第19話 トレント

 一行は森の中を、再び北に向かって移動し続けていく。

 気候も丁度良く、天候も悪くない。

 全て森の精霊の加護のおかげだ。

 ——そうだ。最初にこの地に落ちてきた時に、自分はこの森を彷徨ったのではなかったか。

 歩いているうちに、イズミは遥か昔のことを思い出して、懐かしさを感じた。

 森の中は変わらないのだ。まるで時間が止まっているかのように。


「さて、明日で森を抜けることになる。ここが最後の〈揺籠〉だ」


 リラカが続けた。


「森を抜けると、すぐに〈大峡谷〉が見えてくる。知っていると思うが、大陸でも指折りの深い峡谷だ。〈深き井戸のドラゴン〉様が、〈古の大橋〉が崩れていると事前に情報を下さった以上、別の何らかの手段でそこを越える必要がある」


 先日、リューリカは空を飛ぶしか方法がないと言っていた。実際に千メートルを越える垂直の断崖を降りていき、さらに激流を渡った上で再度千メートルの崖登りというのは、現実的ではないだろう。


「魔女様は空を飛べたりはするんですか?」


 彼はイズミに尋ねた。


「ちょっとなら飛べますけど、ドラゴン様ほどではありません」


 イズミの返答は普段の彼女を思うと、曖昧なものに思えた。

 ひょっとして、彼女は空を飛ぶことを避けようとしているのだろうか。

 エルフはそう思ったが、ではどうやって? という疑問に対する答えを示すことはできなかった。


「ひょっとして、イズミは橋を修繕しようというのか。昔のように人々が行き来できるように」


 アルゴーが横から口を挟む。


「——できればそうしたいんですけど」


 奥歯に何か挟まっているかのような物言いだ。


「そういえば、先日、あの真っ白けが何やら言ってなかったか。蛇がおるとか何やら」


 真っ白けとは、真なるドラゴンとなった〈深き井戸のドラゴン〉リューリカのことだ。

 ノアールがそれを指摘すると、アルゴーは、あんな若造は〈真っ白け〉で十分だ、と笑った。


「そうなんです。その蛇が問題でして。通称〈呪われし大蛇〉アールヒルドっていうんですけど、私が知る限りではちょっと厄介な人なんですよね」


 イズミの眉間が曇った。


「そうなのか。魔女様、その話は後で詳しく教えてくれ。まずは夕飯の準備をしよう。厄介ならば、ちゃんと寝なくては余計悪いことになる。きっと皆で考えれば良い案も出るだろう」


 リラカは真っ先に床に敷布を広げながらノアールに声を掛けた。


「猫ドラゴン様、今日の夕飯は何がよろしいかな、魔女様におねだりされるがよろしかろう」


 きっと彼なりにイズミのことを気遣っているのだろう。

 そして夕飯はノアールの希望でビーフシチューになった。


 早めの夕飯を終えて日が暮れると、イズミはポケットから出した石を魔法で光らせた。沈んでいく太陽のような光が、柔らかく周囲を照らす。

「もうこの森ともお別れになってしまうんですね。そう考えると寂しいです」

 ほとんど森の中にも入っておらず、エルフの魔法で木道を歩き続けただけのことではあるが、確かにこの森は一行にとって第二の故郷なのだ。


「誰か来たぞ」


 リラカが森の奥の暗闇に視線を向けた。

 〈揺籠〉は森の精霊の加護で、敵意のある者は近づけないはずだ。となると、森の精霊を信仰している者だろう。

 だが、人間種ではない。人間種であれば、暗闇で人型に輝いて見えるはずだ。リラカの目は、赤外線まで領域まで知覚可能だ。

 だが、動物の体温を視覚的に感じ取ることのできる目にも、何も見えない。

 真っ暗だ。


「ああ。ホワイトビーチ氏族のエルフよ。我々に敵意はない。安心して欲しい。そこの人間種の娘が久しぶりに帰って来たから、挨拶をしようと思って来ただけだ」


「トレント!」


 リラカが声を上げた。

 トレントとは、高度な知的能力を持ち、森の中を移動することのできる意識体である。生物というよりはむしろ精霊に近い存在だ。意識体としては、隣り合う木々を次々と乗り換えるように取り憑いて移動する。必要とあらば取り憑いている樹木単体としても移動することができる。

 森の中で、すぐ横にトレントの憑いた樹が立っていたとしても、彼らが存在を明かそうとしなければ、エルフですら気づくことはできない。


「え。トレント様が私に会いにいらっしゃったんですか?」


 イズミが驚いて立ち上がった。


「ああそうだ。騒がせて済まなかったね。イズミ・アマツカ。一千年以上帰らなかったから、もう亡くなったとばかり思っていたよ。それとも、もう我々のことは忘れてしまっただろうか——?」


 〈揺籠〉の縁から姿を現したのは、二本の杉の大樹そのものだった。

 イズミの過去の記憶は、既に曖昧なものになり、思い出せないことも多い。しかし、自分が生活していた世界から、この世界へと〈世界渡りプレインウォーク〉をした時の体験は、忘れられるような記憶ではなかった。


「覚えておりますとも! トレントの予言者、マール様とカール様!」


「おおイズミよ。覚えていてくれて幸いだ。我々はね、あなたがこの地に落ちてきた時のことを、昨日のことのように覚えているのだ。自分の身に起きたことに耐えて、苦しんで、傷ついて、それでも諦めなかった強い娘のことを覚えている。我々はエルフよりも、ドラゴンよりも長い間、記憶を受け継いでいくのだ。イズミよ」


「〈放浪の魔女〉の育ての親たるトレントよ。西の山脈のドラゴン、アルゴーだ。この度は森を騒がせてしまい、申し訳なく思う」


 アルゴーがトレントに頭を下げた。その様子にイズミもリラカも動揺した。

 ドラゴンは通常、どんな存在に対しても頭を下げることはない。彼らは世界の頂点だからだ。例外はドラゴン同士で、格付けが明かな場合に限られる。先日のリューリカがアルゴーに見せた振る舞いだ。

 トレントに対してドラゴンが頭を下げるなど、あり得るはずがないのだ。だからこそ、アルゴーがイズミの縁者に対して取った態度は、最大限の敬意の表れであった。


「偉大なるドラゴン様、頭をお上げください。我々はただの森に潜み、森に起きた記憶を語り継ぐだけのトレントです。こちらこそドラゴン様に、我々の娘の未来をお頼み申し上げます——」


 トレントはアルゴーにそう伝えた。彼らは動作も鈍く、表情も変わらない。だが、その頼みが真摯なものであることは、一党パーティの全員に伝わった。


「イズミよ、我々の娘よ。我々の元を離れてから、どう過ごし、そして今どうしてこの地を再び訪れたのか、教えてはくれまいか」


 トレントの言葉に、イズミは彼女の過去を短く短くまとめて語った。


「最初の三百年は、ただがむしゃらに生きました。〈世界渡りプレインウォーク〉をする時に、女神様に会って、不死ではないが不老であることは告げられました。何か望みのことはないかって問われて、自由であること、努力が報われること、大きな力を得ることを望みました。そしてその力を得る代償として、正しい力の使い方をすることを誓いました——」


 彼女はその後、数百年にわたって魔法を極めるための修行を続け、世界をより良いものにしようと努力を続けたことをトレントに語った。


「もちろん失敗してしまったこともあります。ですが、可能な限り多くの者が幸せであって欲しいと思いながら力を使うように心がけています。この五百年は、魔素がどんどん薄くなって、魔法使いが力を失っていくことに心を痛めておりました。大いなるトレントの予言者であるマール様、カール様。この地には、その解決のための旅で偶然立ち寄りました。あなたの娘は、薄情にもこの森こそが、お二人が住まう森だなんて、すっかり忘れてしまっていました!」


 ごめんなさいと繰り返しながら、イズミは二体のトレントにしがみついた。

 黙ってイズミの言葉を聞いていたトレントが笑ったように思えた。


「我らが娘よ。トレントの預言者であるマールとカールが、今後辿る幾つかのことについて、予言を伝えたいと思う。良い話もあれば、悪い話もあるが、どうか聞いて欲しい」


「——はい」


「トレントよ。それはわしらも聞いていて良いものなのだろうか」


 アルゴーが尋ねた。


「偉大なるドラゴン様、どうぞお聞きください。そしてどうか運命に翻弄される娘のことを守ってやってください——」


 トレントの言葉に、アルゴーは深く頷いた。


(つづく)


--

【著者より】

トレントと再会するシーンは、イズミがどういう存在なのかを強調するために必要そうだという判断から追加されました。今回と次回はイズミにとっては重要な回です。まだ橋を渡るにはしばらく掛かりそうです。第二章、意外にも長くなりそうです。

それでは次回もお楽しみに。


★ここまでお読みくださり、さらには応援していただき、ありがとうございます。レビュー・応援コメント・誤字脱字誤用の指摘等、心よりお待ちしております。今後ともどうぞよろしくお願いします。

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