういう場が設けられる事についてみなさんは何か心当たりがありませんか」

 沈黙、永遠。たぶん。だけど黙っていられるのは、心当たりがある人ではなく、関係ないと本気で思っている人だけだ。一番強い思いを持っているらしい、亜子先生は黙っていられなかった。「このクラスにはいじめがあります」と、待ちきれなくなって本題を告げると、クラス全員の反応を見るように、右から左、そして真ん中の辺りへ、ゆっくりと視線を動かした。

「少し前に、このクラスの生徒から、名前は言えませんがそういう報告がありました」

 なんとなく横を見ると、楊田が前の方に座っている小さな背中に目をやっていた。

 その隣の男子は、一瞬だけ振り返った。見られた別の男子は、また横を向いていた。正面を見るか、俯くかしていた以外の誰もが別々の誰かを見て、そのうち注目の最も多い人間が加害者か被害者ってわけでもない。ただ一つ、亜子先生が思ったような反応は無かったようだ。

「先生は恥ずかしいです」と亜子先生は言った。「高校生にもなって、自分の生徒が誰かをいじめるなんて、もちろん中学生や小学生でも許される事ではありませんが、色々経験をして学んで来たはずでしょう。みんなはもう立派な大人、ちゃんと考えて行動できる年齢です」

 色々。もちろん『もう充分やったんだからそろそろ落ち着いたら』って意味じゃない。

 中学生が小さな高校生なら。小学生が小さな中学生なら。そこで経験した物が上達する事はあっても、全て捨てて、そこから無い物を新しく創造する事は出来ない。『友達の作り方』を学んで、まだしも『いじめの無くし方』を学んだとしても、生徒同士においては『他人のまま無関心で、不干渉である事』は公には許されない。クラスは一丸とならないといけない。

 消極的に居るだけでも参加の意欲があるように扱われる。

「いじめがあるって誰が言ったんですか」と上枝が聞くと、亜子先生は黙った。

 黙って、その誰かとも目を合わせないように少し考えた後、重々しく口を開いた。

「善意から告発してくれた人の安全を考慮して、名前は言う事が出来ません」

「考えて行動したわけだ」と背後から誰にも届かないように呟く声が聴こえた。

「じゃあ誰がいじめられてるんですか」と上枝が聞いた。

「それ、本当に分からないから聞いてるんですか?」怒気を孕んだ声は、教室中の空気を重くして、その中で少しでも動く物、囁かれる声があれば、蝿をそうするように叩き付けられそうだった。背後からは。何も聞こえない。亜子先生は低く抑えたままの声で、一つずつ名前を口にした。「楊田美亜里さん、上枝奈波穂さん、笠原奈々風さん、兼本絹香さん。特にこの四人に聞くけど、最近、誰かに嫌がらせをしたり、ひどい事を言った覚えはありませんか?」

「ありませーん」わざと投げやりな声で楊田が答えた。

 周りの反応はもう少し露骨で、さっさと謝ればいいのに、って顔に出ていた。

 奈々風だけは不安そうに、他の三人の様子を窺い、息を合わせようとしていた。

 亜子先生がチョークを取り、黒板に向き直った。楊田が腰を浮かせかけ、先生に何か食い下がろうとするような動きを見せたけど、そのジャージの背中は冷たく、頑固そうで、声を掛けられるものではなかった。白と、たまに赤も使って、書き終わると先生は指を軽く擦った。

 文字は『玉』、『木』の上には赤チョークで『×』を重ね、『キンちゃん』と続いた。

「そこ笑わない」と男子生徒を叱りつける。声も何も聞こえなかったけど、見ると少し肩を揺らしてるようでもある。「今朝教室に入ったら、黒板にこう書かれていました。昨日の放課後から、今朝の始業前までに書かれたみたいで、夜の暗い内に、この教室に出入りした人は居ないそうです。これ、玉木さんの事よね。言葉にするのも恥ずかしいアダ名で呼んでたのね」

「あの」と上枝が手を挙げる。「柚子より金柑が好きだからキンちゃん、だったような」

 玉木が驚き、振り返った。そうだったのか、と意外そうで、それだったら良かった、と安堵したようにも見える。上枝も首を傾げ、二人で真相が分からないまま、見つめ合っていた。亜子先生が教卓を軽く叩き、注目を引き戻した。「勝手に喋らない。キンちゃんって呼ばれてたのは知ってました。でも文字で見た時に、こんな風になるって、分かってなかったの?」

「ちょっとしたジョークじゃん。別に、玉木の事からかってるというよりは」

「楊田さん、何か言った?」

「玉木さんの事をそういう物だと思って呼んでたわけではないでーす」

 そういう物、という言い方にまた何人か、笑ってしまいそうになった。亜子先生は真面目くさった顔付きを崩さない。「そう。まあこれはあくまで一つなんだけど。報告によるとね、玉木さんはここ最近、二学期辺りから、さっき言った四人に連れ回されて、ひどい事を言われたり、されたり、時には暴力みたいな事もあったって聞きました。玉木さん」と、突如名前を呼ばれ、それが何よりも害意を孕んでいたかのように、玉木は恐れ戦き、縛り上げられたように真っ直ぐな姿勢で教壇に向き直った。亜子先生は言った。「立って。ねえ、玉木さんは、そういう事をされた覚えはある? その時って、たとえば辛かったとか、悲しかったとか」

「は、はいっ」か細い声を返し、立ち上がった玉木の、椅子が後ろの机に当たった。

 注目を浴びている事を、さすがに自分でも察した玉木の体が非対称に折れ曲がった。

「自分ではそう思いたくないのかもしれないけど、嫌だなって思った事とか、ある?」

「あ、いや。は、何……どんな事、ですか」

「この間も、誰かにロッカーの鍵を壊されて、開けられなくなっちゃってたよね」

「それ、は……」右に左に首を捻って、どちらも真後ろの楊田を視界の隅に収めて、真っ直ぐには見ようとしない。「あれは、なんか」泣き出しそうな顔は右後方の奈々風、そして前方の亜子先生に縋り付こうとし、双方から突き放されたように、玉木は小さくなり続けた。

 片野が挙手をしている。それに玉木が気付き、その視線に亜子先生が気付いた。

「証拠ってあるんですか?」と片野が言った。「監視カメラの映像とか」

 黒いカラスが居る時、白いカラスは居ないのかを問うのは【悪魔の照明】だ。

 絶対に。どこにも。例外なく。完膚なきまでに。居ない事を証明できるだろうか。

 時には暴力みたいな事もあったかに関する証明は、暴力によってのみ行われる。

 時に、でもなく。みたいな事、でもなく。そのものがあった、その場合だけ、あった。

「さっき言った四人とよく一緒に居たのは確認してます。カメラにも映ってました」

 亜子先生が明言するまでもなく、みんながそう認識していたし、ひどい事を言われたり、されたり、暴力を振るわれた現場だったとは、玉木本人さえ思っていなかった。その中にたとえば一つでも、バカやブスみたいな暴言や、手や足を使った暴力があれば、今日に至る前に誰かが告発だってしていたかもしれない。それは無かった。暴言や暴力を見ていないからだ。

「一緒に居た……」と片野が繰り返し、続きを促すように亜子先生を見た。

「だから、一番可能性があるのがその四人だと思ったんだけど、違いますか?」

 楊田が焦ったように否定した。「ウチら玉木さんとは仲良くしてました」

「一緒に居たのは玉木さんも一緒になってふざけて遊んでただけです」と上枝が言った。

「そうじゃないって思った人も居たから、いじめじゃないかって先生に言って来たんです」亜子先生は教室の端から端まで見渡し、その視線を玉木に据えた。「どっちの言いたい事も分かります。でも問題は、玉木さんがどう思ってたかでしょう」そこで言葉が区切られ、クマと遭遇したくらいに怯えた玉木は、たぶん亜子先生の視線に射竦められたのだ。「玉木さん」

 玉木はずっと、四人の誰かに助けを求めるような視線を向けている。

 それがまた、余計な事を言うなという圧力を掛けられてるようにも見える。

 だから四人が距離を取って、そのせいで玉木が孤立してしまっているようでもある。

「遊んでただけ?」と聞き、亜子先生はたっぷり間を置いた。「それとも嫌な事された?」

 その時、視界の隅に動く物があって、奈々風が顔の横で手を動かしていた。その上にメッセージウィンドウが被って、メッセージが表示される。『何でおいらが入ってるんだい?』どこか茶化したような言い方だけど、自分の顔を指してこちらを見つめる姿に、焦りも感じる。

『奈々風ってそんなに仲良かったっけ?』

『どっちでもないから困ってます。いじめてないよ。一応。ななみ達とは話すけど学校だと大体は……』ああ長い長い、こんな時に。【中学の頃】【一年生の頃】【フェイスシール】【クラス委員】どのワードを引いても、わたしは奈々風に何も言ってあげる事が出来ない。

 楊田達は楊田達で『誰が言ったの?』『知らない』『キンちゃんじゃないの』『知らないってば』って、よく見たら玉木も参加してる。こっちに集中してるから返答がしどろもどろだったのか。『本当に知らない。本当に』玉木はチャットアプリ内でも口下手だから、何の事を言ってるのか推測しないといけない。『そんな事言ってない。誰が言ったかも分からない』

 誰が【いじめ】だって言ったのか。

 つまりそれは、誰かが玉木を救いたいのか、陥れたいのかによって変わって来る。

 楊田の言う『ウチらキンちゃんのこといじめてないよね?』は単なる質問だ。

 文字から伝わるニュアンスは、本当に確認、ただそれだけだった。ないよね、と語尾に力を込めて問い掛けた場合は、首を縦に振れ、という圧を声から感じるかもしれないけど、文字にはそんな器用な事は出来ない。AIが前後の流れから判断して吐き出す文章は、同じくAIがその返答を導き出せる内容に限られる。わたし達は、気になるワードを折り曲げるだけ。

 ビンゴカードみたいに。パンチカードみたいに。それを機械に読み込ませるだけ。

 チャットログに残るのは、どちらを選択したかというマークだけ。

 亜子先生と向かい合っている玉木は、誰にもメッセージを返さなかった。

 相変わらず両手はお腹の辺りに、差し出す為の、心臓を包み込むような形で置かれ、それを上げも下げもしない。上げて、ブレザーを押し上げる塊を、支えようとはしない。何か言いそうに薄く開かれた口から、絶え絶えの吐息が漏れ、また色の薄い唇が固く結ばれると、それは治りかけの切り傷みたいになった。こんな小さな体で、何かに耐えている姿が痛ましい。

 でも何に、何の為に耐えているのか、誰にも分からなかった。

 みんな黙って、玉木が何か言うのを待ち、言わないのかと詰りそうな人も居た。

『ごめんね』と送ったのは上枝だけど、何に対してかは言わないし、たぶん分かってない。

 こんな事になるまで巻き込んだからかもしれない。

「あ、あのっ」そして玉木は上擦った声で亜子先生を呼び止める。「違いますっ」

 後半の消え入りそうな声を亜子先生はちゃんと聞き取り、何も読み取らなかった。

「何が違うの?」と聞き返し、その推論を披露しようとして、やめた。

 玉木は、親指の付け根で目元を拭った。「友達、です」と言い、今さっき関係ないのにと送って来た奈々風の方に目をやった。たぶん、真後ろまでは振り返れないけど、真正面から目を背けたくて、動かせる限界の角度に奈々風が居るだけで、玉木は奈々風に何も求めていないんだろう。玉木が上目遣いに玉木が亜子先生を覗き見て、言った。「遊んでただけです」

「本当に? ひどい事されたりとか、言われたりとか、本当にしてない?」

「でも、いじめとか、みたいな事は……」

 そこまでじゃないけど、って少し足を残す言い方に、上枝が呆れて肩を竦めた。

 亜子先生は教卓に置いていた手を離し、姿勢を真っ直ぐにした。「そう言えって脅されたりしてるわけでもない?」それで言えば、四人は玉木の意見に何も期待していない。「何か弱みを握られてたりもしてない?」それで言えば、胸を張った写真や、下手なダンスの動画くらいしか撮っていない。「もっと辛い目に遭ってる子よりマシって思ってるだけでもない?」

 それで言えば、玉木は最後の問い掛けを否定できなかった。

「だったらいいんです。いじめが事実じゃないなら、玉木さんは大丈夫って事ですね」

 ただ意外にもあっさりと亜子先生は引き下がり、それ以上の追及をしなかった。

 わざわざこんなホームルームを開き、クラス全員の前で吊るし上げを行おうとして、それが空振りに終わったとなれば、亜子先生に向けられる失望も少なくなかった。気が抜けたような雰囲気が、教室の底の方からじわじわと湧き上がり、何か軽口を叩きたくなった人から一言か二言、ひそひそと擦れ合うような声が発せられると、声は全く別の誰かに伝播していった。

 亜子先生がそれらを一瞬で吹き払った。

「じゃあ、玉木さんは、誰かをいじめたり、それに加担したりはしていませんか?」

 亜子先生はそう言って、座ろうとしていた玉木を中腰のまま硬直させた。

 教室の恐らく誰も、そんな事を玉木がするとは思えず、耳と目を疑いながら玉木を見た。

「私達がそれをやらせたって意味ですか?」と上枝が聞いた。

「違うの、違います。そういう事じゃなくて」そして亜子先生は、生徒一人一人の顔を、特に女子と一秒以上は目を合わせ、端から端まで視線を動かしていった。そして話題は意外なところに着地した。「みなさんは加工アプリを知っていますか?」それは画像や動画、もしくはカメラが取り込んだ映像をリアルタイムで加工する物で、特に人の顔を判別して美化したり、補正を掛けたりする物の事を、亜子先生は言っているようだった。誰でも知ってる。使った事だってある。「それから、自分や相手の顔を隠すようなフィルターを掛ける事も出来ます」

 男子達は値踏みするように周りに目をやった。

 特に女子が頻繁に写真を加工したり、それを共有していると思っているからだ。

 使わないわけじゃないくせに。加工されて文句までは言わないくせに、まるで他人事だ。

「つまり見たくない物を見ないようにする事も出来るって事」と亜子先生は言った。「少し前に、ある女子生徒と話してて気付いたんだけど、その子は視力が悪いわけでもないし、相貌失認って言うんだけど、そういう病気があって、人の顔を覚えるのが苦手っていうわけでもないのに、たった今見てたはずの人の顔を指したら、誰か分からないってその子は言いました」

 わたしは視線を左にずらし、黒板に書かれたままの『玉』の字に集中した。

 亜子先生は、わたしが先生の顔を見ていない事に、今の今も気づくだろうか。

「玉木さん」

 不意に名前を呼ばれ、玉木は居辛そうに顔を俯けた。

「誰かから」と言う時、亜子先生は四人の内誰にも触れなかった。「そういうアプリを共有しようって持ち掛けられましたか? 今もそういうアプリを使用していますか? そういうアプリで隠したり、見ていない物はありませんか? 良ければ先生に教えてくれませんか?」

 玉木は完全に見られていた。

 後ろのドアの近く、壁際の列の後方から見られている事に、見えなくても気付いていた。

「それって、あの、いじめ……ですか」

「その人が、玉木さんがそれで傷ついたなら、そう認識せざるを得ないです」

「……してないっ、です」

「してないっていうのは、アプリを使用していないって事ですか?」その質問を聞いた時、玉木の顔に浮かんだ卑しい安堵が全てを物語っていた。質問は終わらない。亜子先生は、玉木から、もう一度玉木に視線を移して、改めて問い掛けた。「それとも、玉木さんはいじめをしてないって事を言いたいんですか? さっきの質問にもまだ答えて貰ってませんけど」

「どっちも、してません」

「玉木さん、それは有り得ないです。少なくともアプリは使用してるでしょう?」

 玉木は亜子先生を見て、恐らくその視線の先を辿って教室右後方の席に目を向けた。

「あなたの友達が」と亜子先生は言った。「最近目が合わなくなったって言ってました。それで今、後ろの方を見てますけど、誰の事を見てるんですか? そこに誰が居るのか分かってるんですか?」すり替え、と誰でも分かる言い方だけど、どっちが引っ掛けかは分からない。

 メガネ族が固まってる辺りに視線を彷徨わせていた玉木が、また正面に向き直った。

 信原と神室、男子が一人。その近くの席の男子達が、何か小声で囁き合っている。メガネを掛けているはずの人達に対して、告発をした事か、本人ではない事か、とにかく尋ねようかと様子を探っている感じはするけど。わたしには、どっちなのか分からない。いや、見る事は出来るんだけど、わざわざ見ようとは思わない。本当は、どっちでもいいのかもしれない。

「玉木さんは、その子達を見ないようにって、言われたんですか」

 そう聞かれ、でもそれを答えてしまったら、いけないような気がする。

「ち、ちがう……、わたしが、自分で。したいって」と玉木は言った。

 そこまで頑なに否定する理由が、玉木の方には存在しないはずなのに。

「柚子利香ってそんなに、いじめられっ子じゃないといけない?」

 わたしの背後から聴こえた呟きは、すぐ近くの床に落ちて、二つ三つ先の席にしか届かなくて、その意味なんて誰にも伝わらないと思った。「誰ですか?」と、しかし耳聡くもそれを拾い上げた亜子先生が、すぐ近くの席の子に問い掛けた。その子は首を振って、玉木のすぐ後ろに目を向けた。目を丸くした楊田が「……え?」と頓狂に反応して、固まってしまった。

「え?」玉木も振り返り、やっと目が合った楊田に怯え、目を東西に泳がせた。

 上枝が代わりに聞いた。「玉木さんがいじめられてた方がいいんですか?」

「そんな事。あるわけないじゃないですか。いじめられてるか確認したいだけです」

「違うって言いましたけど。本人もそんな事ないって」

「そう、そう言うと思ってました。いじめられてて本当の事言うとは限らないから」

「本当の事ってなんですか?」

「先生の方こそ、それって玉木の事いじめてない?」と楊田が横から強引に踏み込んだ。

 言ってしまった本人さえ、その論理を結ぶ経路から瓦礫を取り除けず、転んでしまった。

 二言目をみんなが待ち、誰も何も言わない時間があった。でも、これが効いたらしい。

「そうじゃないけど」と言い淀む間に、一瞬生じた迷いが読み取れた。「確かに玉木さんはおとなしくて、小柄で、鈍臭いところがあって、声も小さくて、あんまり意見を言うのが得意ではないですけど。……そう、いじめられてて当然って、思っちゃってたのかもしれない」

 別に、誰もが思ってたけど、あえて口にはしなかっただけの、玉木も自覚していた事だ。 

 その後起こった事の、きっかけは誰にも分からない。

 亜子先生は自分の握り締めた手に視線を落とし、少し見つめていた。それで顔を叩いた。

 自分の右頬を、右手で殴りつけ、その威力は足がふらつくほどだった。教卓に手を突いて体を支えると、右手も開いて、亜子先生は平坦すぎる声で言った。「ごめんなさい、先生みんなの事が分かってなかったみたいです。反省しないと。反省……だから、お願いがあります。先生の事、一人ずつ殴ってくれませんか、今先生がやったみたいに。だってそうでしょう。先生が玉木さんをいじめて、みんなはそれを守ろうとしたんだから、罰を受けるべきなのは先生の方って事になりますよね。まずは鮎見さんから、お願いします。前に出て来てください」

 先頭の席を指差したまま、言った。「あ、女子だけね。さすがに力の差があるので」

 困惑しながら席を立った鮎見さんは、教卓の向こうで先生と向かい合っていた。

 先生が自分の頬を指した。

 教室はこれまでで最もざわつき、それなのに誰一人先生を止めようとはしなかった。

 鮎見さんは亜子先生の頬を平手で打ったけど、音も鳴らなかった。次に太田さんが呼ばれ、教壇に上がると「え、ほんとに? ほんと?」と友達の様子を窺いながら、そこでわたしは肩を叩かれ、振り返ると栞奈が「手出して」と言い、わたしの手に小銭を置いた。「握って」

 握り締めると、小銭は千円分くらいあって、人肌の次くらいに温まっていた。

「骨の固い所に、固い所ぶつける感じで、当ててそのまま振り下ろせばいいよ」

 メガネ族も含めて、女子が教壇に上がっては、下りて来る。

 玉木も、逆に器用に自分の手首だけを痛めそうな動きで手をぶつけた。

 楊田も、上枝も、ポーズだけを取って、瑶鼓は前に出て、何もしなかった。

「したくないです」

「それは、玉木さんはいじめられて当然の子だって、片野さんが思ってるって事?」

「そうじゃないです」

「でも、そういう風に思ってないなら、先生がした事を許せないんじゃないかな?」

「そうかもしれないです」

「じゃあ殴って」

「それは出来ません」

「そう。じゃあ、片野さんはいいよ、戻って。次、兼本さん」

 その後は、やらない子も何人か居たけど、亜子先生は特に何も言わなかった。

 わたしは教壇に上り、それを見た。黒い靄が掛かっていて、どこを殴ればいいか、どうしても場所が定まらなかった。「ここですよ、見えてますよね?」頬を指す手も靄に紛れ、全てが遠くに離れていく感じがする。急かされる前に、わたしは手を振り被った。上から下に、拳を叩き付ける。小銭を落としそうで、それが心配になって拳を強く握り、額の骨と指の骨が当たる瞬間、火花が跳ねた気がした。痛い。関節より、それを全部受け止めた手首が、痛い。

 その痛みは手首で止まり、心にも、どこにも届かずに、靄の向こうで燃え上がっている。

 最後に栞奈が前に出て、両足を軽く前後に開き、亜子先生を殴り飛ばした。

 女子と、男子からも薄い悲鳴が上がり、尻餅をついた先生はしばらく、目の前の栞奈を恐れてだろうけど、立とうともしなかった。手の甲を擦りながら、そそくさと戻って来る栞奈も含めた全員に、亜子先生が喋りにくそうに声を掛けた。「騒がせてごめんなさい。でもね、今ので分かったと思うけど、まだ先生の事を見ようとしない人達も居ます。そして先生にはその隙間を埋める事は出来ません。顔を見ろ、ってその子達に強要する事も出来ないからね」

 戻って来た栞奈は「熱くなれないならすぐに手なんか出さない方がいいな」と言った。

 後ろ手に小銭を返そうとして、でも音が鳴りそうだから、やっぱり手を出してもらった。

「千二百七円くらい、着服してもバレないのに」って、なんかバカにするような反応。

 着服ね、着服。お金のそういうやつの、横領とか賄賂みたいな言葉。だったら無理だ。

 返さないとわたしは、自力であのパンチを放ったみたいになってしまうから。

「今日は本当にごめんなさい。ホームルームはこれで終わりにするけど、みんなの事はずっと見てるから、また何かあったら、いつでも相談してくれていいからね。あともう十何分しかないけど、残りは自習にします。今日は本当にごめんなさい。笠原さん、ちょっといい?」

 日直みたいな事でもないのに、そういえばホームルームを知らせたのも奈々風だ。

 亜子先生に連れられて、奈々風が廊下に出て行った。

 教室で張り詰めていた緊張は完全に解けた、というより崩れて、あっちこっちで二、三人の私語が起こり、相手が居ない人は寝たり、ノートを開いて勉強を始めた。栞奈は勉強道具を広げながら、教室の後ろの方で騒いでいる集団を白眼視していた。引っ張り出された玉木が、椅子の上の、片野の膝の上に座らされ、逃げないようにお腹を抱えられて、その左右から、楊田や絹香や太田が、肩を撫でたり、髪を撫でたり、一房取って解したり、髪留めや髪飾りを付けたり外したりしていた。「あれが気に入らない人も居るわけか」と栞奈が感想を添えた。

「気に入らない、って何が?」

「全員お互いの顔が見えてるし、玉木も悪い気はしてないって感じがね」

 そう言うと、栞奈は机に向き直り、着服できない金額についての勉強を始めた。

 玉木の周りには男女合わせて十人くらい集まっていた。「ごめんねー、かわいいねー、キンちゃあーん」とか言いながら、楊田が胸元に手を伸ばし、それを玉木が身を捩って避けたりして、男子が同じ事をすると、ダメ、って絹香が遮った。冗談だろって、もうそれは冗談ではない。玉木も自らの胸元を庇い、恥ずかしそうにクラスメイトの男子の顔を見上げていた。

 自分にふしだらな真似をしようとした人物を、まっすぐ見つめている。

 壁際の後ろの席には、ずっと女子生徒が二人座っていて、たぶん玉木達を見ていた。

 何も変わらない。

 せいぜいよく言っても変わる事がない範囲が明らかにされたくらいだ。

 しかも玉木が認めた以上、クラスの一部に靄がかかった状態である事が周知になった。

 楊田達のグループと、メガネ族は明らかに分断されたけど、その中間に居る人達は、メガネ族からはどう見られてるんだろう。黒い靄の中に、隠れ潜む化け物のようには、わたしの事を見てはいないだろうけど、親しみも、憎しみもそこに見出すにはあまりに空虚だ。わたしがそういう感情をラベリングしたとしても、わたしが示すべき反応は一つも思い付かない。

 放課後になっても、メガネ族はそれぞれ孤立し、玉木の周りに人が集まっていた。

 いい加減そろそろ、男子にも胸を触られたりはしてないだろうけど。

「さーて、今日もボランティアぁ、かあ……」奉仕の精神は一片も残っていない、労働の歯車のようになった栞奈が、机に腕を投げ出したまま、籠った場所に向かって言った。立ち上がる気配もなく、ただ倒したテトラパックから、口元にストローを固定していて、生半可ではない怠け様は伝わった。ふと顔を上げて、テトラパックを起こしながら、わたしを見た。

「栞奈ちゃん、どうしたの」と奈々風が聞いた。

「調理用機器の清掃って、もはや部活か?」

「楽しそうじゃん、やりたくはないけど」

「楽しい事って、普通やりたくなるんだよ」栞奈は怒り心頭に達する寸前だった。

 発するのか。まあ、どっちでもいいか。「栞奈、先帰っていい?」

「あ、じゃあご一緒ー。まのちゃん、おそば食べに行こう、おそば。三七の」

「あ、ちょっと寄りたい部活があって。……お店で待ってる事って出来る?」

「分かった、場所決まったら地図送るね。じゃーねばーい!」大きく手を振って、歩き出す奈々風は体より大きなリュックサックを揺らし、でも肩に触れるツインテールは固くて、通り掛かりに玉木のスカートをぺらっと捲り上げながら、さっさと教室を後にした。黒いオーバーのお尻を丸出しにした玉木は、スカートの前を押さえて「何で、何で?」と慌てていた。

「冷たいんだ、ひっき」と栞奈が言った。「部活?」

「なんか、どこか寄りたいんだけどボランティアだけは嫌、って思っただけ」

「やりたい時にやるのがボランティアだよ」

 だから嫌なんだ、っていう話だけど、別に部員でもないし何も言う事はない。

 廊下に出たついでに、要するに帰る気にならないんだけど、なんとなく保育科のクラスの方に歩いていった。教室の前を素通り、引き返している時に、ちょうどドアから出て来る人の顔が見えた。なぜか急に、恥ずかしさに顔が熱くなり、見つかる前に逃げようと過ったけど、よく見ると知らない人だった。褐色の髪を編み込み、濃く凛々しい眉毛と、緑色の瞳は落ち着き払った獣のようだ。鼻が高い。大きな口からは自信が発散しているようだ。真っ白な頬に、雀斑が散っている。背が高い。というか縦でも横でもなく、骨格自体が大きいみたいだった。

 そして声高に批判する寸前かと思うくらい、鋭く真っ直ぐな目がわたしに向けられる。

 そっと脇をすり抜け、ドアから「あれー居ないなー」と言いながら、素早く踵を返した。

 話し掛けられそうな気配を察しながら、話し掛けられる前に、その場から立ち去った。

 転校生だか、留学生だか知らないけど、外国人の容姿がキレイなのは余計に怖い。

 階段を駆け上がり、一つ上の階で息を整え、前髪を直して、もう一つ上の階に上った。

 写真部、漫画部、手芸部。そのどれかに瑶鼓が入ったって前に聞いたけど、瑶鼓の作品は一つも見た事がない。その隣に、書道部。ドアの前に立って、もう一度、息を整えて、前髪に触れる。変かって言ったら、いつも変な気がする。特に今日は調子がおかしい気がする。

 開けよう、とした瞬間、内側から開けられたドアに、手を挟まれそうになる。

 急に引いた手が、架空の挟まった場所で、架空の熱感に襲われて、声が漏れた。

 目の前に、標識のような長身の、上の方に印象の薄い男子生徒の顔があった。

「ああ、疋田さん」と、億劫そうに彼が呼んだ名前が、耳に塗り付けるように後に残る。

 書道部には部長の折坂総司しか居なかった。「どこか行くんですか?」

「トイレだよ。一緒に来る?」つまらない冗談を言って、彼はわたしを見下ろした。

 無言で見つめ合い、ちょっと嫌そうな顔になる。

「どいてくれないと」

 ぶつかってくれても、と返す意味はなかった。「あ、すいません。中で待ってます」

 部長は何も言わず、細い体を更に傾け、わたしの横を隙間風のように通り抜けていった。

 部室は空気が乾いていた。墨とか、墨を磨る水だけでは、湿度は足りないらしい。床に敷かれた下敷きの上に、書きかけの英字のロゴみたいなのがあって、周りの半紙には、炎とか、ひび割れとか、そういう感じの装飾が施されたアルファベットの単語か短文が書かれているみたいだけど、一つも読めなかった。腰を下ろし、断面が八角形の文鎮を手に取って、戻した。

 筆は、もう冷たくて、墨が乾いて固まりそうだった。

「古いメタルとかパンクバンドのロゴマークを書いてみたんだけど」と部長は言った。

 戻って来た部長は水筒からお茶を飲み、わたしが居るせいで、少し離れた床の上に正座をしていた。「それこそ和風でさ、バンド名を和訳して、漢字で書いたらかっこいいんじゃないかと思ったんだけど、元のデザインを踏まえた方がいいのか、和っぽくした方がいいのか」

「そういう依頼があったんですか」

「上手く行ったら募集してもいいけど、まだ……寒い? ストーブの近く行けば?」

 石油ストーブがある。筒形の本体にちんちんに熱された鉄柵が覆い、その中で赤々と燃える火が、僅かな隙間から見えた。「近くで当たると肌焼けるし、乾燥するので。寒いけど、本当に寒かったらくしゃみが出るから、まだ大丈夫です。一応ブランケット……あ、教室だ」

「本当に大丈夫? なんか疋田さん、いつも来る時熱っぽいけど」

「いつも生理前に顔見せる、とか言いたいんですか。どういうつもりですか?」

「そうじゃなくて。なんか書きたいなら、いいよ」

「じゃあこれ。これ英語? なんて読むんですか?」

「それはね」膝で這って近づいてきた部長が、横から首だけ伸ばして半紙を覗き込んだ。「これは普通にRだから、レイジアゲインストザマシーンか。はい、硯と。文鎮」右手側から道具を並べてくれた部長が、何か指示したそうに覗き込んで来る。わたしは、膝を置き直し、少し右に動いた。半紙が左に遠退き、部長が仰け反る。わたしは言った。「近くないですか?」

「疋田さんが近づいて来たから」

 座り位置は変えないので、部長は無理な姿勢をしていた。

 角度によって中性的にも見える顔立ちは、弱々しく、明るい表情を滅多に見なかった。

 わたしの手元を見つめながら、彼の右手が架空の筆を持つように、指を動かしながら近づいて来る。「違う、そうじゃなくて」と言われると、それは書道の技術とか関係なく、英語の知識を言われているみたいで、不服さをそのまま当て付けたくなった。右手を差し出すと、彼はわたしの手を避けて筆の上端を抓み、それを半紙の方に動かしてゆっくりと押し付けた。

「英語なんて書いた事ないんですけど」

「梵字だけど、かっこいいからって一人で練習しまくってなかったかな」

「それは」と言いかけ、何か気配を察したわたしは筆を落とし、同時にドアが開かれた。

 部長が立ち上がっていた。ドアの向こうに緑色の瞳があって、縦でも横でもなく、骨格自体が大きいタイプの、大柄な女子生徒が、廊下から部長に話し掛けた。「ワタシ、二ホンの文化に興味があって。この前の文化祭の展示を見て、書道やってみたいと思って来ました」

「えーっと、日本には」

「父と母が二ホンで会ったので、生まれてから八歳までです」

「そう。名前は。僕は部長の折坂総司」

「真平ダリア・ソーンズです」

「部長」とわたしが声を掛けると、真後ろに人が居る事に部長が驚き叫んだ。「帰ります」

「はあ……。あれ、やってくんじゃないの? あ、この人は元部員で、今は、帰宅部?」

「はい。また暇な時に来ます。部長は新入部員の相手してた方がいいです」

「そう。じゃあ」荷物を取って、わたしはさっさと廊下に出ると、静かにドアを閉めた。

 ちょうど、そば屋の位置が送られ、学校から軽く四十分は掛かる所にあった。

 仕方がない。他にする事もないし、放課後は奈々風に付き合ってあげてもいいだろう。

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アグリーダックプロディジー @godaihou

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