第23話 人の姿に
イズミは両手を広げ、アールヒルドに向かって歩み寄った。
「アールヒルドさん、これから行う魔法は複雑で、時間が掛かります。そしてこれが一番問題なんですが、人に戻るまでの間、痛みを伴うかもしれません」
巨大な蛇は、その黄金の目でイズミをじっと見つめた。
「痛みぐらい問題ない。覚悟はできている。始めてくれ」
イズミは深呼吸をし、両手の指輪に魔力を通し始めた。周囲の空気が魔素で満ちていく。
「アルゴー様、風の大精霊様、リラカさん、あとノアールさんも」
イズミは振り返って一向に向かって声を上げた。
「魔法に巻き込まれないように、少し離れていてください。あと——少し時間が掛かると思います。朝までかな。ですから夕飯とか睡眠とかは適当に摂っていて下さい。私のことはお構いなく」
イズミは再びアールヒルドに向き直った。イズミはローブの内ポケットから手鏡を取り出すと、目の前の空中に固定した。
そこには手書きの呪文がびっちりと書き込まれている。その正体は師匠であるユーフィー・アルコットから受け継いだ古い呪文書だ。現代の魔法使い達は、そこに書かれた呪文も解読することはできないだろう。
イズミは呪文を唱え始めた。それは誰も聞いたことのない古い言語だ。
魔法の光がイズミの体を包み、そしてアールヒルドに向かって伸びていく。光がアールヒルドの巨体に触れると、彼は痛みに耐えるように体を震わせた。
「くうッ」
アールヒルドは唸り声を上げた。
「頑張って下さいね!」
イズミは励ましの言葉を掛けながら、魔法を続ける。
アールヒルドの体全体がが光に包まれ、その姿が徐々に変化し始めた。鱗が剥がれ落ち、肉片が散って、体が縮んでいく。
その過程は明らかに苦痛を伴うものだった。
「ぐあああっ!」
アールヒルドの苦痛の叫びが、谷に響き渡る。イズミとしても、できるだけ苦痛を除去するために、複数の魔法を重ねがけしている。
「ここから長いですけど、アールヒルドさんなら耐えられるはずです!」
イズミは額に汗を浮かべながら、必死に魔法を維持する。
変容の過程は、何時間も続いた。太陽が沈み、夜が訪れ、そしてまた朝を迎えた。
アルゴーは、背後から一晩中その様子を見ていた。
イズミのてから放たれる光が薄れた。巨大な大蛇の鱗が積み重なった中央に、一人の男性が横たわっていた。
「終わりました」
イズミはアルゴーの方を振り返ると、膝から崩れ落ちた。
「大丈夫か?」
アルゴーがイズミを抱き抱え、心配そうに尋ねた。
「はい。ありがとうございます。ちょっと疲れただけですよ」
イズミは微笑んだ。
そのやりとりの間、地面に横たわっていた人間が、ゆっくりと動き始めた。
彼は呻き声を上げながら、体を起こそうとした。壮年の男性だ。長い銀髪に、鋭い目つき。その体は、かつての聖騎士を思わせる、がっしりとした筋肉に覆われている。
「アールヒルドさん。大丈夫ですか?」
イズミが立ち上がり、声を掛けた。
男性はゆっくりと顔を上げ、イズミたちを見た。その目には、混乱と驚きが浮かんでいた。
「戻ったのか——」
アールヒルドは自分の手を見つめ、そして周りを見回した。
「本当に人間に戻れたのか」
イズミは微笑んで頷いた。
「はい。お約束通りです。人間の姿に戻せました。もうアンジェリカの呪いはありません。ただ——ちょっと」
「ちょっと?」
「ドラゴンの血を受けたことで、寿命が大幅に伸びているようでして。そこは変えられませんでした。その点はご容赦いただけますとありがたいです」
アールヒルドの目に、涙が浮かんでいた。
「長かった——。もう戻ることはないと思っていた」
彼は言葉を詰まらせ、そして深く頭を下げた。
「イズミよ、そして
アールヒルドは、まだ人間の体に慣れない様子で、ゆっくりと歩みを進めた。
「こんなに小さな体で歩くのは随分と久しぶりだ。まだ慣れんな——」
イズミは彼の傍らに寄り添い、優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ。すぐに慣れますから。あと、リラカさんがとりあえずの服を用意してくださっていると思いますので、先に身につけておいて下さい。あと、人間種最強のアールヒルドさんと違って、私はひ弱なので、少し休ませていただけますと幸いです——」
イズミは近くの巨岩に背を預けて座って目を閉じ、すぐに寝息を立て始めた。
「お、おう。
アールヒルドは旅に同行することを決めた様子だった。
イズミはそれから半日意識を取り戻さなかった。一度目を覚ますと軽く食事を摂り、さらに半日寝た。その間、アールヒルドはアルゴーとリラカ、白フクロウとの会話を通じて、ここ六百年近くの歴史について学んだようだった。
「おはようございます。あったま痛ぁ——寝過ぎですよね、これ」
イズミが目を覚ましたのは日が暮れてからだった。寝癖でぼさぼさで、腫れぼったい目をしている。まだ半分夢うつつのような状態だ。
「アールヒルドさんもちゃんと休まれましたか? え、寝てないんですか? そうだ。こんな時間なら、お夕飯を、出した方がいいですよね」
イズミは、聖騎士が
「何をやったんだ。それは魔法か? そんなこと、お前の師匠でもできないだろう」
アールヒルドが驚く。
「——新鮮な反応じゃな」
アルゴーが白フクロウの耳元でこっそり呟いた。
「イズミでも退けることができんとは、さすがドラゴンの血じゃな。わしの血でもなるとは思う。まぁ、普通は永遠に生きるなんてのは、〈呪い〉というんだがの——」
「ちょっと自信失っちゃいますよー。私、大魔法使いなのにー」
夕飯を食べながら、アールヒルドの寿命が伸びていることについての話が出た。イズミにもどれだけ伸びたかわからないらしい。
「いやいや、帝国筆頭魔術師様、吾輩は本当に感謝しておる次第。そして今後、吾輩が
アールヒルドがイズミに深々と頭を下げた。
「何ですかその帝国筆頭魔術師様って」
イズミがキョトンとした顔をすると、白フクロウが、イズミの寝ている間に、アールヒルドが歴史の勉強をしていたのだと補足した。
「ああ。そうなんですね。でももう帝国はないですし、ちょっと固くないですか。恥ずかしくなってしまうので、もうちょっと呼び名を何とかしていただけるとありがたいのですが——」
「では、我が主とかいかがでしょうかな」
「いや、普通にイズミって呼んでくだされば良いんですけど——」
「吾輩、流石にそこまでの礼儀知らずではありませんぞ」
そこにアルゴーが口を挟んだ。
「わかった。〈
「お嬢様——良いですな。ではそのように。イズミお嬢様!」
「ええぇ。そうなるんですかぁ。まぁ、はい。お嬢様でいいです。受け入れます」
どうもイズミは疲労が残っている様子だ。やり取りするのも面倒になったのだろう。
「土の大精霊よ」
アールヒルドは低い声で呼びかけた。
「吾輩の呼びかけに応じたまえッ!」
呼びかけてからしばらくの間は、何も起こらなかった。しかし、やがて地面から茶色い霧のようなものが立ち昇り始めた。その霧は次第に濃くなり、人型を形作っていった。
「すごいものだな」
その気配の強さに、リラカが息を呑んだ。彼にとっては大精霊の姿を直接見るのは初めての経験だ。
土の大精霊は、大地そのものから生まれたかのような姿をしていた。磨かれた銅のような肌に、苔が張り付いたような髪。その瞳に当たる部分は水晶のような透明な宝玉が嵌っている。
「人間よ、幾久しき年月を隔てて我を呼んだな。果たして何用か」
大精霊は厳かな声で尋ねた。
アールヒルドは精霊に向けて頭を下げ、続いてイズミたちの方を向いた。
「土の大精霊よ、説明はこちらの方から受けるがよい。なお、
「——風の大精霊よ、その様子では願いが叶ったようだな」
「ええ。そこの〈放浪の魔女〉こと、最後の大魔法使いの尽力によって。我々は彼女に大恩があるわ。その意味がわからないあなたではないでしょう」
白フクロウを通じた風の大精霊の言葉に、土の大精霊は笑い声を上げた。そういえば、この大精霊は人の言葉を解するようだ。
「それならば、大精霊の名の下に、どんな依頼でも受けようではないか」
イズミは一歩前に出て、土の大精霊に向かって丁寧に頭を下げた。
「土の大精霊様、人間種の言葉でお伝えしますことをお許し下さい。私たちはこの断崖に架かっている〈
大精霊はイズミをじっと見つめた。
「何のために新たなる橋が必要なのか、その目的を聞かせてもらえないか」
「この世界を滅びから救うためです」
イズミは真剣な表情で答えた。
「世界中の魔素が奪われつつあるのは、すでに大精霊様であればご存じのことでしょう。私たちは、それを止めるために旅をしているのです」
精霊は黙って聞いている。イズミは続けた。
「〈
長い沈黙の後、精霊はゆっくりと頷いた。
「あいわかった。あの橋は、はるか昔に我が造りしもの。崩れゆくままにしておくというのも惜しかろう。力を貸そうではないか」
(つづく)
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【著者より】
急に肌寒くなってきましたが、みなさま体調など崩されおりませんでしょうか。僕は少し風邪っぽいので無理せずいきたいと思います。
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