Ⅳ.

 会いたいだけなら、保育科の教室に行けばいつでも会う事は出来た。

 見たいだけなら。

 居ただけなら。

 そこに居る事は分かってたし、遡って照合すればデータ上は居る事を確かめられた。

 何もしなかったのは、何もしたくなかったわけじゃない。ただ、その人とは、偶然どこかで擦れ違って、その存在を認識すると思ってて、わざわざ絡みに行ってまで叶えたい事は無かったし、何も思い付かなかった。実際に会ったら、目の前から逃げ出してたかもしれない。

 そうなってから、自分はそれをしたかったんだと思い込んでたのかもしれない。

「その人と会ってどうだったの、って聞いて欲しいの?」

 栞奈は机に表が書かれたプリントを広げ、もう一枚のプリントを見ながら、セルの一つ一つに数字を書き込んでは消し、書き込んでいった。計算は、五桁くらいなら暗算だ。栞奈が数字を足したり引いたりする時、シャーペンの先が空中で瘡蓋を掻くように動いて、それを目で追ってたら無性に眠くなった。あくびが、裏漉しされた練り物のようだ。喉に引っ掛かる。

 どこから、湧いたのか。「栞奈ってさ、今簿、……記って何級?」

「ちっちゃい『つ』入んないよ、そんな所に。固くなっちゃう」

 手で口を隠し、餡を吐き出し、わたしは言った。「入れてない」

「そんな物入れるとか入れないとか言ってないで。簿記ね。一級取るから」

「あ、すごい。卒業までに何段くらい取れる?」

「段位ないって。その人と会ってどうだったの、って聞いたっけ?」

「聞くかどうか聞かれた」っていうのが事実だけど、栞奈は小鼻をひくつかせ、まだわたしの口元を注視して、続きを待っていた。わたしが手で隠すまで。「別に、言う事ないけど、今日もこれから会う事になってる。帰り、どこか寄って二人で話そうよって言ってくれた」

「話したい事があったの?」

 栞奈の青いアイライン、厚めの白いパウダーは、質問を冷酷な詰問に変える。

「分かんない。校門で待ってるって連絡来たからそろそろ……行こうかな」

「行った方がいいんじゃないの。断るにしたって、どうせ校門までは通るんだし」

「んー、そうかも。行くかも。行こうかな」瑶鼓と楊田と上枝が前の方の席に固まって、何か話していた。他に数人の生徒と、玉木が居る。後ろのロッカーの所で屈んで、中にある荷物を漁りまくっていた。小動物みたい。穴を掘るのは、アナホリグマって居ないかそんな動物。

 開けたまま、立ち上がった玉木は自分の席に向かって、バッグを漁り始めた。

「栞奈、ちょっと。行ってみる」

「気を付けてね。バイフォーナーウ」

 またロッカーに向かおうとする玉木が横から飛び出して、ぶつかりそうになった。

「おっと、キン、ちゃん……。何か無くした?」

「ちょっと。忘れ物。……いい。なんでもない」

 わたしがみんなと同じあだ名で呼んでる事を、首を振る玉木は気付かなかった。ぶつかってない腕を押さえてる、かと思ったら、お腹が痛いらしい。ばこん、と気持ちいい音は出ないだろう、本人の沈鬱を呑み込んだように固く閉じた口元を見て、早く立ち去りたくなった。そこに楊田が近づいて来て、玉木の肩を叩く、と玉木は自転車に轢かれたくらい仰け反った。

「なに、おおげさ。ねえキンちゃん、これが無いんでしょ」

 と柔らかいビニールの包みを差し出すと、玉木が手を伸ばし、受け取らなかった。

「中に入れるやつしかなかったけど。早く替えて来た方がいいよ」

「え、でも。使った事」

「大丈夫よ。いつか使うんだから、早めに慣れといた方がいいって」

 中に入れるやつって、ナプキンじゃなくて、その白くて如何にも赤く汚せそうな包装は、全くの未開封で、楊田はそれを使う気すらないようだった。腕に抱え込むように、隠すようにしながら玉木がそれと廊下を見比べていた。「あ、それなら前のが」ふと思い出し、リュックサックを肩から外した。どこに入れてたか思い出す前に、玉木は廊下に走り去っていった。

「いいって。キンちゃんアレでいいみたいだから」

「ええ。でも……あ、夜用の大きいやつだけど。あと眠くならない薬もあった」

「もう終わりかけだし、そんなデカいのじゃ服に響くからキンちゃんも嫌でしょ」

 それはそうかもしれない。

 で、なんか待つ事になってたけど、玉木が現れたのは十分も経ってからで、一回栞奈の所に戻ってみると、必要ないくらい完璧な採点が行われていた。「あれ、まだ居た」とこっちも見ずに言って、それから無言で窓の外を指された。そう、行かないと。って考えてる時だ。

「どうしたのキンちゃん、その顔」って楊田の大げさな声が聴こえた。

 さっきより明らかに、意地悪なカキが通り抜ける寸前のような苦痛を顔に青く滲ませ、両手でお腹を庇いながら、歩幅を小さくしてこそこそと歩いて来る。開封済みの包装は、端から二個か三個は減っていて、その苦闘っぷりが窺えた。「ね、どうだった、どうだった?」

「分かんない。痛い、ちょっと」

「ちゃんと入れないとかぶれたりするよ?」

 楊田を見返す表情には怒りが潜んでいて、玉木は持っていた袋を楊田に押し付けた。

「ちゃんと予備も取った?」と聞きながら、楊田が自分の席へ戻ると、玉木もその後を小さな歩幅でこそこそついて行った。後ろから上枝が近づいて、いきなりブラウスを捲り上げ、玉木の腰にホッカイロを貼った。「辛気臭い顔」楊田がその腰を叩いた。「何で立ってんの?」

「ちょっ、痛い。なに、これ。あつ……あったかい」腰に触りながら玉木が椅子に座る。

 だから、もう行かないと。

 廊下に出る寸前、すぐ近くで「キモいね」と誰かが言った。「あんなのに媚びて」

「イジられてるだけって自分で気付かないのかな」ともう一人が言った。

 テキストログに残らないように、それでも誰かに言いたい事は、声に出して言う。

 盗聴でもされない限り、前後の話の流れから付与されたニュアンスまでは拾えない。

 ほんの二歩だけ後退すれば、ドアのすぐ脇の席に、誰が座ってるかは分かるだろう。

 誰が誰に何を言ったかに興味さえあれば、その辺りはメガネ族が固まってる席だって、確かめられただろう。そうじゃないのに、わたしは足を止めていた。次の一言で全て覆るんじゃないかって、そんな期待はしていない。一体何を言えば今のが全て覆るんだろう。わたしは、壁の向こうに誰かが居るって事をその二人に知らしめたかったし、知られたくなかった。

 ダステムが近づいて来るのが見えたから、追い付かれる前に歩き出した。

 校門の所に、エナメルの【スポーツバッグ】の紐を、胸を通して腕から腕に掛け、お尻の方に提げて、ブレザーのポケットに両手を突っ込んで彼女は立っている。膝上五センチのスカートの下で黒いタイツが両脚を包んで、ローファーは二十四センチくらいあった。首には白いカシミヤのマフラーを巻いていて、黒いロングヘアは低めのポニーテールに括ってあった。

 その根元、ゴムに付いた大きなリボンが金魚みたいにひらひら、垂れている。

 前髪を留めるヘアピンは、金色で『GOD』と『SPEED』の文字を象っていた。

 横に立つと、顔がわたしより五センチ高い所にあって、顎のラインの左側に、肌色に合わせた絆創膏が貼られていた。「ニキビ出来ちゃって」と、わたしの視線に気付いて、彼女は恥ずかしそうに人差し指を当てながら言った。左手の甲と、首筋に小さなホクロが並んでいる。

 二つずつ。笑ってもいないのに、前歯に装着した矯正器具の銀色が見えた。

「じゃあ行こうか」と彼女が言った。

 どこに、とも聞けず、駅に向かう彼女の後を追った。

 歩きながら彼女はバッグを左肩に掛け直し、余っているカーディガンの袖を引っ張った。

 ホームに下りると、ちょうど電車が入って来た。乗り込むと、車内は暖房が焦げ臭く、気怠い熱気が満ち満ちていた。わたしは座席の右端に座って、彼女が目の前で手すりを掴んだ。大きな影が頭上に覆い被さる。ひどい圧迫感。背中で粘つく汗が不愉快だった。彼女が路線図を見上げると、その横顔があまりにも冷酷で、あまりにも、わたしは目を逸らせなかった。

 上熊の駅で降り、高架線を潜り、陸橋を潜ってサティに入った。

 一階、食品売り場から、中央階段脇、薬品化粧品売り場を通って、フードコートへ。

「揚げたこ焼き、今週三回目だな。アイス、ドーナツもあるか」そう言って彼女はふと、対面に座ろうとしていたわたしを一瞥し、また壁沿いに並ぶ店舗を見ながら「何がいい?」と聞いてきた。なんでもいいって言ったら、ここへ来た事も、話したい事も、言われるがまま従っただけみたいで、とりあえずスマホでチャージ額を確かめながら「甘いのかな」と答えた。

「何か買って来るよ。お金は後でいいから。あ、水汲んどいてね」

 柱の周りに、ゴミ箱、洗面台、それと冷水機の隣にコップが積み上がっている。

 そっちを指差したまま、彼女は今週三回目の注文をする為に、真っ直ぐ店に向かった。

 水でいいんだ。コーヒーショップとかは、近くにないけど。

 コップを逆さにしたような勢いの冷水を二杯分、コップで受け止め、席に戻る。

 ずいぶんとアナクロな、呼び出しブザーを置いて、彼女はテーブルの側に立っていた。

 水を一口飲み、わたしに「座れば?」と興味無さそうに言った。

「歯の、それ、いいの。何か食べて」

「何も食べないわけにはいかないからね」と、あまり口を開かずに言う彼女の、頬には悪戯っぽい笑みの残滓がシワとなって残った。「マッピだと失くすし、裏側だと痛そうだし、痛そうっていうかベロでイジってケガしたんだった。気になるとずっと舐めちゃう、口内炎とか」

 その自嘲に艶めかしさはない。赤く膨れた水疱を一つ、二つ数えるだけ。

 彼女がバッグを椅子に置き、開けてすぐ右手前の巾着袋からボトルを取り出した。

 背もたれを掴んで、まるで吹き飛ばされないように、わたしは足を踏ん張っていた。

「マウスウォッシュ。歯磨きセットもあるよ。水も、トイレの水は使いたくないからね」

 あ、トイレの、手洗い場のか。便器の、なわけない。

 ブザーが続けざまに鳴り、彼女はすぐに音を止めて「荷物見といてね」と言うと、料理を受け取りに行った。やっと椅子に座り、その背中を見つめる。太っても痩せてもいない。鍛えても絞ってもいない。ちょうど中肉中背。誰も同じになりたいとは望まない背格好だった。

 更に通知音が鳴り、許可を出した途端に大量のポップが周辺視野を埋め尽くした。

 最近の、栞奈が『98点 98点 94点』とだけ送って来たメッセージを下に送る。

 次は奈々風の長文が見えたから、そこから【疋田】【バス】【放課後】だけ拾った。

 それに栞奈が『デート(ここにハートマーク)保育科の女と(ここも)』と返している。

 全部ちゃんと文字で、括弧も全角で書かれている。

『サティに寄ってるからそのまま帰る』と生成し、奈々風に。

 前後して次のメッセージが来る。『合流出来たら……』みたいな内容から、デートに関する質問とアドバイスが交互に並べられ、最終的に好きな男性のタイプまで書かれているのを、全て無視して下に。あとは冬休みの予定とか、テスト勉強の情報がやり取りされている。

「何見てるの?」ポップの向こうに紺色のブレザー、ポニーテールの人影が動いた。

「ちょっと。友達からメッセージ」

 テーブルの上には揚げたこ焼きの舟とミニドーナツセットの籠が置かれた。

 さっそく箸で一つ掴み、口元を隠したまま食べ、彼女は熱を逃がすように「美味い」と息混じりの感想を口にした。齧られた残り半分は、紙ナプキンの上に。「それで話って何、えーっと疋田真春乃さん。前が……マラソン大会の時。応援して貰ったお礼がしたいんだっけ?」

「そんな事わざわざ。あ、マラソン大会といえばわたしゴール出来なくて」

「そうなんだ。体調不良?」わたしが頷くと、彼女は残り半分も、少し冷ましてから口に入れた。「食べないの? いらないなら全部食べちゃうけど。あ、アレルギーとか無いよね」

「あ、じゃあ。こっち」チョコを纏ったドーナツに、割り箸を刺した。「まあ、体調不良」

「マラソン大会? 休めば良かったのに」

「それはリンカーンが」何の話だったか、思い出せない。「じゃなくて、ほんとそうだね」

 彼女にはその話の思い出さえ無い。「それで話って?」

「話って、そっちがどこか寄って話そうって言って来たから」

「話、聞くよって事。その為にわざわざ亜子先生に繋いで貰ったんじゃないの」

「それは。なんか、ずっと気になってて」

「あたしが? これって告白される感じ?」

 首を振る。「違う」と言わないと、そういう流れだった気がしてくる。

 箸を紙ナプキンの上に横向きに置くと、彼女は手を揃え、わたしの方に向き直った。

「気になるっていうのは、気に食わないって事じゃないよね」と独り言のように言い、彼女はテーブルの上に伸ばして来た手で、わたしの手の指先に触れようとする。「もしかして、マラソン大会より前にどこかで、会ってないわけないか。もう二年生の二学期だもんね」巣穴に帰る穴子みたいだ。引いていく手の爪は何も塗ってないけど、短くて、つるつる光ってる。

「でも最近なんだけど、廊下で、たぶん見たから。そこから」

「廊下で見る事くらいあるよ。移動しないといけないんだから」

「保育科だよね。将来は保育士の、専門学校みたいなとこ行くの? それか、何」

「短大?」彼女は首を傾げ、帰って来た爪を見る。「そうだな、そういうとこ行くかも」

 爪に飽きると、顎の絆創膏に触れて、それから割り箸を手に持つだけ持った。

「わたしはまだ何も思い付かないから、すごいって思う、将来の事考えてるのって」

「考えるくらいはね。分からないも現実的な答えではあると思うよ。ビジネス科だっけ」

「そう。表計算とか文書作成とか、暇な人がやるような事ばっかやる」

「そういうのって何にでも役立つからいいよね。AI使う時も結局パソコン使うでしょ」

 テーブルの上に彼女の大きな手がデタラメな文字列を打ち込む真似事をする。

 結局その【AI】を使ってする事が何も思い付かないって話だけど。箸でイチゴ味のミニドーナツを一つ取る。水を飲んで、そうだ。「お金、半分出す」とスマホを出し、送金用のバーコードを見せて貰おうと思ったら、手で阻まれ、彼女が揚げたこ焼きを口に放り込んだ。

 咀嚼、嚥下、微笑した。「いいよ、大した金額じゃないし。あとで飲み物奢って」

「それでいいならいいけど。ここ飲み物、八百円とか千円するの売ってるかな」

「そのくらいだともうお酒とかかな」

「お酒ってもっと、何万とかするんじゃないの」

「高いのはね。どっちでもないくらいの安い瓶とかあるんだよ。品出しした事ある」

「あ、そうなんだ。酒屋で?」

「スーパー。近所に、店名だけ変わった古い店があって、親族がやってるんだけど」

 身内が居るような所でバイトなんて落ち着いて出来なさそうだけど。

 でもそういう所じゃないと学校にバイト申請するのも大変そうだ。ボタンを一つだけ留めたブレザーの上から、店のシンプルなエプロンを着けて、彼女がスカートを翻して台車を押しながら肌寒い店内を走り回る姿、いや走り回らないか、動き回る姿は想像が付かなかった。

「いつも学校帰りにそのまま働いてるの、すごいね」

「一旦帰ってからね。着替えないと、こんなの」と、テーブルの下に手を入れ、裾を広げたみたいだった。青白黒のタータンチェックに、左向きプリーツが二十本入っていて、それは春風の中で翻るというよりは、秋風の中で固まってるような印象がある。「おじさんおばさん全員に脚見られる。あと寒いし、店の中。髪も上げて、爪もね、ラップとか傷つけないように」

 そう言って、上に出した手の甲をこちらに向け、十本の爪をわたしに見せてくれた。

「同級生だったら紹介してもいいって。時給、お小遣い分くらいしか出ないけど」

「別にいい」

「そう? もう食べないかな。お腹空いてなかった?」

「食べたくなったら食べるから」

「早くしないと、あたし全部行けそうだから、行きたいんだけど」

「じゃあもう二個貰ってもいい?」箸を伸ばしながら、彼女の目付きを窺ってしまう。

 同学年とは思えない落ち着いた顔付きが、作り物みたいに同じ形を保ち続けている。

 なんとなく気まずくなって、わたしは何も言えなくなり、口を噤んだ。

 それに、そうだ。そんな話をしに来たんじゃなくて、じゃあ何をしに来たんだっけ。

 気になるけど、気に食わないって事じゃないっていう、それが全てだった。

 彼女の事を知れば知るほど、些末な情報が覆い被さって、何が気になったのかっていう最初の動機が埋もれていった。新しい物を用意した方が、よほど楽なのは分かってる。でも自分の同じ物を何度も作れるとは限らない。たった一か月前の、それが感性だったとしても、閃きだったとしても、何が気になったのかを解明したい。させたい。されたいのかもしれない。

 誰も喋らなくなると、別々の二人が偶然同じテーブルに着いただけみたいになる。

 別々の二人はそれぞれのタイミングで席を立って、勝手に帰ってしまいそうだった。

 そして二度と会えなくなるわけでもないから、ここでの同席は重要じゃない。もっといい形で会えるなら、今日の事は、いつか擦れ違ったり、見かけた時のように、忘れる事だって出来てしまうかもしれない。目の前に彼女が座っている。たとえば。偶然同じテーブルに着いてしまった彼女の、何かが気になったとして、わたしは何と言って彼女を呼び止めるだろう。

 また通知音が鳴って、わたしは許可を出さなかった。次はスマホに着信が入った。

「出ていいよ」と言われ、わたしはスマホを取った。

「ライブカメラ見つけた」と出た瞬間に瑶鼓が言った。

「え、何の? 瑶鼓?」

「そこのフードコート。スクショ送ったから。じゃ切るね」

「え、待って。何の? スクショって……」とりあえずスクショがあるらしい。

 確認してみると、開けたスペースにテーブルと椅子が並び、通路を挟んでテナントが並んでいる画像と、その真ん中のテーブルを拡大して画質を補正した画像が上がっていた。手前に黒髪の後ろ姿と、対面にポニーテールの、高校生が二人座っている。箸を持って、揚げたこ焼きに手を伸ばしているポニーテールの方は、顔が白く光り、遠目にも整った顔立ちが分かる。

 今わたしが見ているのと全く同じ顔が、全く加工されてない状態で見分けられる。

 奈々風から珍しく短めに『なんかデートっぽくないですね』って感想が付いていた。

「気になるって言えば」彼女の顔を、見れなかった。「フィルターって掛けないんですか」

「フィルター?」

『デートじゃないんで』と送り、それからテーブルと手元の写真を撮って上げた。

 奥にブレザーの一部とピースが見切れてるけど、反対の手には箸を持ったままだ。

 すぐに奈々風が反応した。『相手の子って本当に居る子?』

『幽霊じゃないんで、居るし、喋ったし』

『幽霊っていうかマネキン?』と奈々風が言う。『マネキンっていうかロボット?』

『不気味って言いたいの?』

 AIが【ロボット】から連想して、勝手に【無機質】まで候補に追加される。

『そういう言葉で言っちゃったらそうなるけど、個人的見解としてはあくまでも【本当に居るのか】について疑問が湧いただけで、特に相手の子を中傷するような意図はありません。改めてライブカメラを見返したところ、動いている姿は確認出来ましたので、もし不快な思いをされたのであれば、先ほどの言葉は撤回させていただきたいです。今後このような……』

 あ、もうオーダーが【謝罪】で作られてるからそれの事しか言わない。

 割り込め。『現実離れした美人さんだから驚いたんじゃないの』

『そうじゃなくてね』

 食い下がるか、怒りのタイムアウトを敢行し、メッセージを一掃して視界を広げた。

 彼女はわたしの顔を正面から覗き込み、何も知らない顔でころりと首を傾げてみせた。

 奈々風がそういう言葉にするから、否定したわたしは誰にも尋ねられなくなる。

「今のは何の写真?」

「何……食べてるのって。友達が」

「へえ。それでフィルターの話だけど、何で掛けてないのかって言ったよね」

「あ、全然別に、変な意味とかじゃなくて」と否定してみたけど、意味、と言うわりに意味は何も思い付かなかった。すっぴん風の加工もあるのに、それでも色も光も全く補正してない他人の顔なんてほとんど見ないから、彼女の、顎の絆創膏さえ最初何か分からなかった。「美化アプリ無しでも全然キレイだけど、なんか、何も無しで不安にならないのかなって」

「あなたこそ何か掛けてたらそんなに安心する?」と逆に聞き返される。

 その言葉だけで、彼女自身は不安じゃない、という言外の回答には辿り着けない。

「安心とかじゃなくて。なんか、慣れたらそれが普通になるでしょ」

「じゃあ、掛けてない人を見たら不安になる? それは何で?」

「見えるのが、怖くて。だから、こっちからも周りにフィルター掛けてるんだけど」

 彼女のフィルターが無いとして、わたしからのフィルターが適用されないのは何でだ。

 彼女は初めて見た時から、よりもっと大人びていて、もっと人形じみている。

 何にそう感じるのかは自分でも分からない。たとえば。

 人形みたいに整っているだけなら、その容姿に忌避感なんて抱かないはずだ。

 フィルターを通さなくても大きな二重の目と、高く通った鼻筋と、真っ赤に濡れた唇と、濃く凛々しい眉毛と、細く引き締まった顎と、白く透き通った肌と、どこも在り来たりに綺麗なだけのパーツの集合は、彼女が何者なのかを測る為の物差しにするには物足りなかった。

 電車で彼女は乾燥した唇にリップクリームを塗り、はみ出した所を小指の先で拭った。

 香りも色も付いていない、薬用と書かれていそうな容器は再びポケットに収められた。

 それ以降、彼女の唇はワックスを塗ったように滑らかに保たれる事が保証されただけで、その容姿に与える影響はまるで感じられなかった。同様に、前髪に櫛を通しても、それは分け目が完璧な割合になっただけで、そこから感じるのは安心とか、停滞だけかもしれない。完璧である事は彼女に似合わない。歯の矯正が終わったら、二度と食事をしないわけではない。

 だからわたしは彼女の矯正が永遠に終わって欲しくないのかもしれない。

「矯正っていつ終わるの?」と聞いてみた。

 彼女は黙り、唇を押し分けて自分の前歯に触れた。奇妙な行為。唾液に濡れた指先がワイヤーを引っ掻いて、そのまま口から離れた。「いつだろう?」と彼女は言った。焦点を結ばない目の奥に、心底分からないって彼女の心情を覗き見させ、歯と、彼女は、元から分離していた存在なんじゃないのかとさえ思い始めていた。「いつから付けてたんだろう、これ」

「知らないけど。最後に、あれ歯医者って定期的に行くよね、いつ行った?」

「それは毎月。病院に行って検査して。そんな事気になる?」

「なんとなくだけど。それって終わらないわけじゃないでしょ」

「終わらないよ。直してもちょっとずつ癖で戻るし、加齢で歯自体も弱ってくから」

「でも、歯キレイだよね。どこもズレたりしてないし、歯並びもすごくいい」

「だからそれは矯正してるからだよ」

「じゃあしてない頃の写真って持ってる? 嫌じゃなかったら見てみたいんだけど」

「ごめん、ないな。昔のデータは全部別の端末に入ってるか、写真で持ってるから」

 そうは言ったものの、一応スポーツバッグからスマホを出し、彼女は画像を探し始めた。

 それにしたって、特に大切な写真の一枚や二枚は、移しておく事だってあるだろう。

「教わったIDに画像送っていいのかな」と聞かれ、頷くと、すぐにメッセージが届いた。

「一番古い写真、入学してすぐのだけど」目の前の彼女が言った。「もう矯正してるな」

「って事は、え、一年半前から?」

 知らないけど矯正ってそのくらい時間が掛かるものなんだろうか。

 写真はバストショットで、真新しい制服を着た彼女が、真ん中に一人で写っていた。

 髪は今くらいの長さで、ポニーテールに括って、右手は顔の横でピース。

 口角を上げて、やや緊張気味の口元から薄く、矯正器具だけが見えている。

 左の顎のラインには滲みツールを押したような痕。現在、正面にも、同じ物がある。

「この写真の時って、ニキビとかあった?」

「うん、あ。そう、左の顎のところに絆創膏貼ってるから、たぶんあったんだよな」

「今貼ってるのとちょうど同じ所に見えるけど」

「みたいだね」と彼女が感心したように言って、わざわざ右手で左頬に触れた。

「昨日は? 確かマフラーしてたから、顎の所よく見えなかったような」

「昨日は貼ってたよ」

「覚えてないんだけど、もしかして、マラソン大会の時も絆創膏貼ってあった?」

「あったけど、何で。あったら何かおかしい?」

「分からないけど」いや、分かってるから一言、無かった、と言うだけの事が彼女には出来なかった。「わたしの友達がここのライブカメラ見つけて、……あるんだって。わたしも上の映画館のは見た事あるけど。それで友達が、幽霊と一緒に居るの、みたいな事言ってきて」

「生きてるよー」って困惑しながら両手を振る姿が、柳の揺れる様子に似ていた。

「だからなんか、それくらいキレイ過ぎるって思ったって事みたいなんだけど」

 彼女は居心地悪そうに顔に手を当ててはにかんでいるけど、そんな事言ってたっけ。

「えー。そんな事、本当に思ってる? なんでそれで幽霊になるの」

「ライブカメラってそういう怪談多いから」とわたしはデタラメに答えた。「でも実際近くで見たら、全然そんな事なくて。あ、キレイじゃないとかじゃなくて、その絆創膏とか特にそうだけど、ちゃんと生きてるように見えるじゃないですか。なんか、わざとそういう風に見せてるんだとしたら、って思っちゃっただけ。幽霊にニキビなんてあんま聞かないから」

「お岩さんとかは。よく知らないけど、あれは目が腐り落ちたりしてたかな」

「そういうのは、なんか別な感じする。ゾンビ、でもないけど、そういう感じの」

 彼女は箸を両手に持ち、その先端を擦り合わせた。手に取ったコップは、中身がほぼ空だったから、口も付けずにテーブルに置き直した。「幽霊って、面白い事言うんだね。その友達、今度会ってみたいかもな。なんていう子? 名前って、ある?」急に素っ気ない口調で彼女が言った。まだコップに触れて、軽く回している。視線はずっとコップの方に注がれていた。

「無い人居ないよ。でも会って……、会ったら、今度はなんて言うんだろう」

「それで言うと、あなたは実際会ってみてどう思ったのかな?」

「会ってるよ。この前も。マラソン大会で」

「あの時はみんなゾンビみたいになってたから、無しで。今日の話」

「ずっと気になってた、って言ったよね」と聞くと、微かに頷きはしたけど、時間稼ぎに付き合う気は無いかのように、鷹揚に目を閉じて、ただ話の続きを待っていた。黙っていると、幽霊でもあり、マネキンでもあり、色んな例えが浮かんでは消え、彼女の事を真っ直ぐに見ようという気は無くなる。「でもやっぱりロボット、ロボットみたいには見えないですね」

「ロボット?」口の中で呟き、ふと彼女が横を見る。

 サイドテーブルに顔が付いたような配膳ロボットが通路のゴミを掃いて回っていた。

 見えないって、わたしは言った。その続きを待たれると、もう否定するしかなくなる。

「その友達が、幽霊じゃないならロボットみたいだって言い出して」

 幽霊って言ったのはわたしだったけど、ロボットって言ったのは本当に奈々風だ。

「あたしが? ロボット……今だとアンドロイドって言うのかな? いや人間だけど」

「でもわたしも、そうなのかもって。ちょっとだけ」

「ちょっとでもやばいよね。5パーくらい? どういう理由で?」

「三割……」もう呆れられてるから、俯き、視線を最後の揚げたこ焼きに向けたまま、わたしは言葉を続けるしかない。「初めて見た時から何か変だって思ってて。なんか、メイクもしてないし、何のフィルターも掛けてないし、人のそんな顔久しぶりに見たからビックリして」

「人間離れした美人だから、じゃあ人間じゃないって事だ、って思ったのかな」

「それ自分で言う。そうじゃなくて、なんか、何で見えるんだろうって」

 言ってしまった。伝わらないより、伝わってしまう事をわたしは恐れている。だってわたしのその疑問は、誰かの違う疑問になるから。何で見えないんだろうって。何で、見える事を疑問に思うんだろうって。わたしの方がおかしいみたいに、誰かが指摘するだろうから。

 彼女が口を尖らせる。「意味が分からないよ。分かるように言ってくれる?」

「人間離れした美人だから、人間じゃないのかなって思っただけ」

「思ってもない事。他の子には、そう思う事ないの?」

「だってメイクしてフィルター掛けたらカワイイ子しか居ないから」

「それは素敵な世界だね。じゃあ自分の事は。どう思ってる?」その時、思考から逃避したわたしの拡張視野に、幼少期の写真が表示された。海だ。茶色く湿った砂浜に、オムツの上にロンパースを着せられた、二歳か、一歳くらいの女の子が、プラスチックのシャベルを持って立っている。足元に波が迫り、その冷たさに怯え、泣き出す寸前まで必死に耐えていた、その限界まで突っ張らせた無表情が、痛ましくて見ていられなかった。二つ結びにした短い髪の、ヘアゴムに付いたフルーツの飾りまで、粗い画質の中に見分けられた。写真とメッセージの海の向こうに、彼女の姿が見える。「あなたは気にならないの。自分がどう見られてるか?」

「別に、いいイメージ無いと思うから」

「言ってあげようか」耳を塞ぐ隙も与えずに彼女は言った。「見た目良い方だと思うよ」

 彼女の二重の目は虹彩が異様に大きく、長い間見つめられていたような感じがした。

 彼女にはわたしの顔が見えている。だけど、彼女はフィルターを通して見てはいない。

「それって結構ひどい事言ってると思うんだけど」

「だと思った」彼女は相好を崩して言った。「でもそれしか言う事ないよ」

 配膳ロボットが来たから、彼女は紙皿と、コップ、割り箸をまとめてロボットの背中に置いた。合成された『アリガトウゴザイマス』の音声に、同じくらいの片言で「ありがとうございます」と返して、二秒後にはロボットから目を離していた。お皿のような目が二つ並んで、わたしを挟み込もうとしている。そして彼女は誤って噛んだ小石みたいな言葉を吐き出した。

「あれと同じぃ?」

「結構似てたけど」

 言いたい事は何も無かったけど、何も言えてないし、まだ席を立つ気は無かったけど、飲み物を買いに行くっていう実際の用事があるから、なんとなく無言で席を立って、二人で食品売り場に向かった。本当に水分補給が目的なところとか。1リットルの無調整豆乳を買うところとか。人でも機械でもない、AIの補足によると【無機質】な側面が見えると、彼女の事が改めて分からなくなる。グミも補充して、わたしがお金を払い、中央階段を上って、上って、上って、そのまま屋上階に建てられた映画館に出た。音が聴こえる。天井に吊るされたブラウン管風モニターで予告映像が流れている。スポットライトは床の薄い絨毯にロゴマークを投影していた。ポップコーンみたいな匂いがして、それがフィルムの焼け焦げる匂いと重なった。

 奥の方には売店があって、薄暗い館内で、そこだけ間接照明が皓々と照っていた。

 確か偏向グラスを持ってれば、立体映像のバニーが館内を案内してくれたはずだ。

 フライヤーの棚で足を止めて、無作為に何枚か取ってから、ソファを一つずつ分け合って座った。円形を縦横に四分割して並べられた背もたれのないソファは、座面が沈みすぎ、表面は冷たすぎた。彼女は長い脚を前に伸ばし、テトラパックを足元に置いて、フライヤーを一枚ずつ眺めていた。「アクションアクションホラーアクション、とアニメ。今年は不作だな」

 レモネードを一口、蓋をきつく閉める。「どんなアニメ?」

「総集編。と、リバイバル4DX。お笑いライブもやるんだ。やっぱりホラーかな」

「これから映画観るの?」

「映画探すの、観るより楽しくない? ここしかも暗くて音があって落ち着くでしょ」

「いいけど、休む所じゃないよ、ここ」

 カウンターの奥にあるポップコーンマシーンの横で、店員が二人こちらを見ていた。

「じゃあ何のソファって話になるけど」

「映画酔いした人とか、始まるまで時間空いちゃった人とかが」

「誰も座ってないんだから、いいよ。優先席と一緒。譲る行為が先じゃないんだよ」

 キャストやあらすじを黙読する知人が横に居て、自分だけ何もする事が無いのは余計に辛かった。かと言って、売店で観てない映画のグッズや割高のフードを買ったり、トイレに座って時間を潰したりするわけにもいかない。しかも隣の知人は、ついさっきよく分からない会話をして、結果人間ではないって結論に、至ったんだったか、ないんだか、少し気まずかった。

 二周目の、表も裏も目を通し終わって、彼女はふと顔を上げた。

 豆乳を胃に流し込み、素朴な香りの息をふわりと吐き出した。「言ってなかった事があるんだけど、聞きたい?」彼女は正面、ちょうど劇場に向かう通路の入り口にある、自動改札に顔を向けていた。外観を見ても、一度か二度、映画を観た事があっても、スクリーン数も、部屋の数も配置も分からない。あの奥は、どこまでも無限に続いていそうな不気味さがある。

「どっちでもいいけど、そんなに言いたいの」

「うん、あたし実はロボットなんだよ」

 横顔に、嫌味を引っ掛ける笑みは無く、口角はむしろ下がっている。

 彼女は横目でわたしの反応を窺い、少し残念そうな様子で手を組んだ。

「今日話を聞くって言ったのは、フィードバックする為」と彼女は言った。「あなたが何に違和感を持って、あたしをどう思ってるか探って、っていうか直接聞いて、今後同じ違和感を誰にも持たれないようにする為。だから今日の会話は記録に残らないし、あなたの記憶も出来れば消したいけど、デリートコマンドはまだ未完成で、使うと麻痺とか震えが出ちゃうから」

 靴を履いたまま、彼女はソファに上がり、膝を使って這い寄って来る。

「じゃあ、どうするの?」

「だから、……今の話全部嘘だよ」

「嘘、って事は。忘れてもいいんだ」

 すぐ目の前に迫る彼女の制服から、柔軟剤の強い香りが鼻に叩き付けられる。

 汗や脂ほど生々しくはないけど、分かりやすい生活の痕跡として、彼女に親近感を抱く事の出来る匂いだった。スカートがひらひら揺れて、次に脚を前に出した時こそ、捲れ上がってしまうんじゃないかと思って、それは一度も起こらない。タイツは厚く、曲げた膝の頭さえ透けない。肩に手が置かれる。ブレザー越しに、体温は判別できない。ただ、人が間近に居るというだけの、摂氏一度もない変化を肌に感じる気がした。「人間だよ、確かめてみたら?」

「それって、目を取り出したりとか」

「それはロボットだったらの確認。たとえば、胸に触るとかね」

「シリコンか脂肪かの違いなんて分からないよ」

「違う、心臓。音聞いてみて。まだ機械を鼓動させる事なんて出来ないから」

「別にいいよ」って言う前に、頭を引き寄せられ、胸元に押し付けられた。

 これは、脂肪と、筋肉か、自然な活き活きした弾力と、ちょうど心地よく押し合う。

 逃れようにも腕の力が強く、仕方ないから耳の位置を動かして、左胸であろう肉の弾力と肋骨の段がある辺りに押し当てた。とん、とんと一定の、一定すぎるリズムで、何枚も隔てた奥の奥の方から微かに濁った音が聞こえ、それは【人工筋肉】のポンプが【ペースメーカー】によって規則的に収縮する音じゃない気がした。スピーカーが埋め込まれているとしたら、その違いはわたしには分からないけど。「聴こえる」とわたしは言った。「生きてるみたい」

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