第六話 湯浴みは一人で
「この騒々しい大内裏から、帰るなんて言わないよな」
よからぬことを思い付いたのだろうか。にやりと笑った陽輝様は、弾むような足取りで歩を進める。その背中が楽しそうで、嫌な予感がする。
大内裏が結界に守られているお陰で、恐怖を感じるほどではないが、耳を澄ませば火宮の家の方角から地鳴りが聞こえている。
護衛もかねているので、聡司と交代で寝ずの番だろう。
「どうせなら、食事にするか。いや、その前に湯浴みだな。香楓、一緒に入るか?」
・・・・?
一瞬、何を言ったのか、聞き取れなかった。
何か返事をしなければと思うのに、頭が真っ白になる。嫁入り前の娘が、男と二人で風呂など不味いに決まっている。それでなくとも、香楓は性別を偽っているのだ。
「ひゃい?」
声が裏返った。
「ぷっ、くっくっ」
香楓の顔を確認した陽輝様が、吹き出した。そこまで酷い顔をしていただろうかと、頬を触ってみる。
「鬼も祓ったし、
それは、その通りなのだが……。
吹き出しておいて、そのまま話を進めないで欲しい。
とにかく、これは非常に不味い。風呂になど一緒に入ったら、性別がばれてしまうではないか。それも、皇子様、本人に。それだけは避けなければならない。
どうにかして、湯浴みから話を逸らせたい。それか、風呂に入らなくてもいい、言い訳はないだろうか。
必死で頭を巡らせるのに、こんなときに限ってなにも思い付かない。
「陽輝様におかれましては、風呂などという無防備な状態で、護衛以外と二人きりになるのは危険なことかと」
「おや、聡司は、香楓が俺を裏切ると言うのか?」
思わぬところからの助けに感謝していたら、陽輝様が不機嫌な顔で聡司を睨み付けていて、冷気すら漂ってきそうな気配に驚く。
香楓は、絶対の忠誠を誓ったばかりだ。忠誠云々以前に、女である香楓が、素手で陽輝様に敵うわけがないのだが、性別を偽っている手前、そんなことも言えない。
「裏切るわけがない」と伝えたところで、「では、風呂に入ろう」などと言われれは、困るのは香楓である。
詰んだ……。
はくはくと唇を動かすのみで、言葉が出てこない。
「そういうわけではありませんが、周りを心配させるような行動は慎むべきかと」
なぜか聡司が助け船を出してくれた。
「わかっているさ。言ってみただけだろ? 一人ずつ、入ろう」
「私は、一日くらい、風呂に入らなくても大丈夫です」
陽輝様はともかく、私と聡司が個室の湯殿ということはないだろう。共同風呂で裸になるわけにはいかないので、とにかく風呂には入りたくない。
「香楓は鬼に近づいただろ? しっかり清めておいた方がいい。まぁ、心配するな。俺の寝所の湯殿を使えばいい」
なんとか絞り出した断るための言い訳も、陽輝様には通用しなかった。それどころか、聡司が「では」と切り出した。
「私と香楓は一緒に入って、短い時間で済ませてしまいましょう」
ついさっきまでは救いの神だと思っていたのに、今は、鬼のようだ。
いい笑顔を向けられても、風呂には一緒に入れない。
一難去って、また一難。
もう湯浴みの話は、終わって欲しい。
「一人ずつでいい。仮にも護衛だろ。俺を一人にするのか?」
聡司は、はっとして顔を引き締める。
「そうでした」
「では、いくぞ。こっちだ」
香楓が一言もしゃべらないうちに決まってしまった。一人ずつ湯浴みできるようで、ほっと胸を撫で下ろす。
陽輝様に連れられていくと、静かな場所についた。門衛ですら質のいい着物を着ている。もしや、内裏に入ってきてしまったのではないか。
「ここは……?」
「内裏は初めてか?」
『当たり前です』と突っ込みそうになる。皇族とそれに仕える者しか入れない場所に、香楓が入ったことがある訳がない。
聡司も、「うぐ」っと喉をならしてから、咳払いをして誤魔化していた。
「気軽に入れる場所ではございませんので」
「まさか、内裏に入れていただけるとは、思いませんでしたので」
聡司も香楓に続いて、驚きを口にする。
「俺の寝所の湯殿だと言っただろ」
そうは言ったが、誰が内裏に通されると思うだろうか。内裏の湯殿を使うのは陽輝様だけで、香楓たちは、従者の湯殿を借りると思っていたのだ。陽輝様の口振りから個室の湯殿があるのだろうと。湯殿だけ借りたら、官の休憩場所で休むことを想像していたのだ。
しかし、そうなると、皇子様であらせられる陽輝様も、官の休憩場所で休むことになってしまう。内裏の方が落ち着けると言われれば、それもそうなのであって……。
官の休憩場所は内裏の近くなのだから、何かあったとしても、急いで駆けつければ間に合う気がする。内裏に入れていただく必要はなかったのではないか。
内裏にいれていただけることが畏れ多く、思考がまとまっていない。
ふわっと甘い香りが漂ってきて顔を上げれば、金木犀が枝を揺らしていた。橙色の可憐な花を、重そうなほどにたくさんつけている。
「見事だろ? 香楓にわけてやろうか。仕方がないから、聡司にもやるよ」
「金木犀をいただけるのですか?」
聡司は何故そんなに嬉しそうなのだろう。いただいても困ると思うのだが。
「お前は、ついでだ!!」
「香楓が、ついでではないような言い方ですが」
花を送られるなんて、女だと気付かれているのかと思ったが、気付かれているからといって、花を送る理由にはならないわけで……。
もしかして……。
そんなに物欲しそうな顔をしていただろうか。どれほどの顔をしていたのかと思うと、急に恥ずかしくなってくる。頬が赤くなるのを感じた。
「似合うと思っただけで、深い意味はない!!」
聡司が、陽輝様と香楓を不審そうに見比べて、大きく息を吐いた。
「香楓も満更ではないようですし。皇子様の好みを、とやかく言うつもりはありませんが・・・・」
「俺の人を見る目は、確かだと思うがな」
「それは良いことですが」
聡司はもごもごと、まだ何か言いたそうだった。
香楓はといえば、二人の言い争いを止めるには、どうしたらいいのかと考えていた。元はと言えば、香楓が金木犀を欲しそうにしたのがいけないわけで。
「そんなつもりではなかったんです。あまりにも見事でだったの愛でてしまっただけで、決して欲しかったわけではありません」
はっきりと言いきれば、二人が顔を見合わせる。
「香楓には、まだ早かったか?」
「そういう問題か?」
陽輝様は首すじを掻きながら、何かぼそぼそ言っている。
「少しくらい気がついてもいいと思うのだが……。まぁ、いい。先に風呂に入るぞ」
従者を一人連れて、湯殿に向かってしまった。
「それでは、ご案内します」
香楓と聡司のことは、他の従者が案内してくれるようだ。たくさんいた従者と護衛は陽輝様の気持ちを汲んだのか、陽輝様を追っていった者や別の場所に向かう者など、それぞれ動き出していた。
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