第二十話 眠れる愛しき人
湯殿の床に香楓を寝かせたあと、すべてのことを従者に任せて、酒器を掴むと庭に出た。俺が彼女のために準備した従者は、香楓を清め、できる限りの看病をしてくれるはずだ。
俺は、俺にしかできないことをする。
隣を聡司が急ぎ足でついてきていた。
「陽輝様。どこへ向かわれるのですか?」
「聡司も一緒に拝んでくれ」
天の明神様の、
供物机の上に酒器を置くと、両手を合わせる。
隣で聡司も手を合わせる気配が伝わってきた。多くのことを語らずとも、俺の言わんとしていることを理解してくれる。
気持ちを落ち着かせて、天の明神様に語りかけた。
香楓のことを報告し、助けてほしいと一心に祈る。
俺が、天の明神様の意思を感じたのは、十のときだった。
俺が元服すると、父上は
都に鬼が出たと聞けばなるべく駆けつけることで、
まだまだ若僧の俺に反感はあったのだろうが、表だった反発がなくなった頃だった。
俺は、気になる子供を見つけてしまった。いまから三年ほど前だろうか。
その子供は水色の狩衣を着て、父親の後ろをついて歩いていた。子供を連れているのが光代家当主だったから、初めは心配してしまった。
光代家と言えば、真面目で堅物。臣下としては、信頼できるのだが、子供には酷なのではないかと思ったのだ。
幼いうちから実戦に連れてくるのは危ないと、苦言を呈している者もいた。俺も言わなければならないかと、様子を観察する。
そこで気づいてしまったのだ。
父親の後ろをちょこちょこと歩いていると感じていたのは、小柄な体格から勝手に想像した思い込みだった。その歩みは落ち着いていて、姿勢を正した姿は堂々としていた。術を使うときのみならず、ちょっとした所作まで美しい。
興味をそそられた。
声を聞いてみたくなってしまい、術を紡ぐときに近づいてみたりもしたのだ。
彼の声は、俺の心を鷲掴みにした。
声変わりしていない高めの声は、鈴の音色のように軽やかで、清流のように澄んでいた。話し方も落ち着いていて、心地よい。
しかし、彼はあまり話さなかった。話しかけても、父親が対応するばかりで、彼自身は穏やかな微笑を浮かべている。
たまに目が合うので、嫌われているということはないのだろうが、親しくなれそうにはなかった。
彼の術は、穏やかな温かい光を放つ。母上に厳しく育てられた自分だから、相当な努力があってのものだとわかり、そのすごさに尊敬の念まで抱いた。
しかし、彼は陰の気を祓い終わると、すぐに家に帰ってしまう。それ以外のときに、外出しているような様子もない。
「光代家は、真面目で堅物だとは聞いていたが、どれだけ堅物なんだ」と、周りの者に愚痴を聞いてもらったりもした。
近づきたいのに、近づけない。見える場所にいれば、ずっと目で追ってしまう。そろそろ妃を決めなければならないというのに、どこの姫を見てもまったく魅力を感じない。父上に、早く身を固めろと再三言われたが、まったくそんな気になれなかった。
自分はおかしくなったのだと思った。それでも自分の気持ちが止められなかった。
この頃には、その子供は、淡黄色の狩衣を着るようになっていた。光代の次期当主であれば、自分の右腕として傍に置いておける。すこしずつ懐柔して、俺の物にしていくのはどうだろうか。
どのように懐柔したら、俺に靡くだろうか。甘い声ですり寄ってくる姫たちと比べたら、難易度が高すぎる。権力も、うまく使わなければならないだろう。どうしても手に入れたいのだから。
頭の中で光代のことばかり考えていたせいだろう。気がついたら、光代家の門の近くにいた。
使者も送らずに皇子が訪問するわけにはいかない。しかし、帰る気にもなれなくて、塀に沿って歩き続ける。
この塀の向こうに彼がいるのだと思ったら、乗り越えて会いに行きたくて仕方がなかった。
角をまがり、門衛から見えないところまでくると、塀に寄りかかって耳を澄ます。
やっぱり自分はおかしくなったんだと、自嘲が込み上げてきたときだった。
「香楓お姉さま、やっと見つけた~」
幼くとも、
「あら、
俺は、衝撃を受けた。鈴の音色のような声だったから。
「お姉さま、今日は遊んでくれるといったでしょ~」
それが、お姉さまと呼ばれているのだから。
呼吸をするのも忘れて聞き耳を立てていたが、聞き取れた会話はそれだけだった。
俺は、すぐに従者を集めた。周りの者は、心配してくれていたのだろう。俺の話を聞くと、皆、目が光ったかのようだった。
すぐに、光代家のことが調べられた。
一人目の姉はすでに嫁にいっている。二人目の姉は数日前に奉公をはじめていて、『かえで』という名前ではない。
光代家には女は二人きりで、後は三兄弟らしい。
三兄弟の名前は、思ったより簡単に調べられた。一番上の姉が、文官長の息子に嫁いでいるのだ。
上から『かえで』『ゆづき』『いぶき』というらしい。ということは、三兄弟だと思っていたうちの一番上が、光代家次期当主の娘。次女の歳を考えれば、俺の妃としてちょうどいい年齢のはず。
小躍りするほど嬉しかった。俺が悩んでいたことを知っている従者や護衛も、一緒になって喜んでくれた。
しかし、まだ準備不足だ。せっかく男だと思われていて、どの男の嫁候補にもならないという状況を、利用しない手はない。
まずは奉公にきている次女に探りをいれて、と思ったら、俺がじたばたしているうちに、次女は嫁に行く先が決まっていた。
どの姫も奉公に来れば、まず俺のところに色目を使いに来るのに、一度も顔を見ないうちに嫁ぎ先を決めてしまうとは。しかも、数日しか通っていないではないか。
まったく、光代は……。
光代の印象に、真面目で堅物に加えて、『権力に無頓着』が加わった。
絶対に逃げられないほど雁字搦めにして、それから娘だと明かさなければ安心できない。
俺は、次女に会ってみたのだが、裏表のない明るい女性だった。気取らない雰囲気が話しやすく、政治や地方の知識もあり、話は弾んでしまった。しかし、『かえで』という弟がいるものの、妹である素振りはちっとも見せなかった。
光代家に、自分の息がかかったものを送り込もうにも、使用人の数が少なく、紛れ込ませることができない。勤めている使用人に聞いたとしても、口が固い。
まったく。使用人まで光代家の性格に染まってしまっているではないか。
ほとんど情報は集まらないが、祓いの際、鬼と一緒に涙を流す姿を見れば、心優しい姫であることがわかる。所作をみて、声を聞けば、落ち着いた性格であることもわかる。祓いの腕を見れば、…………そんなこと見なくても、光代は真面目で堅物、さらに、権力に無頓着なのであった。
この前の召集に、『かえで』が来ていることを知ったときには、不謹慎にも親しくなれると嬉しかったのだ。それが、こんなことになってしまうなんて……。
温かい風が、俺の頬を撫でた。香楓を回復させたい。それは、俺だけの願いではないはず。
天の明神様に香楓の話をすると、嬉しそうな気配がしていたのだから。
香楓を回復させるために、自分ができることはないかと問う。
『娘が口にするものを供えよ』
重たくて、重厚感のある声がした。初めて耳にした声だが、天の明神様の声だと確信した。
手を合わせる顔に、強い風が当たる。早く行けとでも言っているのだろうか。
「聡司。行こう」
まだ手を合わせている聡司に呼び掛けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます