第十話 火之神
馬に跨がり火宮家に向かっていると、向かいから白い狩衣を着た人物が走ってくる。
大門のところで当主に怒鳴られていた、千金家の弟子だ。
「皇子様~!!」
遠くから大声で呼んでいる。
駆けつければ、青い顔でぶるぶると震えていた。
「き、き、き、鬼神です!! 鬼神が出ました!!」
「御姿を現されたか。すぐに向かう!! 」
火宮家を囲む、長い塀が見えていた。いつのまにか頭上は、黒い雲に覆われて、薄暗くなっている。
門衛に声をかければ、
立派な建物を回り込む間、地鳴りと共に地面が振動しているかのようだった。
「あちらです」
馬を門衛に預けて近寄れば、一瞬熱い風が吹き、黒い靄が流れた。岩の上には、大変美しい女性が座っていて、その額には、鋭く尖った二本の白い角が生えている。胸元をはだけるように赤い着物を着こなしていて、白い肌が色っぽい。はだけた裾からは、細くて艶かしい足が覗いていた。
熱い風が吹きつけているにも関わらず、全身からは冷や汗が吹き出した。禍々しい気が伝わってきて、足が竦む。膝が震えて指先が痺れる。これ以上近づいてはならないと、全身が悲鳴を上げていた。
いままで見た鬼とは、別格。祓うことができないほど、巨大な力をもっている鬼神。
その昔、鬼が跋扈する時代。帝の御先祖様は天の明神様をお祀りし、その御力を得て、五家の鬼神を封じたときく。その後は、五家がお祀りすることで、御力をお借りしていた。
祓えないほど強い鬼神を、神様としてお祀りすることで、都の守り神になっていただく。五家のご奉仕によって鎮められている鬼神様だが、五家の信仰心がすこしでも薄れてしまえば、今回のように鬼として解き放たれる危険性はあった。
周りを囲んだ
香楓と聡司は、陽輝様をお守りするように両側に立ち、一歩だけ前に出る。
「鎮まり給へ 鎮まり給へ」
三人の声が、ぴったりと重なった。
岩の上に腰かけた鬼神が、足を組み替える。
「少しは気骨のあるやつが、来たようじゃのう」
鬼神は喉の奥で「くっくっく」と笑う。
「
我が名は、天明陽輝 天の明神様の代理なり
御魂の声、聞くものなり
鬼神は膝の上に肘をつき、その上に頬をのせた。面白くなさそうに顔を歪める。その仕草が妙に色っぽく、恐ろしさが増す。
「なんじゃ。戦う気はないのか。まぁ、しかし、ちょいと不利かのう」
鬼神は聡司と香楓を順番に見て、「う~ん」と唸る。
「そうじゃ。我と一人ずつ戦うのはどうじゃ? そうじゃのう。う~む。どっちがいいかのう? ちっこいのか、でっかいのか……。」
香楓と聡司を見比べて、舌の先で唇の端を舐める。妙案を思い付いたらしく、嬉しそうに微笑んだ。
「そうじゃ! でっかいので腕試しをして、ちっこいのと戦うのはどうじゃ?」
陽輝様の息を飲む気配が伝わってきた。
「
こちらは争いを望んではおらぬ」
穏やかに諭す陽輝様に、鬼神は視線を合わせる。
御出になった訳をお伺いし、鎮まっていただけたらありがたい。
「それでは、面白くなかろう。なぜか無性に苛々するのじゃ」
鬼神は口角を上げ目を細めると、妖艶に笑う。
それに呼応するように黒い靄が吹き出し、渦を巻き、地面が細かく揺れた。
「あれ?」
香楓は、違和感を感じた。
大内裏の鬼は、陰の気を閉じ込めた
もしかしたら、あの場所にも、何かあるのではないか。そんな気がしてくる。
鬼への恐怖よりも、何があるのか確かめなければという気持ちが勝った。一歩、二歩、と近寄る。
「おや。ちっこいのは、やる気じゃのう。面白いことになりそうじゃ」
「香楓!!」
陽輝様の叫び声で足を止める。
「ふふふ。ちっこいのは可愛いのう」
足場の悪さを感じさせない軽やかな動きで立ち上がると、小さな凹みを足場にして、ふわりふわりと岩を降りてくる。
「香楓!!」
「危ない!」とか、「逃げろ!」とか、他の人も叫んでいる。
膝はがくがくと震えているが、逃げるわけにはいかない。あと、少しで見えるはず。
鬼神は、優雅な動作で地面に降り立った。
ふわりと熱い風が起きて、黒い靄が舞う。
やはり、何かある!!
・・・柄?
・・・・・・刀の柄だ!!
あの位置に柄があるということは、刃は何かに刺さっているはず。この黒い靄も、鬼神の出現も、あの刀が関係しているのではないか。
よく見たいのに、黒い靄が隠してしまう。一歩踏み出すと、鬼神が目の前にいた。
「ちっこいのは、面白い格好をしておるのう。それは、小僧が着ている服と同じだと思うがのう」
背の高い鬼神が、香楓の狩衣装束を見下ろしている。男と偽っているのだから、男の着る服で当たり前なのだが……。
まさか……。人ではない鬼神には、香楓が女だとばれているのではないか。
陽輝様が香楓の名を呼ぶが、鬼神が睨み付ける。
「ちょうど面白いところじゃ。邪魔するでないぞ。ちっこいのの命が惜しければな」
「鎮まり給へ 鎮まり給へ」
術句を紡ぐ陽輝様を、鬼神は一瞥した。
「そちには、興味はないのじゃ」
香楓の顔を覗き込むようにして、「ふ~ん」と口角を上げる。
足で円を描き、胸の前で印を結ぶ。淡い光が香楓を包み、簡易的な結界となる。
「
我は、天の明神様の代理なり
御魂を害する
取り去ることを許し給へ」
一気に術句を紡ぐと、鬼神は目を見開いた。
「なんじゃと!?」
鬼神の周りに黒い靄が渦巻く。地面まで波打ち、囲んでいた
「御魂を害する
取り去ることを許し給へ」
鬼神は、刀の刺さった場所を確認すると「ふん」と鼻を鳴らした。
「どうりで、痛いと思ったんじゃ。無性に苛々したのは、これのせいじゃな」
「刀があるのか?」
「まさか、なぜ、
「火宮家の謀反か?」
「馬鹿をいうな!! 刀なら、千金家だろ?」
「あわ、わ、わ、わ、火と
火に対して
「焦っているのが、証拠じゃないのか!?」
「せ、せ、せ、千金に罪を着せようとしているんじゃないですか!?」
「お前、千金家の弟子だったよな。弟子の分際で、火宮の当主に口答えするのか!?」
そんな言い争いをしているうちに、鬼神が香楓に迫っていた。
「お前ら、言い争いは後だ!!香楓!! 逃げろ!!」
いつも冷静な陽輝様の、焦った声が聞こえる。どうして、そんなに焦っているのだろうか。
自分の身に迫った危険に現実味が無さすぎて、そんなことを考える。
鬼神は香楓を見下ろして、「ふふん」と笑う。恐怖で固まった香楓の頬に手をかけて、自分の方へと向ける。
香楓は、真紅の瞳と目が合い、吸い込まれそうになった。触れられた頬の辺りの結界が、ぴりぴりと音を立てる。
「清らかで、可愛らしいのう」
「鎮まり給へ 鎮まり給へ」
鬼神が、陽輝様に視線を向けた。
「本に、煩いのう。そんなに大切なら、閉じ込めておけば良かろう。我の許嫁のように。閉じ込められて、只でさえ恨んでおったのに、あやつに巻き込まれて殺されてしまえば、恨みも募るじゃろう?」
鬼となった過去を話しているようだが、昔の話すぎて誰もが初めて聞くことだ。
鬼神は、香楓に視線を戻す。
「本当は、小僧がよいのじゃがな、あやつは弱いんじゃろ? ここまで近づけまい。じゃから、ちっこいのにだけ特別に許そう。あれに触っても良いぞ」
口角を上げ、妖艶に笑うと、顎で刀を示した。香楓の顎を触っていた手が、撫でるように離れる。
「早よ、行ってこい」
鬼神に背中を押されてよろけた。
震えてしまって力の入らない足でふらふらと近寄ると、刀が岩に突き刺さっているのが見えた。岩に刀が刺さるわけがないのに、刀の半分ほどが岩にめり込んでいて、目を見張る。
これは、鬼神様も怒るはずだ。
「鎮まり給へ 癒し給へ」
術句を紡ぎながら、柄を握って力をいれると、ゆっくりと引き抜いた。
物を引きずるような嫌な音とともに刀が引き抜かれると、岩についた傷が閉じていく。それに伴って、黒い靄がなくなっていき、立派な御神体が堂々たる姿を見せた。
香楓は引き抜いた刀を地面に打ち捨てた。その刀からは、陰湿な気配がしていた。
「あぁ、そんなもんが刺さっておったか。にして、我を正しく祀っておれば、こんなことにはならぬのじゃがなぁ。我を祀っておったのは、あの赤いのじゃろ」
「
我は、火之神の代理なり」
「じゃから、それを認めぬと言うておるのじゃ」
火の鬼神が、火宮家当主の術句を遮る。
「晃太の怠惰なれば
我ら火宮を許し給へ」
必死の形相で、喚く。
「ほほう。小僧は、晃太と言うのじゃな。晃太はどこじゃ? 連れてこれぬなどとは、言わぬじゃろうなぁ」
「早く、晃太を連れてこい!」
当主の命で、幾人かが屋敷の方へ駆けていった。
「そちは、香楓よのう。小僧もそちくらい強ければ良かったのじゃが」
屋敷の方から、慌ただしい足音が聞こえた。
「火之神様!!」
「小僧が来おった」
手には御神酒をのせた膳。服装は整えているが、頬は赤く腫れ上がっていた。
「ご無事で何よりです」
「晃太!! お前ぇぇ、神の御魂になんて言葉遣いなんだ!?」
殴られる!!
そう思ったときだ。鬼神が、香楓から離れて、「ふん」と鼻を鳴らした。熱風が火宮家当主に向かう。当主は情けない声を上げて、拳を下ろした。
それでも鬼神は当主の方へ、ゆっくりと歩を進める。一歩進むごとに、空気は重くびりびりとした緊張感に包まれた。
「我が許したのだ。晃太だけ、特別じゃぞ」
「はぁっ! あっ!」
当主は恐怖に駆られたのだろう。顔色を悪くすると、その場にへたり込んでしまった。晃太はその横を、何事もなかったかのように通りすぎた。彼の瞳には、鬼神しか映っていないかのようだ。
「あぁ、それ以上近づくでない」
鬼神は舞うように岩の上に戻った。晃太は供物机の前に座り、御神酒を奉る。
「火之神様のお好きなものを、お持ちいたしました」
「やはり、そなたは気が利くのう。あのちっこいのくらい強ければ、もうちっと近づけるものを」
「未熟者で申し訳ございません。火之神様のためとあれば、この身が滅ぶことも厭いませぬ」
「まぁ、そう言うな。そなたと過ごす時間が無二なのじゃ」
鬼神は岩の上に腰掛け、晃太のことを愛おしそうに眺めている。
「あぁ、そうじゃ。我の力は、これと親しきものにしか貸さぬ」
陽輝様と火宮家当主を順番にみると、冷たく言い放った。
「ですが!!」
「気軽に声をかけるでない!!」
「うぐっ」
鬼神が火宮家当主と話している間も、晃太は微動だにせず、供物机の前で手を合わせている。
「さて、しばらく静かにしておれ。我の邪魔をするでないぞ」
そう言い残すと晃太と話し始めた。
先程までの垂れ込めていた黒い雲はどこにも見当たらず、秋晴れが広がり、心地よい風が吹いていた。
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