第21話 大蛇蠢動
「ほほう。これは小さきものの目で見ると、大変に見事なものだな」
アルゴーが感嘆の声を上げた。
最後の〈揺籠〉から歩くこと半日、一行は〈ホワイトビーチ大森林〉を抜けた。そこからは下り坂になった岩石の連なる荒地が帯状に広がっており、その荒地を抜けた先は切り立った深い崖だ。そして崖の向こう、およそ数キロメートル先に、同様の絶壁が威容を顕にしている。
「俺にはこの崖の記憶はない。確かに抜けたことはあるはずなのだが、その記憶が抜け落ちてしまっているのだ。だが、これが大自然の作り上げた、最も凄まじいものの一つであることはわかる」
圧倒されているのか、リラカの声が震えている。
「深さがおよそ二キロメートルあるらしいですから、落ちたら終わりですね。有史以来、この絶壁を下まで降りた人はいないらしいですし」
イズミは、谷底には激流が流れており、この川は船が使えないのだと説明した。つまり、河口側から遡ってくることもできないという秘境なのだ。
「そして、この断崖は、ここらへんが一番幅が狭いんだそうです。一番幅が広い箇所は、二十キロメートル以上あって、対岸も見えないと聞いたことがあります。そして、あそこに見えるのが、ずっと昔に滅んでしまった巨人たちの作り上げた〈
「そうじゃろうな。気づいているかどうかは知らんが、ここはワイバーンの巣だ。洞窟の蝙蝠と同じくらいワイバーンがおるぞ。逃げ場のない壁にぶら下がっていようものなら、いい餌じゃな。だが、この谷には、ワイバーンよりも恐ろしいものが潜んでおる——例の大蛇とかいう奴だの」
アルゴーによれば、おそらくワイバーンも一口というサイズだろうとのことだった。ワイバーンは飛行に特化した亜龍であり、一般的に知られている個体は五メートルほどの体長だ。ただし、翼を広げた幅は十メートル近くになるものも少なくない。
「それを一飲みって、どんだけでかいんだ」
リラカが不安そうな声を上げた。どうやら先日からの態度を見るに、このエルフは、蛇が苦手らしい。
一行は橋を目指していく。橋は石造りのようだが、度重なる崩壊で、足場が相当危険であろうことは傍目にも明らかだ。だが、イズミはそれを修復しようと考えているという。
「今の橋の状況を見ると、土の精霊様にお願いしないといけませんよね。でも呼んでお願いするにしても、アールヒルドさんのことをなんとかしないといけないのは確かですし——どれくらい工期が掛かるか、ちょっとわからないなぁ」
イズミは何やら頭の中で色々と考えている様子だ。彼女の塔にある資材の総量を上回っているのか、それとも単純に工事にどれだけ掛かるかの見積もりが不可能ということのなのかもしれない。
考えごとをしながら歩いているイズミを見て、アルゴーの肩から飛び立った白フクロウが、女魔法使いの頭の周りをぐるりと回った。
「土の大精霊なら、この二つの断崖に橋を渡すくらいはすぐできると思いますが、あの大精霊を呼べるのは、ドラゴンくらいかもしれませんよ」
「ですよねぇ。ならやっぱりアールヒルドさん頼みになりますね。彼は土の精霊を従えているはずなので、きっと呼んでいただけると思うんですよ」
「それには、ワイバーンすら飲み込むという大蛇と戦わねばならないということだろう?」
リラカが不安を隠そうともしない顔でイズミの顔を覗き込む。
「大丈夫ですよ。きっと戦いにはならないですし、こちらには真のドラゴンのアルゴーさんがいらっしゃるんですから」
「え。何? わし?」
何も話を聞いていない様子のアルゴーが、イズミの言葉に反応した直後、地鳴りと共に地面が揺れた。
「なんだこれは!」
エルフが叫び声を上げてうずくまった。
「あー。これは地震っていう現象です。多分アールヒルドさんに会話を聞かれていたんじゃないでしょうか」
イズミは特に気にすることもない様子だ。
「冗談でもやめてくれ」
リラカは既に涙声だ。だが、そんなエルフの様子など気にも止めずに、イズミは声を掛けた。
「ちょっと、崖の下を見てみたいんですよ。あ。落ちられると困るので、リラカさんはこのあたりで待っていてくださいますか?」
「待て、一人にしないでくれ」
エルフはあたふたと立ち上がると、既に断崖に向かって歩を進めるイズミの後を追った。
イズミとアルゴーが張り出した巨岩の上から谷底を覗き込むと、遥か下の方で、蠢いているものが見えた。
「うわ。想像以上に凄いことになってます」
「どれどれ。ああ、やはり育ちすぎているように思えるのう。しかし、あの棘は何じゃ」
濃い緑色の大蛇の全長は、恐らく五百メートルを超えており、直径が十メートルほどもある。目が真っ赤だ。そして通常の蛇とは異なり、全身から棘のようなものが生えている。
「めちゃくちゃじゃないですか。困りましたね」
イズミとアルゴーが岩から離れると同時に、再度地面が揺れた。
「そこに魔法使いがおるなッ!」
地の底から響くような低い声が、イズミたちの耳に届いた。その声は怒りを孕み、耳障りなほど歪んでいた。その声が響いた直後に、つい今し方イズミが乗っていた巨岩が不自然に揺れ、一瞬のうちに谷底へと落ちていった。
「あの声、アールヒルドさんですけど、もう人間の声とは思えませんでしたね」
イズミが静かに言った。その言葉に、リラカは青ざめた顔で頷いた。
「ああ、聞こえた。だが、あんな声は聞いたことがない」
「そうだな」
アルゴーが同意した。
「わしが知る限り、およそ生物の声ではないな。むしろ、精霊の声に近い」
イズミは深呼吸をすると、再び崖の縁に向かって一歩踏み出した。
「アールヒルド様、ご無沙汰しております。私はイズミ・アルコットです。覚えていますか。少しお話しさせていただけませんか」
すると地面が大きく揺れ始めた。崖の一部が崩れ落ち、そこから巨大な蛇の頭が現れた。棘だらけのその頭部だけでも、小さな家ほどの大きさがある。
「イズミ・アルコット!」
大蛇が唸った。
「貴様は憎きアンジェリカの愛弟子だなッ! よくもこの私の前に姿を現すことができるものだッ!」
大蛇アールヒルドの口から、息が吐かれた。
「アールヒルド様、毒の息を吐かれても無駄です。今、風の大精霊様が、風の向きを操っておられますから」
イズミは震える手を抑えながら、大蛇に対して、そして
「アールヒルド様、私はあなたとお話がしたいのです。アンジェリカのことも、そしてあなたの身に起きたことについても!」
蛇の目が更なる怒りに燃えた。
「話をしたいだと? 吾輩をこんな姿にしたのは、お前の師匠ではないかッ!」
アールヒルドの巨体が、まるで大地そのものが怒りで震えているかのように動き始めた。その動きに合わせて、周囲の岩や木々が砕け散る。
「イズミ、下がれ!」
アルゴーが叫んだ。その叫びの後で、老紳士の姿のドラゴンは光に包まれ、次の瞬間には巨大な青い龍の姿に変わっていた。
「貴様ドラゴンか! 吾輩を〈
大蛇の挑発に、アルゴーの瞳に怒りが宿った。
「大蛇め。格を知らんと見える!」
ドラゴンは翼を広げ、アールヒルドに向かって飛びかかった。二つの巨体がぶつかり合う音が、雷鳴のように響き渡る。
「アルゴー様、お気をつけて!」
イズミが叫んだ。
リラカとノアールがイズミをその場から離れさせようと、袖を引っ張る。
「魔女様、ここは危険です。早く退避しましょう」
「イズミさん、リラカさんのいう通りですよう」
しかし、イズミは首を振った。
「いいえ、逃げるわけにはいかないんですよ。私たちには、アールヒルドさんの力が必要なんですから。あの橋をどうにかしないといけませんからね」
「しかし、あんな怪物と戦うなんて」
イズミは袖を引っ張るリラカの腕に手を置いた。
「大丈夫です。戦わないんですよ。計画がありますから。きっと全部上手くいきます」
イズミは両手の指輪に魔力を通し始めた。
「アルゴーさん、まずは落ち着いてこちらにお任せください。アールヒルドさんも落ち着いて聞いてください! 私はあなたを人間の姿に戻す魔法を知っています。アンジェリカの魔法は全て使えますし。それ以上の魔法を用意してここまでやってきましたので! その魔法が使えるのは、今や世界で私一人になってしまいました。この意味がお分かりにならないあなたではないでしょう!」
その言葉に、アールヒルドの動きが一瞬止まった。イズミの言葉に反応したアールヒルドは、アルゴーとの戦いを一時中断した。その巨大な蛇の目が、イズミに向けられる。
「人間に戻る方法だと? 嘘ならもっとましな嘘を吐くんだなッ!」
雷鳴のようなアールヒルドの声が周囲に轟いた。
イズミは両手を広げ、できるだけ落ち着いた声で話し始めた。
「嘘ではありません。アンジェリカの魔法を解く方法を携えてここに来たのですから」
アルゴーは大蛇の行動を警戒しながら、イズミの背後に降り立った。
「イズミよ、気をつけろ。奴の言葉を簡単に信じるものではないぞ」
「わかっております」
イズミは頷き、再びアールヒルドに向き直った。
(つづく)
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【著者より】
この作品は、極力戦闘シーンがないように心がけております。明らかに最強な人たちの話なので、戦いになると周囲への被害が大きくなるのは登場人物自身が理解していますし、そんなに目立ちたくない(軍隊とか出てきたら厄介だし、討伐されるのはもっと避けたいし)というのが大きな理由です。なので、多くのことは対話で解決されます。ドラゴンと大蛇が暴れ回るシーンも迫力あって良さそうですが、リラカとか可哀想な感じになっちゃいますしね。
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