アグリーダックプロディジー
@godaihou
Ⅰ.
最後の【クリーパーチップ】被験者の【私生活】がネット上に流出した。らしい。
栞奈にもそれが何のチップかは分かってなくて。スナック感覚でチップチップ言ってて、実際それは【チップ】とは言っても【硬膜上に張り巡らされた微小センサーが神経マッピングを行う】為の【BMI】の一部の事だった。らしい。ブレインマシンインターフェイスの。
栞奈はネットで流出画像を見つけた後、その人が性虐待を受けてたとか、未成年飲酒を起こしたとか、最後には飛び降り沙汰になったというニュースを追い続けて、結局なんだったのって感想を送って来た。リアルタイムで見てた人達はなぜか盛り上がってた。らしい。
その最後の瞬間、地面いっぱいの視界がバラバラに引き裂かれ、闇に溶け、何も無くなった後で、魂が天に上り、地上の世界を見下ろしている視点を確かに見たという人が居た。誰もそれを信じなかったのは、スクショ画像が一枚も残っていなかったからだ。二次ソースすら無い物は、実在しないと同じ。ネットの識者達は、二十一グラムすら痩せられない不摂生と不経済を抱えた人達の事を、魂すら持たない家畜だと罵っている。二十一グラムは、魂の重さ。
魂の容量、何バイトだと思う?
死の直前、走馬灯と言われる脳の活動で消費されるカロリー、それが二十一グラム。
脳という機能において人生全てを再走査する為に必要なエネルギーが二十一グラム。
それだとまるで、本当に死ねるのは脳が無事なまま、ゆっくりと活動を終えた死体の持ち主たる死者だけのようだけど、きっとそうだろう。パソコンから、壊れる前にデータを移行しておかなければ、たとえばディスク自体がバラバラに破損したような状態から、データを抜き取るなんて簡単な事じゃない。最後の終活を、誰でも完璧に出来るわけじゃない。
そう考えれば、認知症が進んでたとしても、祖母にゆっくりとデータを移行する時間があって良かった。AIばぁばとして稼働し始めた自分自身と、一日十七時間くらいお喋りを続けていたのは、取り零されたかもしれない、脳以外の場所にある自らのありとあらゆるデータというデータを引き継ぐ為だったんだろう。それこそ癖一つ、傷一つも漏らさないように。
鈴を打ち、線香を焚き、手を合わせ、センサーに手を振ると祖母が目覚める。
煙をスクリーンにして投影された晩年の祖母の顔は、筋肉が部分部分で動く不自然な挙動をしながら、まずは顔を強張らせ、単調な声で『ワシが悪いんか!』と怒鳴りつけて来る。何度も何度も、同じ言葉を繰り返すだけだ。マイクに話しかけても、おはようにも、いってきますにも、ここ最近はまともに答えて貰えていなかった。「おかーさーん、ばぁばが」とキッチンに呼び掛けるのだって、もう何度目かも分からなかった。「また調子悪いっぽい」
「知ってる」と母がリビングに怒鳴る。「修理頼んだら土曜日に来るって」
「それまでに直らないかな」
「無理じゃない。っていうか、おばあちゃんも最後の方そんな感じだったじゃん」
「その前までのばぁばがいい」
「土曜には直るから。準備済んだの。もう半過ぎてるよ。遅刻してもいいの?」
いいのか、って聞かれたら良くないけど、良い悪いを答えるような話はしていない。
洗顔、歯磨き、着替え、前髪を上げたままテーブルに着き、朝ごはんは白米、味噌汁、焼き魚はカワハギ、昨日の残りのカボチャが、天ぷらだったはずだけど、衣が外されて煮物だったみたいな顔をしている。コップに豆乳が温めてあって、まだ持てないくらい熱かった。
向かいに座った母が言う。「おばあちゃん、何が不満だったんだろうね」
疋田真琴、享年七十一歳。
勘当も同然の状態で東京に出て来た後、彼氏と別れ、千葉、埼玉、群馬と関東周辺を転々とした挙句、仕事、住所、結婚、出産が矢継ぎ早に決まって、以降次男の嫁として慎ましく暮らし、二人の子を産み、二人とも巣立って、一人は帰って来たけど、妻子を残してまたどこかへ行ってしまった。長女と義妹の仲はそれなりで、介護にも、長女から援助して貰った手前、義妹は何も言えないくらいだった。長女は編集の仕事で、たまに海外にも行っている。
その義妹、つまりわたしの母は、義姉に誘われて年に一度は海外旅行に行くけど、いつも姉から離れて一週間も見知らぬ土地を彷徨し、後で「今度は戻って来れないと思ったよ」と述懐するような人だ。連絡を受けると、わたしはいつも心配になって長電話をしてしまう。
今目の前の母は四十手前、小柄で手足が細く、最近は仕事終わりにジムに通っている。
年齢の差も感じさせず、自分は、母と似ていると感じる。
長女にありがちな父親の面影の無い事に、わたしは何を感じているのか。
父の写真は、若い頃のだけ、それも古いスマホの中に入っていて、動画も十数秒の短い物ばかりだから、疋田陽人という人物像もはっきりとは掴めない。出身校、職業、血液型も、調べれば家の中で分かるだろうけど、それらを含めて掘り返す事は怖くもあって、しない。
ソファとセットのローテーブルに鏡を置き、絨毯の上に座り込んで覗いていると、母に「スカート」とだけ注意をされる。広がったままにしたら、ヒダが広がってシワが出来るから。青と黒と白の【タータンチェック】は学校指定で、色が違ったら勿論、丈が短くても校則違反だから、見つかったら反省文を書かされる。いつもの、今後このような事は以下略。
でも本当は、タイツやジャージでも膝が隠れてれば、ほとんどの教員が気にしない。
時計を見たら、もう五十分になろうとしていた。
コンタクトは諦め、メガネを掛けて、髪はそのまま下ろした。
切り過ぎた前髪も、少し伸びて来て、良い感じに揃っていた。
ブレザーが、部屋を見回すとテレビ台に掛かっていて、取る時にリモコンが落ちた。リュックサックは椅子の下、何で。ついでに食器を下げてから、リュックサックを持って目に付いた物を片っ端から突っ込んだ。ハンカチ。スマホ。スタンドミラー。防犯ブザー。ハンドクリームは、持ってみると容器の重さしかなかった。まあでも、絞ったら出て来そうだ。
カプセルを飲んで、家を出る。鍵を掛け、エレベーターで一階へ。
先に下りていた母が薄紫色のアルトを目の前に出しているので、助手席に乗り込んだ。
「今日メガネなの?」と母が聞き、ウィンカーをどっちかに出し、返事はしなかった。
窓の外のカーブミラーを覗くと、ロボットみたいな大きなメガネが見えた。
通知音が聴こえ、わたしはメガネを下ろして、窓の外の街並みに目をやった。
民家しかない。
上野台は、旧街道沿いのウェルネス駐車場が通学バスの待機所になっている。
開店前の駐車場には、同じ制服の三、四人目がちょうど来て、秋の空っ風を浴びて涼し気に目を細めながら、髪が乱れるのを気にしていた。「いってらっしゃい」と母が言う。「気を付けてね」と、何にかを考えもしない決まりきった文句に曖昧に頷いた。反応しなくはないというだけで、何も言う事はない。ドアを閉めた瞬間、目の前で車が走り出した。
メガネを掛け、スイッチを入れる。
週毎に傾いて来る日差しが抑えられ、明るさに補正が入った。
奈々風は髪をツインテールに結び、まだ昼間は暖かいのに、もうマフラーを二重巻きに巻いていた。薄くて、ピンク色。下線みたいなラインの端に、ウサギみたいな模様が入って、周りに枯れ葉が散っている。昨日はもっと厚みがあって、短いやつだった。
列から離れて、バスが来る方角の、ずっと遠くまで眺めている。
奈々風が手を上げる。「おっすー、遅刻ギリ」拳を突き合わせ、ハイタッチをする。
「え、もうそんな?」
奈々風の青白い顔が間近に迫って来る。「もうあと十分十五ふっ……あれ、メガネだ」
「時間無かったから」
奈々風の顔は頬から顎に掛けて細く締まり、唇は【R:255】くらいの鮮やかさだ。
ややハの字に整った眉毛、睫毛は長く、垂れ気味のアイラインが目尻を大きく見せる。
キラキラの星を散りばめて、頬はうっすら紅潮し、自然に微笑んでいるように見えた。
って、急に見たから直接投影されている目の奥がチリチリと痛んだ。
西の空を見上げ、メガネを上げて何度か瞼を固く閉めたり閉じたりした。
その後ろから、奈々風が声を掛けて来る。「まのちゃんそんな朝弱いんだっけ」
「弱いかって言ったら全部に弱い」
「兄貴が言ってたけど、朝弱いの、逆に朝型だからなんじゃないの?」
メガネを掛け直し、振り返る。「というと?」口角を上げ、赤い三日月が出来る。
「夜更かししないで早く寝れば朝早く起きて活動できるのに、その日がもったいないからって時間を前借りして、ずっと、何?」こめかみをトントン、虚空を見上げていた奈々風が何かを読み上げる。「自転車操業してるから毎日朝からずっと夜まで苦しいんだって」
「早くって、じゃあ何時に寝ればいいわけ? 五時、六時?」
「そんな早くなくても、九時くらいに寝れば五時くらいには起きれるって」
「はっや。ドラマも見れない」
トントン。「えーっと、時代劇やってるよ、朝。そのくらい」
認知症が進み、祖母は幼児退行をしていった。趣味や嗜好に止まらず、思考や言動も昔のようになって、まるで半世紀も前の時代を過ごしているような有り様だった。音楽で言えば、童謡ではなく、当時の流行りのメタルやパンクを口ずさみ、最近ではすっかり丸くなった古い時代の俳優や歌手の話をした。それでも時代劇を好んで見るようなタイミングは無く、健康だろうと、病気だろうと、祖母にそれを懐かしむような素振りは全く無かった。
もう少し新しい、世紀末くらいの映像なら懐かしんだかもしれない。
そのくらいのレトロ感ならわたしだって知らないけど懐かしく感じられる。
「見ない」と切り捨て、奈々風を押しながら、わたし達もバス待ちの列に加わった。
左側面に【丸ゴシック体】で高校名が書かれた【マイクロバス】は、奥から順番に席が埋まって、運転席の後ろに奈々風、その後ろにわたしが座った。「時代劇ってさ」奈々風は前を向いたまま、そう言ってコーヒーの容器を取り出した。「ゾンビとかサメ出て来るのかな」
「何の話?」
検索によると【赤穂ゾンビ四十七士、死の討ち入り】がレンタル可能だった。
「出せば何でもヒットするんだよ。でも観るとね、おもしろくない」
そう言って奈々風が首を振る。コーヒーの、ミルクの方が多く入ってそうな匂いがする。
「まあ、ホラーだって時代劇に合ってるの、ほら妖怪が居るし、ゾンビとかよりはね」
「でも妖怪映画って観る?」
「妖怪……妖怪ウォッチ、って妖怪?」
「それは別物」奈々風が背もたれに身を乗り出して来る。「鮫の妖怪だって居るし、動く死体だって日本の怪談にも出て来るし、ゾンビ、とか。シャーク、ってタイトルにしたら海外っぽいけど、どうせ後から付いたイメージに引っ張られてるんだよ。死霊の盆踊りとかも」
検索エンジンでは【C級映画マニア】のサイトが大量に引っ掛かる、そういうのだ。
「何それ。ねえ、逆に海外で傘とかのお化けって何か居たっけ? 妖怪っぽくないやつ」
「それは……妖怪としても別にじゃん。目立ってないじゃん」
そんな事はない、けど詳しくもないので、もう何も言う気もしなかった。
バスは更に三か所に停まり、四人を乗せ、三十分で学校に到着した。
鉢形城北高等学校は、渓谷を見下ろす岸壁の近くに建っていて、古い鉄橋と、対岸の特に下り方面に車の行き交う国道が、木々や葉々の隙間から見えた。その下には急流に削られた荒々しい岩場が残っていて、夏休みの部活終わり、猛暑に苦しんだ男子生徒が、その辺りで泳ぎ回るのも、事故が起こる前年まではよく見られた光景だった。
三人同時に流されたら、他に十五人くらい居たとしても、次は自分かと思うだろう。
と同時に、着衣水泳、応急救護の授業も、河川敷での打ち上げのバーベキューも行われなくなった。川縁に下りていく道は封鎖され、蜂色の警戒ロープは雨風に汚れ、弛んだ真ん中の部分が、いつまでも無くならない水溜まりに浸かったままになっていた。たまに置かれる缶ジュースや花が、いつもそれを思い出させて、嫌な気分になる。
駐車場に入る。二台、バスが先に入っていて、一台が外に出るところだった。
降りて、門へ向かう間に学生証を探してると、奈々風が後ろから列を詰めて来る。
昇降口に上がる階段の脇には、板切れと蓋のない水性ペンの青が落ちていた。
文化祭が終わって一週間も経つから、もう残ってるゴミなんて無いと思ってたけど。
「後で捨てるから隠しておいたのかな」と奈々風が言って、階段下にピンを刺した。
自分で拾って捨てたらいいのにって思ったけど、わたしも拾ったりはしない。
「でも楽しかったよね?」と聞かれ、わたしは頷いた。
二年の教室は三階。エレベーターは四階と五階にあって、わたしは階段を使った。
途中で【ダステム】と擦れ違い、三階で、ちょうど奈々風と鉢合わせた。
そのまま教室に入ると、奈々風は窓際最前列に固まってるグループに駆け寄った。
片野瑶鼓は前髪の右半分が銀髪だった。
あとは元の色だけど、青みがかって見える髪を、いつも下ろしていて、真っ直ぐで、きれいに梳かれていた。身長は百六十八センチ。女子の中では一番か二番に大きくて、手足はすらりと細長く、対して手足が大きかった。モデルタイプというよりはアスリートタイプだけど、一年の時に仮入部を繰り返した末、確か美術部か漫画部か写真部に入ったって前に聞いた。
聞いただけで、わたしは瑶鼓の作品を一枚も見た事がないけど。
女子の中で一番か二番に小さい奈々風と瑶鼓が並ぶと、姉妹のようにも見える。
それも一人が海外、一人が義実家に居て、ギクシャクしている姉妹ではない。
ロッカーに荷物を押し込み、席に着くと、後ろから肩を叩かれた。
「今日メガネなんだ」と言って、栞奈が自分の顔の横、架空の蔓を抓んでみせた。
アイシャドウはブルー、大きな涙袋と泣き腫らしたような赤い頬、ブラウンのリップ。
それに栞奈は、頭に三角の耳、頬に三本のヒゲを生やし、ネコみたいな顔をしている。
加えてウルフカットの丸顔で、きっとメガネは似合わないだろうなって思った。
「栞奈はコンタクトだよね。予備持ってる?」
「いや、裸眼裸眼。ひっき、手術してないから点眼剤使っても意味ないよね」
左手首内側のスマートウォッチに触れ、顔の前で、手でも振るように指を曲げたり滑らせたりする姿から目を逸らし、奈々風に目をやる。クラスで一番派手な奈々風のグループは、大きくもない声が教室内で一番目立っている。その周りの男子や、教室の隅のメガネ族まで、顔が見えないクラスの半数近くを眺め、視線が開きっぱなしのドアに向かった。
ポニーテールが揺れる。ブレザーの背中が遠ざかり、たぶん隣の教室に向かった。
その一瞬見えた横顔が、何が気に入らないのか、妙に脳の片隅に引っ掛かっていた。
誰だろう、って誰の事を指して聞けばいいのか、分からない。
「まはるん。今日メガネ?」と瑶鼓が不意に前の方から声を掛けて来る。「珍しいね」
「え、今日朝時間無くて」
「でも似合ってんじゃん。今日それ、メガネ絶対外さない方がいいと思うよ」
「そうかな。どうも」
「あ、ねえ上枝さあ」と横の友達に向き直る瑶鼓は、最初からわたしの事なんて、普段はコンタクトかメガネか、裸眼かすら、何も気にしてないようだった。何か良くない物が言葉になりそうで、少し耐えてる所に、後ろから栞奈が「メガネは似合うよ、本当」と言った。
振り返り、首を傾げ、言う。「この前忘れた一学期の時はガリ勉メガネだったのに」
「人って変わるから。前期のテストの点数を加味した結果だよ」
「バカ勉メガネにでもなった?」
「バカに勉強まで付けたら救いようが無いからやめな」
「まず先にバカ取ってよ」
「じゃあ、勉ね。あーあ、ひっきと一緒に三年に上がりたかったな」
「そこまでじゃないよ。点数にメガネ足したら赤点は回避できると思うから」
スイッチに触れ、壁の掲示、時計と、その下のホワイトボードに目を向ける。「一時間目どっちだ?」と聞くと、栞奈も同じように壁を見回した。いや、知ってるけど、なぜか表示されない。メガネを上げて見ると、クラスメイト三十人近い顔が一気に視界に入って、なんだか酔いそうになった。「体育? 先週が保健で、今週はないよね。今日何やるんだろ」
「体育で合ってる。たぶん長距離。マラソン大会近いから」
しかし体育は自習だった。ホームルームでは担任の樺山くんが、体育の白田先生はご家族の通院に付き添う為、午前の体育は自習となります、と言った。自習という言葉で教室は浮かれた空気が流れ、それは直後の言葉に冷まされた。樺山くんは、なのでB1とB2は一時間目に女子が室内でワークアウト、男子は教室で保健の課題をやって貰って、二時間目は男女を入れ替えて同じ内容をやって貰います、と言った。女子は着替えて格技場前に集合するように。
樺山くんはサイドに残された長めの髪にいじらしく指を通し、短く強い咳をした。
「課題って一コマで終わるんですか」と前の方の男子が聞くと、樺山くんはそのプリントを見て、ああ、とか、うん、とか呟きながら二分くらい何も答えなかった。ホームルームが終わって、気の早い男子が着替え始めたので、女子達はジャージを持って更衣室に移動した。
教室棟から出て、食堂の先にある建物が更衣室で、女子更衣室は男子更衣室の二倍の広さがあって、セキュリティも二倍だ。大抵、先頭の子のIDでロックが外れると、あとはぞろぞろと列になって中に入るのだけど、最後の二人くらいでまたロックが掛かってしまって、何かそこに超えられない境目があるように、みんなが感じていた。入ってすぐ外向きに曲がって、奥は左右の壁と中央にロッカーが設置され、高い位置にある磨りガラスの窓と、古い蛍光灯で明かりを取って、全体に色褪せた花とせっけんの香りが充満し、足元は常に乾いている。
よく探せば、空になった制汗スプレーの爽やかな青い缶がいくつか転がっていた。
奈々風は自分が忘れた時、人から借りるのと半々で、まだ出るのを探してたりする。
防犯上の違いはないけど、奥のロッカーを使えるのはカースト上位グループだ。
本当にどこでもいいけど、手前になるほど人の出入りの邪魔になる。
たとえば玉木。
玉木柚子利香。
前の音と繋がる、キンちゃんっていうあだ名で呼ばれているメガネ族の子が居た。
ショートボブに一房だけ長い後ろ髪が垂れて、小柄で、百五十も無く、根暗で、声も小さくて、色白って言われる肌はほとんど青白くて、いつも怯えてるみたいで、そういう子だ。それに胸はちょっとある方で、合わない下着でよく揺らしてる。
調子に乗ってるとか、男子に媚びてるとまでは、露骨に揶揄されない。
ただ余計な物が付いてて邪魔みたいな顔をしてる事自体が、周りの気に障った。
手前で着替えを済ませ、さっさと出て行った玉木のロッカーに人が集まっていた。
「ちょっ、何してん」とわざわざ栞奈が聞いたのは、その匂いに対してだ。
柑橘系が傷んだような、鋭く鼻を突く化学臭に、少し気分が悪そうな子も居た。換気扇は天井付近で小さく、回しても音が聴こえない。バグが仕掛けられても困るから、だ。小さな穴を見つけると、気の早い子はいきなり黒いスプレーやパテやガムテープで埋めようとする。
「わざわざ鍵掛けてんの、あいつ。ウチらの事信用してないんかな」
楊田が小さなダイヤル式の【南京錠】を見せてきて、カラカラと金具の当たる音がした。
「勝手に開けようとしてるくせに」笑うでも、怒るでもなく、栞奈の声はただの事実だ。
「だから勝手に開けられないようにしてやってんの」と楊田が悪びれず言った。
「ふーん、あ。昨日爪割れちゃったんだ。それセメダだよね、余ったらちょーだい」
「余ったらね」
こんな監視カメラもない場所で、人の本性が出ると思ったら大間違いだ。
見ている主体が無いなら、人は自分がどんな人間かも分からなくなってしまうだけ。
その中で誰かが傷つき、恐れてたら、その対象になりたくないから別で用意するだけ。
先に着替え終わり、瑶鼓達にくっ付いて出て来たから、その後どうなったかは分からない。
格技場に向かう途中、通路には二クラス分の女子が渋滞している。その恰好は見事にバラバラだった。上ジャージ下ハーパンが半分。続いて上下ジャージが三割、残りは上シャツ下ジャージとシャツハーパンが一割ずつくらいで、その中には下【ブルマ】は一人も居ない。
バド部かテニス部が昔【アンスコ】として採用していたらしい。
部室の奥から、埃の臭いが染み付いた誰かの忘れ物が出て来たからって、それを体操着とすり替えられ、顔を真っ赤にしながらパンツみたいな恰好で運動する事になる玉木は、今日は居ない。だってその時、玉木のハーパンは最終的に盗まれたわけでも、隠されたわけでもなく教室に置きっぱなしだっただけで、借りたからってあれを穿く方もちょっとおかしい。
休めばいいのに、って他人事なら言えるけど、自分が穿いてたら、どう思っただろう。
格技場の二階に上がると、主に運動部が利用するトレーニングルームになっていた。
壁のフックにウェイトトレーニング用のバーが、その近くにプレートが置かれている。
うっすらと15Kとか25Kって刻印はされてるけど、素材も重量感もよく分からない。
黒いなら【ラバーかスチール】か【カーボン合金】辺りらしい。
中央には黒いベンチがいくつかと、トレーニングマシンは多くても二つずつ、あとは、窓に向かって横一列になった【トレッドミル】と、やっぱり二つだけ、端に【エアロバイク】が置かれている。パイプを組み合わせ、単調な可動部品を持つ器械は、台所用品みたいだ。
まるで屋外から搬入された人間を解体して部品毎に仕分ける工場みたいだった。
両クラス副担任の君田先生と亜子先生が見慣れない高そうなジャージを着ていた。
入念な準備体操の後、プリントが配られ、君田先生が注意事項について話し始める。
「まずは二人組になって、各自好きな種目を三種類を選び、ウェイトなら何セット、ランニングなら何分間といった感じで記録してください。やり方は書いてある通りで、バーベルを使用する場合は、事故があったらいけないので私か亜子先生の補助を付けてください。以上」
海藻の子を散らすように、だらだらと女子達が立ち上がり、数人ずつに固まった。
「ねえ、ひっき。髪やってくれる?」と言いながら、栞奈は手首のゴムを抜いて、それを指で回し始めた。「爪失敗したから、自分で結べないかも」
「え、見せて。大丈夫?」
「ここ、段になってる」目の高さに出した右手の、薬指の爪が白く盛り上がっている。
手をわたしの顔の前に残しながら、栞奈が近づいて来て背中を向け、尻ポケットからバタフライ式の櫛を渡して来た。ハンドルに刃を収納するフォールディングナイフの一種で、真ん中で分割されたハンドルが、二つ並んだ支点でそれぞれ左右に百八十度まで展開して、挟み込むように刃を収納する構造が蝶の羽ばたきのようだから【バタフライナイフ】だ。
栞奈はイケメンがいっぱい出て来る【ヤンキー漫画】に影響され、どこかで見たジャックナイフ型の櫛が欲しくなった。それもどうかと思うけど、結果として見つけたのはこんな使いづらい櫛だった。刀や包丁は、大体は刃の部分の方が大きいけど、それを収納する都合上、折り畳み式はハンドルの方が大きくなる。だから櫛としては太くて持ちにくかった。
それが半年もすれば、ロックを外して一振りで、はいチャキンと開けるようになる。
「きょうはどうしますかー」
聞いてんだか聞いてないんだか、旋毛に声を落としながら、適当にまとめて持ち上げる。
他の子は最初から縛って来るか、そもそも短いか、真面目にやる気がない子はそのまま。
栞奈は、ここに来て急にやる気が出て来たみたいだ。「色々あるんだな」って言ってる。
「ね、こんなにあったんだね。結局は走るか重い物持ち上げるだけっぽいけど」
「それ、陸上部のこと走るか跳ぶか投げてるだけって言ってるのと一緒」
「そう言われたらそうだよ。ゴムもう一本ある?」
「どうぞー。体のどこを鍛えるかで全然違う、ってプリントに書いてある」
「ああ」足元を確かめて、そうらしいと思った。毛足の短い絨毯は灰色だ。頻繁に掃除がされているようで、乾いた所がガサガサと靴裏に擦れた。「どれにしよう。ダンベルとかって、たぶん五キロも上がんないな」
「それ一回か二回の話でしょ。マジで運動するなら五百グラムからがいいよ」
「ジュースじゃん」
「それでも意外と重くない?」
「蓋開けるのはたまに固い時あるけど」
濡れタオルを被せて掴めばいい、と誰かに聞いたのを、ずっと実践してるから大丈夫。
「はい出来たよ」肩をポンと押し出し、鏡なんかは、と思うと壁に掛かってるので、行って帰って十メートルにもなる距離から出来を確かめ、栞奈は頭に触れ、不満そうに目を細め、口を尖らせた。「サイドポニー、短いけど邪魔になりそう。まあいいや。何からやる?」
「何って」と器具を見回してみる。「ほとんど埋まってるけど」
バーベルは、どうもバーだけで二十キロくらいあるらしくて、当然これは無理。
ほとんどの子はランニングマシンで、わざわざ乗って、歩いてる子も少なくない。
器具は【チェストプレス】【ショルダープレス】【アブダクター】と使用中で、ベンチではウェイト無しで腹筋背筋の運動をしてる子が多かった。次に人が多いのは、君田と亜子ちゃんが見ている【スミスマシン】で、あとは空いてるのが【レッグプレス】くらいだ。
「スクワットマシンと比べて扱いやすく、主にハムストリングスを鍛える器具です、って」
栞奈の言葉に対し、質問も思い付かない。「ハムストリングスってどこか知らないけど」
ヒトの【ひかがみ】つまり膝裏の、腱の事らしい。で、ストリングス、糸か。
上半身を固定するクッション性のシートに背中を預け、フリーになった両足で、こっちに向けて立てた踏み板を踏み込むと、踏み板かシートが動くのに連動したウェイトによって両脚に負荷が掛かるという仕組みだ。
それが、普段は全く動かない地面か、動くのに苦じゃない自分としか向き合わない脚が、それ以外の強い負荷を感じるというのが、精神的にものすごいストレスだった。ついつい全身が力んで、体が浮いては注意される。「腰動かさない。前戯してるんじゃないんだから」
「ちょ、ちょっと何か今変な事」
「集中してないからだよ。はい……ストップストップ、そこからゆっくり戻す」
「え、え、こう?」
「そう。膝伸ばしきったら逆パカしちゃうからね。あ、だめ。力抜きすぎ」
「逆?」折り畳み型の【ガラケー】を逆方向に開き折って破壊する事、らしい。
もしくは折り畳み型の有機ELスマホは、修理代が高いからそんな事はしない。
膝関節も、高く付くし、何より壊れたら痛いから、もっと早く言っといて欲しい。
「ふぅーっ、息吐いて」って吐き切られてから言われても、もう下げきってしまった。
脚の運動は、普段五十キロからの自重を支えているだけあって、腕周りよりも簡単に、やった気にはなれるようだ。それこそ、自重でも結構な負荷になるのに、急にウェイトなんかやったら筋肉痛は出る、と終わってから聞かされても困る。「十回かける三セットね」
チェックを入れ、交代する間、ゆーっくりと探るように床に腰を下ろし、脚を伸ばした。
「脚のやつ、あんまり人気ないね」
「そうだね」と一回。「脚こそ重要なのに」と二回。栞奈は数えもせずに言う。「ルイージ子ちゃんの動画でも、脚が弱いと他の部位も満足に鍛えられないし、脚の運動をすると循環が良くなって浮腫みが取れたり冷え性にも効く、って言ってたんだよ」
「そうなんだ」観てるんだ、そういうの。
筋トレ系【インフルエンサー】の人だったかな、確か。でもなぜかデイジーではない。
「ここ通おうかな」と言ってる間に、栞奈はわたしの半分の時間で十回を終えている。
「もう二年の二学期なんだけど、運動部でもないのにいきなり通い出す子居ないよ」
「じゃあ運動部……筋トレ部あったっけ。もうほんと体育が全部これならいいのに」
「栞奈ってダンスとか嫌い?」
「うーん、まあ。そんなに」
栞奈の視線の先、ウェイト系コーナーでは、百キロはありそうなプレートを付けたバーベルを置いて、上がらない上がらない、と言って面白がってる様子を楊田が動画に撮っていた。上がらないなら、落としてケガをする心配もないだろうけど、何してるんだか。
「そういえば今日」と口に出してから、栞奈の様子を窺い、わたしは言った。特に変な反応はなく、こちらを見ている。「見た事ない子が居た。朝、教室の前歩いてて、情報科で見た事ないんだけど、栞奈知らないかなって」
足が止まる。「どんな子。一年か三年が用があって寄っただけじゃなくて?」
「それは、そうかも。ポニテで、なんだろう、綺麗な感じだった」
「ポニテ……だけ。だったら結構居るけど、その時に照会しなかったの?」
「メガネ掛けてたから咄嗟に出来なかった」
「そっか。知らないなら、保育かな。かわいい子はみんな保育行くから」
「栞奈もかわいいよ」と言ってやる。
栞奈は鼻を鳴らし、言う。「よせやい。そういうので言ったんじゃないって」
再び足を動かすと、淡々と繰り返す栞奈のペースは変わらないので、本当にそういうのではなかったのかもしれない。無理に気を使って、フォローを入れたみたいになってしまった。もう何も言う事はなく、そこまででもなかった、と打ち消すのはもはや意味が分からない。
立ち上がり、栞奈に「ちょっと歩いてるね」と断って背を向けた。
君田先生が懸垂を披露した事で懸垂チャレンジが始まって、上枝や、奈々風や、一回の壁を越えられない女子が次々に十センチの高さから落ちて、熱くなった手を振っていた。楊田はスマホを器具に向けている。それは【ペックフライ】という、胸筋を鍛える器具だ。
大きな台座に一人用のイスを付けたような形をしていて、左右にレバーが伸びている。
左右から、それこそバタフライナイフみたいに腕を閉じる動作に負荷が掛かる。
戻す時には胸を張って、シャツが突っ張るから、玉木のちょっとある方の胸はシャツ越しに浮き上がる。楊田は動画を撮りながら「すごいじゃん、でかいじゃん」と煽り立て、玉木を俯かせていた。スポーツブランドの、背中合わせに座るロゴが、シャツに透けて見えていた。
そのせいで姿勢が悪く、ほとんど踏ん張った脚の力でレバーを動かしている。
同じメガネ族の信原は、玉木と組になったと思ったのに、近くに見当たらなかった。
楊田が気付いて振り返り、わたしに「動画見る?」と言ってくる。
「あ、あとでね。楊田さん、終わったの?」
「うーん、まあ。大体でいいでしょ。瑶鼓だけだよ、マジメにやってんの」
カメラが一瞬向いた窓の方、えーっと【トレッドミル】の真ん中の台に、一際目立つ長身の女子が走っている。長いストライドで、姿勢が良く、ペースに乱れはない。高いポニーテールがS字や逆S字に揺れていて、後ろからだから銀髪はほぼ見えない。
シャツなんかハーパンにしまっている。しかも裸足だった。
「おい、そこの!」と呼び付ける声は、幼く、甘く、なのに気だるい雑談の空気を唐突に裂いて、やけに鋭く耳に刺さった。振り返るとここ、わたしを奈々風が見上げていた。「ほら、手を引くんだよ、まのちゃんが」
奈々風は上下ジャージ姿で、薄いマットの上に両脚を横に開いて座っていた。
「わたしが?」自ら指差しながら、そろそろ歩み寄る。「どこかに行くのかな?」
「行かない。引っ張るんだよ。ほら前に来て、手」
差し伸べられた両手を自分の手に乗せ、軽く握りながら奈々風の正面に腰を下ろした。
「足を開くんだよ」と言われる。視界の左右でつま先が左右に振られ、誘うような動きを見せていた。「まのちゃんも一緒にやるからね」
「こういうのって、体固い方が損するだけじゃないの。わたし固いよ?」
「別に戦いじゃないよ。一緒に柔らかくなろうぜ」
「……背中押せばいい?」
手を離し、後ろに回って背中を押してやる。息を吐きながら、って奈々風がだけど、ゆっくりと十秒押して、そして十秒掛けて戻したりは、しない。座椅子みたいに一気に戻る。「いたたたたたた、ぁいいって」と喚きながらも、肘くらいはマットに付きそうだった。
「奈々風ってあと何やった?」
「バーベル、上げてみた。全然上がらなかったけど。重いねあれ」
「見たら分かるけど。どうしよう、あと二個何やったらいいかな」
「まのちゃんって誰と組んだの?」
「栞奈」
「仲良いもんね。栞奈ちゃんと同じのやればいいじゃん」
「あの人すごい、実は運動好きだったみたいで。筋トレに感動してた」
「普通に走るの速かったし、体育祭のリレー。プールもめちゃくちゃ遊んでたし」
「お二人さん、口ばっかり動かしてないでね」白い薄手のジャージは、学校指定の物じゃなくて、その下に高そうなスニーカーを履いている。その人は奈々風の足首を持って、少し角度を開いた。「ストレッチは反動付けて限界よりもう少し伸ばすのがいいのよ」
「ちょ、いたいいたい、まのちゃん一旦離して一旦」
「ああごめん。あの、えーっと」
「亜子ちゃん先生って、体柔らかいんですか?」と奈々風が白いジャージに尋ねた。
「それなりね。このくらい」と、亜子先生は【立位体前屈】の状態で、床にぺったりと手を付いてしまった。「毎日お風呂上がりにやってるから」というのもあるだろうけど、確か大学くらいまでチアか何かをやってたって話を前にしていたはずだ。
それが何で理系科目の高校教師になるのか、ルートはよく分からないけど。
「わあおすごい。Y字バランスとか出来ますか?」
「そんなに上がんないけど」と言いながら、亜子先生は片足を自分で持ち上げた。
このまま乗せたら色々と披露してくれただろうけど、何しろ柔軟性を披露する為の形もよく知らないので、一人ずつ黙って、何も起こらなくなってしまった。「もう終わったの?」と言われて、奈々風のプリントが見られ、わたしのは「栞奈の近くにあります」と言うと、亜子先生は栞奈がぶら下がってる鉄製のケージみたいな器具の方に向かった。
「わたしも終わらせないと」
「そっか。気を付けてね」
何を、ってワイヤーやウェイトがゴロゴロしてるから危なくはあるのか。
時間内に三つ終え、チェックを貰って更衣室に移動すると、手前のロッカーで誰かが狼狽していた。一瞬こっちを見て、ロッカーを見て、まだ何か訴えて来る。「キンちゃん、そんなに慌ててどうしたの」と見兼ねた栞奈が聞いた。
「鍵が」と糸を通して聞くような、細い声がした。「動かなくて」
「錆びてるのかな。最悪壊しちゃえばいいでしょ。何個かたぶんそれで壊れてる」
何個も、ロッカーが開かなくなって壊れたのなら、これ以上増やすべきではないし、壊れるか壊されるかした原因を特定し、再発を防止するべきだけど、知ってるからって何か言えるわけじゃない。誰がやりました、見てましたって、誰かが言えばいいのに。
「頑張ってね」と言い残し、奥に向かうと、瑶鼓がベンチに座って火照っていた。
下着ギリギリまでシャツを捲り上げ、扇ぐものも無いから、なんとなく体を揺すっているようだ。その辺りは空気が湿っぽく、制汗スプレーの香料が充満していた。よく見ると、瑶鼓の腰骨の窪みにうっすら汗の粒が浮いてるけど、よく見たりしない。
「鍵どうしたの?」と、瑶鼓がこちらを見ないで聞いた。
「開かないんだって」
「楊田が何かしたんじゃないの?」
「だったかな」と栞奈が言った。「開けてやろうかな……あっ」
既に玉木の姿は無く、先生を呼びに行ったようだ。
わたし達が着替える間も瑶鼓は眉一つ動かさないで、栞奈にAGデオを吹き掛けられて、やっと「うへえ、固っ、くて重いな」と変な感想を漏らした。外に出ると、戻って来るクラスメイトと擦れ違い、その後ろに亜子先生の白いジャージ姿と、玉木も居るみたいだ。
本当に呼んで来たのか、しかも女の先生が、壊してでも開けられるのか。
食堂横には自販機が三つ並んでいる。
制服姿の女子二人が、立ったり座ったりして、そこでジュースを飲んでいた。
栞奈が急に足を止めて、スカートのヒダに、ブレザーのポケットに手を突っ込み、小銭を鳴らしながら言った。「お金足りたら何か買ってくわ」手を出して、右手から左手に。また右手に小銭を流し、それは握り拳一杯になる。
「冷水機じゃないんだ」
「運動後はね、あった。アミノ酸ウォーター。気になってたんだこれ」
「すごい、片方売り切れてる。こんなのが」
「上枝と楊田の分、取っといてよ」と、ネクターを飲んでいた絹香が言った。
センサーに手をかざし、学生IDを照合する間に、ミネラルウォーターを押した。
もう一本、と思ってしまって、堪える。手に持ったペットボトルは五百グラム、持ってみるとそれは思ってたほど軽いという事もなかった。「あ、六百グラムか」期間限定増量中、って夏までじゃないのかと、賞味期限を確かめたら年明けすぐで、ロット番号も古かった。
「上枝と楊田ってまだ戻ってないの?」と小銭を数えながら栞奈が三人に聞いた。
「まだ終わらないって。男子が来るまで粘るんじゃないの」
「課題どうするんだろ、プリントの」
「それも男子にやって貰ってたよ。たぶん同じやつだから」
「そこまでするか。ひっき、買えたから戻ろう。チャイム鳴っちゃう」
蓋を開け、ペットボトルを傾けると、栞奈は一気に半分を飲み干した。
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