Ⅱ.

 玉木柚子利香が、何でこんなに絡まれるようになったのか、についての思い出。

 二年に上がって情報ビジネス科のクラスに分けられると、男子と女子は四対六か、三対七くらいの割合になった。一人二人はまあ、どうでもいいけど。その頃から瑶鼓を中心としたグループがクラスで一番目立っていて、わたしはその周りで息を潜めて過ごしていた。

 五月の、遠足があってすぐだから、下旬の、ちょうど衣替え期間だった。

 暦の上では春だからと、冷房を付ける許可が下りなくて、教室内は暑かった。

 暑いと言っても三十度前後、湿気も少なく、風を入れれば過ごせなくはなかった。

 サマーベストを脱いだり、シャツのボタンを一つ外したり、ネクタイも緩めて、特に注意されなかった。奈々風は指定外の青いリボンを見つけて、それを付けていた。だから、頑なに上着を脱がなかったメガネ族も、なんとなく夏服に切り替えて登校するようになった。

 楊田美亜里と、最初は兼本絹香、片野瑶鼓、上枝奈波穂も一緒だったかもしれない。

 要するにいつものグループだ。

 クラスの出し物とか、遠足の行き先とか、何でも決める影響力を持ってる人達。

 その時期はみんなイライラしてたし、ソワソワもしてた。それだけと言えば、それだけの事だけど、兼本がそれに気付いた時、どうしてやろうと思ったのかまでは、分からない。ブレザーの代わりにニットベストだけを着けた玉木を見つけて、兼本が足を止めた。

 休み時間、メガネ族同士はお互いに距離を取って、本を読んだり動画を見ていた。

 玉木も俯き気味に、体を隠すようにしてたのを、兼本が容赦なく覗き込んでこう言った。

「胸でかくない?」

 すぐ隣の楊田に聴こえるように、にしては少し大きな声だった。

 隣の楊田は兼本には答えず、玉木の正面に回って、ふてぶてしく尋ねた。

「何カップあんの?」

「え、え、F……だけど」答えたくなさそうに玉木が答えた。

 ますます小さくなって、でも腕で隠すと、それを強調する事になるから、しなかった。

 玉木の身長は百五十、見た目では二とか三くらいで、以降もほぼ変わらなかった。

 子供みたいに小さいわけではなく、横幅は、肩とか、腰とかは普通に成長している。

 だから当然胸も、お尻もだし、あくまで身長が伸びきらなかったみたいな体格だった。

 自分達よりも未熟に見えていた相手の、そういうのは余計に気に入らなかったんだろう。

 楊田はもう一度、強調するように胸のサイズを連呼し、写真を撮った。

 別に服をひん剥いてとか、下着のタグをとかじゃなく、ただカメラを向けただけだ。

 玉木も咄嗟にピースなんかしようとしたかもしれない、微妙な位置に手があった。

 夏のプールの授業は二年生から、それも選択制だった。

 もう一つの武道も、格技場に空調があるので効きにくいとはいえ多少は涼しい。

 だから水に入ってワンチャン涼む目的だけでプールを選ぶ理由には、なりきらない。

 玉木が二度目に絡まれたのはプールの授業の時だった。その五十分間、受け身だけを取り続けていた自分や栞奈には何が起こったかは分からないけど、後から聞いた話では、誰かと接触するか溺れかけた玉木が、大量の水と胃液をプールサイドに吐き出し、寛げる為にスク水のトップスを剥ぎ取られ、タオルを掛けてデッキチェアに寝かされていた。半分で区切られてるとはいえ、男子も居たから、タオルの下のトップオブトップスは見られたかもしれない。

 それはとても色素が薄く、周辺は硬貨くらい大きかったそうだ。

 信原透は瑶鼓と競い合うくらいの身長で、頭からつま先まで、どこも細長かった。

 声も、いつも特定の誰かにしか聴こえない細い低い声で、よく相手を驚かせていた。

 当然胸も薄いから、玉木がそういう弄り方をされている時は、枯れ木のように目立たなくなって、関わろうとはしなかった。果たして楊田が、小さい事、それ自体を揶揄するような事を言うかは分からない。信原は、触れられもしない事をも、恐れていたのかもしれない。

 みんな楊田が「信原はキンちゃんと違って小さいのに」って言うと思ってたから。

 メガネ族も男子は六人も居たけど、女子は玉木と信原ともう一人、神室だけだった。

 アプリは眼鏡を認識して加工から除外するけど、女子達はメガネそのものを忌み嫌った。

 メガネ族が眼鏡を通して自分達をどう見てるかは知らない。

 ただ女子達は、メガネ族をほとんど見えないようにしていた。

 じゃなきゃ、見ているだけマシという言い方も出来るだろう。それでも楊田は時々、玉木の顔にホクロを見つけては「変なところにあるね」と言い、ニキビを見つけては「変なところに出来たね」と言い、何も無ければ「冴えない顔してるね」と言った。

 ブスとか、もっと直接的な言い方はしないけど、誰もがそういう言葉を連想した。

 玉木はいつもスカートの下にハーパンを穿いている。

 日が当たると、夏スカート越しに透けて見えるから、楊田はそれもダサいと言った。

 それで度胸試しが行われた。

 多脚型警備&掃除用ロボットの【ダステム】は一日中、校舎内を巡回していた。

 主に廊下と階段を、だから教室棟、管理棟、特別教室棟、総合実習棟で、通常は各階に一機ずつが配備されて、カメラやセンサーで人を見分け、不審者や不審物を発見する。三角形の履帯脚と、壁に埋め込まれたガイドによって、階段を上り下りする事も出来るけど、邪魔になるので、上り下り中は通り掛かる生徒の手すりにもされていた。

 とはいえロボを蹴ったり、倒したり、廊下に寝転んでるくらいで通報はされない。

 たとえば体温が著しく高いとか低いとか。

 制服もジャージも身に着けていないとか。

 タバコや放火の煙や高熱を感知するとか。

 そのくらいの事態なら経験しているから、生徒の方でも慣れて来て【ダステム】で遊ぶようになっていた。その一つが度胸試しだ。玉木はハーパンを脱がされ、誰も居ない放課後の廊下に躍り出て、そのカメラかセンサーのどれかに向かって、自分でスカートを捲り上げた。

 人の目と違って、常に誰かが見てるわけじゃないから、という言い訳。

 メガネ族の玉木は、スカート丈も控え目に、ちょうど膝の下端が見えるくらいだ。

 それ以上はむしろ長くする方に改造したかもしれない、いわゆる【スケバン】のように。

 そこで度胸を認められ、玉木はグループの一員として迎え入れられた、わけじゃない。

 自ら痴態を晒す玉木を、楊田と絹香と上枝辺りは遠くから見て面白がっていた。

 またその頃は、玉木と信原の関係にも僅かな綻びが見え始めていた。

 助けない、は仕方がない。

 一緒になって弄られ、笑われても、それならまだ耐えられるかもしれない。

 しかし二人は、信原の方から距離を取っていた事と、何より楊田が信原にまるで興味を向けなかった事で、お互いに気まずそうにしていた。メガネ族自体は、もう一人を含めて、実験や実習の班だったりで、なんとなく固まっていたけど、それ以外の時は、三人が三人、それぞれ教室で孤立していた。

 信原は誰にも干渉されない事を羨んで、玉木はみんなから弄られる事を妬んだ。

 前期の中間考査で、わたしは人生で初めて複数科目で赤点を取って絶望し、絶望したまま球技大会を迎え、二度のラフプレーに巻き込まれ、怒った奈々風が相手の顔面を狙った大暴投の時点で体育館から逃げて、その後何があったかは聞いてもいない。

 三者面談では、樺山くんに進級も危ういって話をされて、帰りに回転寿司に行った。

 とにかく対策を考えるより景気付けだと言って、母と二人で三十皿は食べた。

 帰宅すると仏壇に手を合わせ、ホログラムを起動して、わたしはAIばぁばと話をした。

『女の子はいっぱい勉強して身に付いた物で立身してかないといけないのよ』

「職場で気に入られて、そこそこ良い人見つけて子供産んで育てればいいよ」と隣に座布団を持って来て母が言った。「おばあちゃんがしたかった事も分かるけどね、他の学校でも充分学べるのにわざわざ共学化したり、都心の大学に集中して入学枠減らされたりしてもね」

「それって伯母さんの事?」

「違うけど、そうだ夏休み、どうするの? 海外……タクラマカンだけど一緒に来る?」

「行かない。それどこ?」

「どこだろうね。実家行くにしても、今年はお盆辺りだから親戚が集まってるかもね」

 母は帰省をしたくないらしい、お正月も、その前の夏も、冬も、行ったのはわたしだけ。

「こっちで留守番でもいいけど。ばぁばと」

「一人で? それはさすがに心配。誰か呼ぶ、って言っても、お盆だし、お友達……」

「何日?」

「三泊五日とか。友達の家、そんなに泊まらせて貰うわけにも行かないでしょ」

 そうだ、それに泊まらせてくれる友達なんて居ないでしょ、なんて誰も言ってない。

 ばぁばだって『迷惑に思わないのは、相手が掛けたくないって思ってるからよ』と諭すような事を淡々と言った。『でも実際にそれが起こった以上は、掛けてしまった、って思っていないと、それは全然誠実でも何でもないの、それはもう願望でしかないんだから』

「うん。海外って絶対行かないとダメ?」

「まーちゃんこそ、絶対に行きたくないの?」

 どちらかがイエスで、どちらもイエスでなければ、それだけで済む話なんだけど。

 思い返せば、母は父が不意に帰って来る事を危惧していたのかもしれない。

 たとえば。高二になって色々成長した娘が一人っきりで留守番している家に。

 あるいは。身を持ち崩して出奔した男が勝手知ったる顔付きで帰って来たら、その時、妻とそっくりな人間を目の前にして、その男は何をするだろうか。八年くらい前にも、父はふらっと家に帰って来た。玄関先で母と祖母に金の無心を申し出て、断られると暴れ出し、そこで初めて酒の匂いをさせて、ドアの陰から見ていた小さな娘の腕を掴んで引っ張った。

 俺が紹介してやれば一晩に何万稼げるんだぞ、みたいな事、言ってたかもしれない。

 それが十七にもなれば。母は最も良くない想像を働かせていたようだった。娘の手前、そういう言い方はしないけど、そんな訳はない、とは言い切れない。授かり婚で式も挙げず、母は勤め出して二年になる会社を休む事になった。それから五年や十年まともに会っていない母でさえ、父と再会した途端そういう事になったら気持ち悪いのに、その娘となんて。

 母の方がどう感じるのか、まだ、どうなのかは、怖くて聞く事が出来ない。

 ばぁばが言うには『その時だけは惚れる理由があったんだろうね』って、だから何。

 高二の、モラトリアム真っ只中に、夏休み前から憂鬱な気分だった。

 タブレットに収まらないほどの課題を抱えて職員室を出ると、校舎の北側の、窓を開けない廊下は、空調の黴臭い冷気が充満していて、骨の芯から凍えそうだった。飲み物を買おうと思って、昇降口の脇から外廊下に出ると、女子の集団がスカートを翻して走り回っていた。白いブラウスに、ニットやベストを羽織っていて、ネクタイを揺らしているのは一人だけだ。

 小さいツインテは奈々風で、もう一人の小さい子は、玉木なのかもしれない。

 玉木は楊田に園芸用ホースを向けられ、放たれる水飛沫から必死に逃げ惑っていた。絹香は日陰で濡れタオルを被っていた。上枝はどこからか椅子を持って来て座っていた。瑶鼓はバケツを重そうに両手で運んで、それを全身の反動を使って真上に投げ、楊田と、他の四人の上に、蛇のようにのたくる流水が降り注いだ。わたしの足元まで、ぽつぽつと黒い染みが出来た。

 一番濡れた瑶鼓が、自分でした事にわりと本気で怒る様をみんなが笑っていた。

 スマホを取り出し、カメラを向ける。片手で、三人を収め、一人は見切れてしまった。

 そのまま黙って教室に戻ると、栞奈が自分の机に体を投げ出して眠っていた。

「栞奈、寝てるの?」と肩を揺すってやると、鼾を詰まらせ、栞奈が顔を上げた。

 開いたままの本に唾が垂れ、三枚くらい、ページの半分がふやけていた。

 口の端に垂れたのを袖口で拭い、栞奈は開ききっていない目で教室を見回した。

「っていうか、ああ、本が。ひっき、アイロン持ってる?」

「コテ? 無いよそんなの。荷物になるから」

「シワ伸ばすアイロン。ドライヤーでもいいけど。これ図書室のなんだよ」

「だから無いって。本、焦げちゃうでしょそんな事したら」

「それ何?」栞奈がわたしの胸を覗き込み、言った。「あー、ラーメン食いたいかも」

「これは夏休みの課題。補習でやるとこ全部。お腹空いてるなら帰りくるまや寄る?」

「あれ、部活あるから無理なんじゃなかったっけ? 今日」

「書道部は辞めたって言ったじゃん」

「あたしが。ボランティア部。校外だっけな、校内か?」立ち上がり、窓の外を眺めると、左の端の方に何かの運動部が走ってるのが見えるだけだった。ボランティア部は、一年の時に栞奈に誘われ、わたしは入らなかった。確かバイトの申請が厳しい鉢形で唯一、堂々と特別手当が出る部活だって、栞奈が自慢げに話していたんだ。ボランティアは本来、無償労働っていう意味でもなく、民間の施設でも活動する以上は、何かしら出さざるを得ないらしい。

「栞奈、あれ誰、何してんの?」

 教壇の辺りで、机に隠れて蠢く物が立ち上がった。長身で、細身で、なんだかボサっとしたシルエットが、水に潜むワニのように、また低く身を屈めて、何かを探してるようだった。スカートは膝下まであった。ソックスは無地の紺色で、棒のように細い脚を隠していた。

「信原でしょ。なんか、探し物してるみたい」

「手伝ってあげないの?」

「ざっと見て無いなら教室には無いんじゃないの」

 そう言われれば、物が隠れるような場所も、教室には大して無いけど。

「玉木一緒じゃないんだ。そういえば、さっき外で水掛けられてたな、玉木」

「そんな事してんの」驚いた様子でもなく、あくびを噛み殺しながら席に戻ると、栞奈は横に掛けてあったリュックサックを取り、汚した本をそのまま突っ込んだ。「楊田が連れてったの見たけど。さっき、寝る前かな、ひっきが教室出てすぐに。じゃあもう行くね」

「あ、うん。頑張って」

「んばるよー」と、廊下に出る直前、栞奈は信原に声を掛けた。「ダステムに探させた方が早いんじゃないの。写真データあったらだけど、それワイファイで飛ばして、っていうか何探してるの?」って明らかに質問をしたのに、信原が顔を上げる前にさっさと行ってしまった。

 答える相手を見失った頭が、あちらこちら視線を彷徨わせ、わたしを見つけたようだ。

「あ、わたしも部活、行かないと」と呟き、さっさと荷物を纏め、教室を飛び出した。

 書道部は教室棟の五階にある空き教室の一つを部室に充てられている。

 その並びに特殊な設備や機材の要らない文化部が集められ、放課後になると、曜日毎に異なる部室から甲高い人声が廊下にまで漏れ聞こえて、活気があるんだって勘違いしてしまいそうになる。本当に活気のある文化部は、集中している時はむしろ静かになるんだろうけど。

 書道部は一応後者で、墨を磨る音もドアを開けてから耳を澄まさないと聴こえない。

 机は無く、床に大きな紙を敷いてから、その上に半紙や書初め用紙を置いている。

 書き終わったら、乾くまでの間に、横に次の紙を並べて、また書き始める。

 ちょうどその時は、前の方に女子が三人と、言ったら【司令塔】の位置で部長の折坂先輩が腕を組んで半紙を眺めていた。前掛けを付けた三人の、ジャージのお尻を品定めしてるようだけど、部長は正面と左右に居る人の事は少しも見てなかった。

 足音を潜めて近寄り、膝の裏にスカートを押さえ、部長の隣に腰を下ろした。

 動物を模した文鎮で四隅を押さえた半紙には、アニメ風の絵が墨で描かれていた。

 髪の長い女の子と、髪の短い女の子が、頭半分くらいの身長差を隔てて、お互いを見つめ合っていた。大きい方がメインになって、その子が着ているセーラー服の襟や、相手の背中に回した腕が紙面を大きく取っていた。「なんかのMVみたいですね、この絵」

「アニメで見たかお茶のパッケージで見たかは人によるんだろうけど」と言い訳じみたような事を言って、部長が小筆を取った。書きかけだった体に線が足され、胸元に刻まれた深い陰影は、柔らかい物が衣服越しに押し付け合って、潰れたような質感を描き出していた。

「春画ですか?」と知っている限りの言葉で言い表すと、部長が口を曲げた。

「水墨画、じゃないかな」と首を傾げながら言う。「何しに来たの、疋田さん」

 前の誰かの耳が反応し、手の動きが止まったけど、誰も振り向かなかった。

 折坂総司は福祉科では珍しい男子で、更に珍しい百八十近い長身でありながら、数多の勧誘を断って文化部を志望した。意外と華奢で、伸びすぎて二メートル半もある人みたいにのそのそした所があるけど、女子の部員の大半は、この先輩に勧誘されたような物だった。運動部のマネージャーをやるよりは、そこまで目立てない女子達が愛でる盆栽のように、部長は書道部に君臨していて、ちゃんと文字も綺麗で教え方も丁寧だった。

「疋田さんが言うような大道芸パフォーマンスをやる予定はずっと無いよ」

 と言って、そして他校の人気の書道部と自分達を明らかに区別して話した。

 文化部にも陽の側面があって、特に吹奏楽や軽音楽を、部長は目の敵にすらしていた。

「今日はちょっと、墨の匂いを嗅ぎたくて。それ、出すんですか?」

「出すって……いや、コンクールとかは無いけど、まあ上手く行ったらSNSには」

「絵は上手いと思いますけど」

「こういうイラストは線で描くから日本画的ではあるんだよ」と部長は言った。「でも水墨画みたいに濃淡で描くには細部の情報量が多すぎて、細部って別に胸の所とかそういう……、だから服とか髪とかの話だけど、二人以上の人物を描き分けるのも難しいから」

「これってどうなってるんですか。腕がこう」と、絵に合わせて動いてみた。

 部長の方に腕を出して、見えていない奥側の腕も、想像で空気を掻き抱いた。

 部長に近づいて「こうですか」と聞いた。「部長が大きい子の方がいいですか」

「分からないなら上手くないんだろう。いいよ、やらなくて」

「でも、気になるから」一瞬、顔を上げてこちらを見た部長の目に、制服の内側まで探るような暗く粘った光を見た気がした。手は全く動かさず、筆を手放そうともしない。それ以外の意識の全てが触れて来るか、来たらいいのにと思って、自分の意識を引っ込めた。

「あの!」と左の女子が決心したような声を出して立ち上がった。「出来ました」

「ああ、うん。疋田さん、部活あるからそろそろ」

 膝で左に這っていった部長を見送りながら、手持ち無沙汰になった腕を、ゆっくりと下ろした。壁には「永」の字だけが書かれた半紙が貼られ、床に散らかった半紙にも、同じ文字が書かれていた。素振り、走り込み、みたいなものだ。半年くらい筆を握ってた時も、自分の実力の向上や、停滞を実感したのも全て「永」の字だけで、その見極め自体が自信になった。

 今となっては、何の為にやるのかという、モチベーション自体が抜け落ちていた。

 夏休み前に復帰なんてしても、それは部長と何かをするって事じゃない。

 夏休みは補習と、補習と、土日の休みで出来ていた。

 先週と変わらない、それどころか補習は半日で終わるにも関わらず、土曜日には疲れ切って午後まで起きられなかった。試合をしたとか、海に行ったとか、バイトを始めたとか、取り留めない連絡を受けるたびに、補習をした、って報告では弱々しくて、何も言えなかった。プールに誘われたのは週が明けた月曜日の早朝で、連絡してきたのは奈々風だった。

『楊田の家の予定に合わせて、明後日の水曜日にみんなで【プール】に行く事になっていたのですが、上枝が【体調】を崩したのと、絹香が下の子の面倒を見るので流れそうになってしまいました。でも瑶鼓ちゃんがどうしてもプールに行きたいので、他に行ける子を誘って欲しいと頼まれたのですが、まのちゃんの都合が良ければ誰か友達を誘って来てくれませんか』

 ワード、ワードと考える内、とりあえず【体調】を選択していた。

 奈々風は生成したそのままメッセージを貼り付けて送って来るから長くなる。

『上枝、生理なの?』

『それだったら行けるのですが、上枝は今すごい熱と【下痢】で動けないそうです。関西の方から親戚が来ているそうなので【カキ】が当たったのかもしれません。まのちゃんが重いのは知ってるので、時期が合わなければ無理に誘う事はしませんが、補習ばっかりで大変だと聞きましたので、息抜きになれば幸いです。誘える友達が居なければ三人でも構いません』

『連絡してみる』と返信して、今度は栞奈にメッセージを送った。『栞奈』の一言だけ。

『どうした、名前だけ。【監禁】でもされて助けを呼ぶ事しか出来ないみたいに』

『行く、って返して欲しかっただけ。明後日プール行く?』

『誘ってんの? だったら部活休むけど』

『瑶鼓と奈々風が遊ぼうって。プール行くみたいなんだけど』

『たぶんそれ【ひっき】の事誘えないかって笠原さんから連絡来た。丁寧な文章で』

『了解』とだけ送ると、二秒後に追撃の返信が滑り込んで来た。

『行くけど、どこ?』栞奈も聞いてないらしい。

 奈々風に質問を投げてから、二秒後に追撃の後悔に襲われた。

『あんまり遠くへは行けないので、県営の【水上公園】を考えていますが、何か希望があるのなら言って貰っても構いません』ああ、長い長い、と思いながらスクロールすると、公式サイトへのリンク、そして地図のスクショが表示された。『当日は【熊谷】の駅前に、朝八時頃に集合で大丈夫そうでしょうか。南口ロータリーにある【デイリー】の前で待ってます』

 目の前に青いガイドが表示され、部屋のドアに向かって、壁の上に廊下を描き出している。

 まだ早いし、家の中でナビはいらないんだけど、家の中だけ表示を切る方法が分からない。

 同じ内容が届いたらしく『早い。徹夜だな』とわたしに送って来た栞奈は、誰よりも早くデイリーの前で待っていた。わたしが着いた時には、二つの日傘に栞奈と奈々風と座り込んでいる瑶鼓が固まっていて、ジメジメした茂みの枯れ木に生えたキノコみたいだった。

 奈々風が近づいて来ると、瑶鼓も立ち上がりかけ、そのまま栞奈の方に体を寄せた。

「まのちゃん、てろんぐだね、てろんぐ。暑そう。脚ムレそう」

「てろーんとしたロングスカートの事? 日に当たるよりマシだから」

 奈々風は大きな飴色のサングラスを掛けて、バケットハットを被っていた。

 キレイに爪が塗られた手でシャツの袖を掴まれ、カワイイ柄だねー、と言って来る。

「ごめん遅れちゃって。車の方が早いって言われて」と言うと、奈々風が日傘を上げ、わたしを先導するように歩き出した。デイリーの前に四人で並び、一つの日傘に二人ずつ入って立っていた。暑かった。まだ日が昇っていないのに、熱気は街に潜み続けていたようだ。

「え、何してんの」と栞奈が言った。「集まったんだから電車乗ろうよ」

「そうだね」と奈々風が言い、瑶鼓が「ほんとそれ」と言い、わたしは黙ってうなずいた。

 ようやく、更に十五分くらい経ってから、とりあえず写真を撮る事になった。デイリーの前で四人で顔を寄せて、奈々風のスマホに思い思いの暑くて堪らない顔を向け、絶対に画角に入ってない所でピースなどをした。気怠い空気に肩を押し付け、割り込むように「じゃあ、行こうか」と喘ぐような声を上げたのも奈々風だった。小さくて活動的な奈々風は頼りになる。

 奈々風に続いてわたし、その後から栞奈と瑶鼓が駅に向かってとぼとぼ歩き出した。

 瑶鼓はツルっとした【ポリウレタン】のフーディーを羽織り、内側はレトロな花柄のタンクトップが体を締め付け、下はデニムのショーパンという恰好で、ほどよく日に焼けた脚を晒して、素足にサンダルを履いていた。髪はポニーテールに纏め、銀色の前髪はイルカのヘアピンで押さえ付けて、両手にハンディファン、首にUVカットの水泳ゴーグルを掛けている。

 薄い胸も括れた胴も、スレンダーでかっこよく、それでいて隙がある、っていうか。

 驚き、最初それを声にするのが躊躇われ、遂に怯えながら尋ねた。「……それ水着?」

「汗かいた服に着替え直すの気持ち悪い、ってね」

「ランドリーコーナーに乾燥機とか置いてあるって書いてあったんだよなあ」

「勝手に下調べして!」栞奈の言葉に瑶鼓が動揺した。「汗、かいた服、気持ち悪いから」

 改札を通って、切符を買った栞奈と一緒にホームに下りて、電車が来るのを待つ間も、瑶鼓は少し機嫌を損ねた様子で、栞奈の後ろに隠れて小さくなっていた。肩に掛けたビニールのトートバッグは、財布とスマホと飲み物と、そこに下着を含む着替えまで入っているようには見えなかった。残り八分、電車は現在、籠原を目指して運行中と表示されている。ちょうどいいと言えばちょうどいいけど、前の電車でも次の電車でも、どっちでも良かっただけだ。

 電車は空いていた。立っている人と、座っている人の数が空席と同じくらいだ。

 栞奈とわたしが座って、瑶鼓が手すり、奈々風は吊り革に手を伸ばして背伸びをした。

「顔なんかしてる?」と聞くと、奈々風が頬に手を当て、ふわふわ頷いた。車内は冷房が効き過ぎて、窓から斜めに差す朝日の方が心地よかった。それが日陰になったり、駅に入って、また走り出すと、日差しは強くなっていった。奈々風が言った。「すっぴんで外出ません」

 そうでもなさそうな二人が意外そうに、奈々風とわたしを交互に見比べていた。

「そうなんだ。濡れたら落ちちゃうと思って、日焼け止めだけして来たけど」

「水に浸からなければいいんだよ」と奈々風が言った。「一応持ってるけど、貸す?」

「一応。あ、あとでもいいけど」カバンを覗きかけた奈々風は、そっか、とだけ呟き、カバンを肩に掛け直して、そのまま四人とも黙ってしまった。駅が近づき、また走り出すのが何回か続く間に、徐々に乗客が増え始め、席が埋まる前に奈々風がわたしの隣に座った。その次の駅が目的地だった。早足で階段を下り、ナビを頼りにバス停に駆け込むと、ちょうど一分後に次のバスが来る所だった。駅と、水上公園の往復で、これを逃すとバス停を六つくらい挟む事になって、更に徒歩になると、道が広いから一時間は掛かるってマップアプリに表示された。

 受付で電子キーを受け取り、栞奈が入場券を買うのを待って更衣室に向かった。

 ランドリーコーナーはあった。「せっかくだし服乾かそうかな」と瑶鼓が小声で言った。

「じゃあどうする? 仕切りで着替えて一斉に見せ合う?」

「え、別にどこでも。ラップタオルあるし、見られたくないなら隠せるよ」

 それは【スナップボタン】で筒形にし、その上辺にゴムを通してあるタオルの事だ。

 散髪に使う【刈布】みたいに体を覆い、そのまま体を拭いて、中で着替える事も出来る。ちゃんと拭けないからブラが湿るのと、実は周りが見えないだけでパンツ自体は出てるのはご愛敬だ。栞奈がバッグから引っ張り出したタオルは、車のキャラクターの柄になっていた。

 奈々風が目を細めた。「え、まさか学校用の水着まで持って来てないよね?」

「まさかっていうかね」栞奈はタオルを腕に掛け、またバッグに手を入れると、両手に紺色の肩紐を掴んでいた。ウェストが括れ、また広がって、裾がスカート状に切れた長いタンクトップのような水着が出て来た。足の付け根の所にはタグが付いていて、知らないメーカーのロゴが入っていた。「いや、普通のも持って来たけどね、面白いかなって思って」

「しかも昔の小学生の。どこで売ってるのそれ」

「こういうのプールで着ちゃダメなんじゃなかった?」と聞くと、栞奈が首を振った。

「名札がダメなんだって。防犯上の理由で」

「紺のワンピースとかフィットネス系とか紛らわしいしね」瑶鼓は着替え始めていた。

「それ下はどうなってるの。丸出し?」

「ここの水抜きがね、だからこう」裏返すと、胸当ての白いメッシュに、小さな名札が縫い付けてあって、お腹の所の【カンガルー】は、別にいいか、とにかく袋みたいになっていた。お尻の方から通した布が、前身頃の縫製線に合わせて、内側に縫い付けられているようだ。

「ふんどしみたいに?」

「ふんどしみたいに言わないで。笠原さん、普通の方の水着も気になるでしょ、ね?」

「どうせ着るんでしょ、あとで。これサイズ、Lか。着るなら栞奈ちゃんか瑶鼓ちゃんだ」

「もう着替え終わったけど。奈々風、先行ってていい?」

「はぐれたら放送で呼ぶからね。よーこちゃんが行方不明でーすって」

「迷子ね、迷子じゃないけど」

「奈々風、メイク道具持ってる?」

「ああ、そうだった。着替えもしないと。えーっと、今出すから」

 隣のロッカーを開けて、奈々風が中で荷物を広げ始め、チューブやケースが出て来た。

「でね、まず日焼け止めとリキッドファンデと下地を1対1対1で取って混ぜます」

「ホットプレートはもう温めといた方がいいかな?」と栞奈がこっちを見ずに聞いた。

「焼かない! これを塗ります。その上からパウダーを軽く叩きます、はい終わり」

「あとは?」

「色々。無理に維持するより簡単に直した方が早い!」

 前髪を上げられ、額、頬、鼻、顎に付けて、指で乱暴に広げられる。「鼻だけ高いの、どうしたものやら」軽くやるつもりが、唇なんかとぅるっとぅるにされていた。「ウォータープルーフって余っちゃうからね」なんて知った風な事を言いながら、いつの間にか奈々風は服を脱ぎ始めていた。っていうか、服が当たっちゃうから先に着替えてからで良かったのでは。

 瑶鼓はレトロな花柄のホルターネックのタンキニとラッシュガード。

 奈々風はフリルの付いたオフショルスカートビキニ。

 栞奈はフルーツカラーのハイウェストのバンドゥビキニ。の上にスク水は着ない。

 わたしは三点セットのタンクトップビキニ。二千九百八十円相当のデザイン。値段に勝ったからデザインに負けても引き分けなので、わたしは何も恐れない。奈々風がビニールボールを膨らませ、顔を真っ赤にし、次第に蒼褪めて、それを瑶鼓か栞奈に託そうとしたら同じ所に口を付けるのを嫌がられ、わたしの前に回って来た。別に、舐め回したとかじゃないのに。

 それとあとは、全員の手首に電子キーと、奈々風は手にカメラを持っていた。

「これ防水カメラだから。データもちゃんと送れるから、心配しないで」

「今盗撮対策厳しいから、持って行っても撮れないんじゃないの?」とわたしは言った。

「撮影コーナーで撮って貰って、出る時に買えるって書いてあるね」と栞奈が言った。

「そういう所のって高いし、他の人にデータ抜かれたら一緒だし、高いし!」

 着替えてからもダラダラ、飲み物はどこで買えるとか、トイレに行くとか、ついて行くとかって言ってる間に三十分が過ぎて、やっと外に出る事を決意した。タオルを肩に掛けて、四人でぞろぞろと外に出る。と、いきなり奈々風が「水泳だあー!」とそのまんまな事を大きな声で言った。「こんなに人が居たらさあ、一人くらい帰る時に風邪引いてるのかなあ!」

「やめなって、言ったら本当に調子悪くなる人も居るんだから」

「全員熱中症になればいいんだよ」

「飛び込み台あるんだ。あれ十メートルかな、ひっき、行ってみよう」

 午後の二時前には気温が四十度近くなり、屋外プール施設の全営業が一時休止した。

 売店のナポリタンがとても美味しく、二人で分け合って、もう一杯を分け合う時に、ウィンナー一本、玉ねぎ一切れすら、自分の方が多く取ろうと躍起になって、口の周りを赤くした所を写真に撮られたところが、一番記憶に残っていた。翌日の補習も、翌週の補習も、八月の補習の時も、プールの思い出しかなくて、悲しくなった。『今週って、ひっき暇?』と。

 久しぶりに連絡が来た時、わたしは成田近くのホテルのベッドの上に居た。

『今東京。お母さんがお姉さん迎えに行ってる。タクラマカン砂漠って所に行くんだって』

『え、ひっき海外行くんだ、すごいな』

『ホテルで待ってるだけ。あと三日、外に出ても何があるか分からないし、する事ないよ』

『夏休みの課題って終わったんだよね』

『持って来るのは忘れちゃったけど、帰ったらすぐに終わる予定だから実質終わってるよ』

 返信が来るまで、十分くらい無意味なスタンプが連打された。

『分かった、分からない所あったら教えるからね』

『課題をやらないといけないのに出来なくて暇な時ってどうしたらいいのかな』

 返信内容は何もなく、ゲーム配信をやっている【仏間ゲーミングチャンネル】へのリンクだけが送られてきて、わたしは無言でメッセージを削除した。三日後、母は伯母とそのパートナーであるネパール人男性を連れて帰国し、疋田の家に帰るとAIばぁばの様子がおかしくなっていた。『こんばんは、おばあちゃんです。二人は元気?』以外に喋らないと思ったら、ネパール人男性に対して『今更のこのこ帰って来たんか』と長男と勘違いしたようだった。

 本物が帰って来た時にAIばぁばが怒ったとしても、なんか虚しいだけだって思った。

 伯母さんからは服とお菓子を貰い、肩を執拗に撫でられた。「大きくなったねえ」

「去年からほとんど変わってないよ」

「会ってないと小さい頃の事ばっかり思い出しちゃうから、やっぱり大きくなった」

「小さかったんですね」とネパール人男性が翻訳機で言い、伯母さんが頷いた。

 このネパール人男性はカレーを作るのが上手く、翌日にはウェルネスで香辛料を揃え、辛いのと甘いのと、二種類のカレーを作って、誰か食べさせる人を呼んでくれと言い出して、どうにか連絡をしまくって奈々風に美味しいと言わせる事が出来た。上枝はカレーが苦手らしい。しかもにんじんやじゃがいもの素材の味が強いからで、それは家のカレーの特徴だろう。

 伯母さんとおばあちゃんの従妹家族が帰った後、八月も残り十日を切っていた。

 既に予定は終わらないに切り替わって、補習のたびに、やらないといけないの、やらなくてもいいのを分ける質問を多くするようになっていた。樺山くんは用意していたかのように、これとこれとこれとこれと以下略と、やるべき課題を拾い上げ、まるであと一か月は夏休みがあるかのように錯覚させられた。夏休みが終わる。その前に瑶鼓からメッセージが届いた。

『火曜、十時、ここに居る』それと渓谷の辺りにピンが刺さったマップ画像。

 上りで一駅、私鉄に乗り換えて、十駅以上移動するのに、一時間近く掛かった。

 駅から出ると大きな駐車場にどれも大きいファミリータイプの車が停まっている。

 どこを目的地にして来たのかも分からない車だ。駐車場のアプリが勝手に起動し、駐車時間と合計料金が表示される。こういうのって、泥棒に利用されて廃れたはずだ。駐車場の片隅に生えた木も、昔話の絵になりそうな古臭い木で、知らない青い実が生っていた。木陰のベンチに腰を下ろすと少し視界が開けた気がした。石畳の道路に降りれば、目抜き通り沿いに、飲食店はそば屋ばっかり数件、土産物屋は聞いた事のないお菓子を売っていた。あとは、シャッターが下りているか、ただの民家が、何もないとは言えないくらいに土地を埋めていた。

『今駅から出たけどどこに居る?』

 メッセージを送りながら自販機を目で探すと、土産物屋のガラスの奥で人影が動き、それに合わせてメッセージが届いた。『カフェ見えた?』併設されているらしい、カフェのメニューのポップが表示され、ガラスが見えなくなる。鮎の、何か。栗の、何か。森の、何か。ベンチから出発するガイドは店の前まで一直線で、そのまま裏手に入っていくのは駐車場だろう。

『分かった。もう少ししたら行く』

 風がなく、背中にうっすら滲んだ汗は、更に一枚、上から体を覆う湿気の膜になる。

 ハンカチを額に当て、目も塞いで耳だけに集中すると、蝉の声も、何も聴こえないのに、夏がただ騒がしかった。何かが多すぎる。干渉してくる物が。反応してしまう物が。【エントロピー】の偏りが。次のメッセージが来る。『エアコン強すぎた、そっち行こうかな』

 ダメだ、早く行かないと。レッグプレスよりも簡単にわたしは立ち上がっていた。

 店の前の立て看板にコーヒーやデザートのメニューが【白墨】で書かれていた。

 チョークか。とりあえずかわいいから写真を一枚。お値段980円。かわいい。

 店内は本当に肌寒く、開けたままのドアから熱気を誘惑するくらいが心地よかった。

 手を掛けたまま、店員と目が合い、何か言い訳する前に「こっちよ」と声が掛かった。

 店内に二人掛けのテーブルが三席と、レジカウンターがあって、その奥に小さな厨房が付いていた。売り場には低いワゴンと、壁の棚も低く、上の方には【タペストリー】が掛かってたり、昔の駅前の写真とか、熊手とか、風車とか、なんか古い物がいっぱい飾られていた。

 瑶鼓は奥の席に座っていた。向かいの椅子を引いて腰を下ろすと、すぐに店員が来る。

 お冷、おしぼり。「あ、同じやつを」と反射的に答え「違います」と瑶鼓に否定される。

「え、なんで」

「決まったら呼びます」と言いながら、瑶鼓がこっちにメニューを押して来る。

 店員が去ってから、わたしは手を拭き、軽く顔を押さえた。「おじさんだ」と向かいから聞こえたけど、気にしない。顔を上げると、瑶鼓がポケットから何かを取り出した。「汗拭きシートあるけど」シールの取り出し口は未開封で、まだ袋に厚みがある。

 バッグは持っていない。テーブルに【ストローハット】が置いてあった。

 スマホと。ネッククーラーとハンディファンと、もう一つは【ハンディクーラー】だ。

 後ろからすごい熱が出て低温火傷する可能性があり、使用を控えるように言われている。

 Tシャツの広い襟からタンクトップの肩紐が見えていて、半袖の下に黒いアームカバーを付けていた。指の半ばまでと、親指を通す穴まである。ネックストラップに何か、筒状の物が垂れてると思ったら真鍮のホイッスルだった。ボトムスは、見えない。テーブルの下を覗き込んでまで見ようとは思わなくて、首を傾げてみせる瑶鼓から目を逸らしてしまった。

 フィルター越しに、マットなローズの唇が、引き結んで、水平線のように伸びていた。

「今日、何で呼んだの」

「釣りしようかと思って。メニュー早く決めて。あとライン下り、VRもあるよ」

「釣り、川で。エサ触れないかも、わたし」

「イクラもあるからさ。魚卵アレルギーじゃないなら大丈夫。魚は触れる?」

「料理手伝うから、たまに触れる」

「たまに?」変な所に引っ掛かられ、深い色の瞳に見つめられる。「少しはって事?」

 カラコンではない、素の大きな瞳は少しだけ褐色に近い、不思議な色をしていた。

 鼻の奥が疼き、くしゃみが出そうになる。知らない内に体が冷えて、眠たくなってきた。

 注文した物が来ると、瑶鼓に写真を撮られ、また撮らされ、無言で食べている間に瑶鼓がスマホを見せて来た。どれも川の近くで、女子と二人か三人で、写真を撮っている。よく見ると二回か三回は同じ服を着ていた。「クラスのほぼ全員と来てる。今日はまはるんの番」

「栞奈も来たんだ」

「先週ね。二人誘えないかと思って連絡したら、なんかホテル暮らしだって言うから」

「わたし? いや、それは旅行に行く途中で待つ事になっただけっていうか」

「ふうん。でね、奈々風なんか三回、別の子と一緒で来たり、一人で来たりして……」

 食べ終わると、まったりしそうになったけど、背後から圧を感じたので支払いをして店を出た。肌に圧し掛かるような暑気に襲われ、またすぐに引き返したくなる。瑶鼓はハットを頭に乗せて、さっさと駅の方に歩き出していた。「少し歩く。それともレンチャリ使う?」

「どっちでも。ねえ、何そのズボン」

 ハーフパンツは、茶色や黒の染みが連なったような、不思議な模様をしている。

 それが上に行くほどグラデーションで暗くなって、茂みの、水墨画みたいだった。

 迷彩柄らしいけど、自衛隊なんか、もっと緑や黒が均等なまだらだった印象がある。

 その上から黒い前掛け、右足側にだけ巻いているのを一瞬ラップスカートかと思った。

「迷彩って、着たら犯罪になるんじゃなかったっけ」

「なにそれ」と瑶鼓が怪訝な顔で笑い、一応スマホで検索を始めた。

 南アジアの国では、軍隊の制服だから、という理由で禁止されているらしい。

 種類にもよるだろうけど、自然色まだら模様は全部ダメなのか、詳細は分からない。

「いいけど、まはるんも、それ体動かす恰好じゃないね。伝えとけば良かった」

「ちょっとなら走れるよ。下短パン穿いてるし、濡れるのは嫌だけど」

「汗も水も一緒じゃん、涼しくて気持ちいいよ、川。お腹ギューって冷たくなる」

 それは溺れかけて怖い思いをしたのではないかと、言う気もないし言えなかった。

 その日を最後に、残りの一週間は補習もほとんど無くて、退屈な日々が続いた。うっかり瑶鼓に連絡して、今日は釣りをしていないのか、と尋ねたところ、祖父母の家に帰省中だと返って来た。ほぼ全員と行けたから、もう終わりのつもりだったらしい。お誘いなら三十日か三十一日なら行けるよ、とまで言われたけど、そんな慌ただしく出掛ける気も起きなかった。

 月曜日、登校日を除けば一か月半振りの学校で、玉木はイメチェンをしていた。

 ボブカットは毛先に毛量を足し、特に前下がりの重たい印象になって、一房の髪だけが相変わらず背中に垂れていた。垂れ目のアイラインに、大きな涙袋、頬にかけて泣き腫らしたような赤と、唇は更に暗い色で、全体に肌は青白く、シェーディングのせいで、痩せた弱々しい印象が増していた。イヤリングは銀の十字架で、振り向いた瞬間にちらっとだけ光っていた。

 胸元のリボンは弛んで、その下にあるブラウスのボタンが、一つだけ外れていた。

 恥ずかしそうに俯き、顔に触りそうになっては手を止めて、周囲の目を探っている。

 痛々しくて、面倒くさそうな感じは、だけど何よりその表情と姿勢から滲み出ていた。

 その顔が、似合ってるねって言われるんじゃないかと、うっすら期待してそうに見える。

 信原が声を掛けるのを躊躇い、その様子に楊田達が笑いを堪えていた。

 ホームルームが始まると、樺山くんは、女子の夏休みデビューに何も言わなかった。

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