第五話 松の木の鬼

 落雷があった方向から、異様な気配が漂ってきた。じとっと湿気を含んだ冷たい風に、鳥肌が立つ。

 視線の先は、仄暗く、どんよりとしている。

 一歩近づくごとに、恐怖心が増していく。近づいてはならない、この場から逃げろと、全身が訴えている。


「わぁ~!! 鬼がでる!!」


 叫び声をあげて逃げてくるのは、門衛か。持ち場を離れるなんてけしからん、などと言っている場合ではなさそうだ。


 門の近くには、どんよりとした黒い靄が漂っていた。陽輝様に松だと言われていなければわからないほど、靄は大きくて濃い。特に松の木の根元はどす黒く、その靄が、周囲に広がるように蠢いている。


 冷たい風が強くなり、どす黒い靄が渦を巻き始めた。


「まずい! 鬼になる!!」


 ごうごうと音を立てて吹き荒れる風と共に、大粒の雨が降り、地面を濡らした。

 雨風が落ち着くと靄は一つにまとまり、人の形になった。手足が、異様に細くて長い。額からは、不格好な二本の角が生えている。


 細長い腕をブラブラさせて、よろよろと歩き出した。

 大内裏の外へ向かっているようだ。


「鎮まり給へ 鎮まり給へ」

 香楓の声に重なり、聡司の落ち着いた声が響いた。


「鎮まり給へ 鎮まり給へ」

 陽輝様の穏やかな声と共に、ほのかな光が鬼へ向かう。


「ギギギギギギギ」

 人ならざる声をあげ、こちらに顔を向ける。


 腕と足の異様な細さも目を引くが、粗末な着物を纏い、腹だけが出っ張っている。


 膝を曲げ腰を屈め、両手で地面を叩き出した。


「ギギ、ギッギ、ギャアア!!」

 耳まで裂けた口を開け勢いよく向かってくるが、数歩進んだところで立ち止まり、細長い手を巻き付けるようにして頭を抱える。


「鎮まり給へ 鎮まり給へ」

 三人の声が揃い、暖かい光が満たした。


「ギ、ギャァアア!!」

 両手で耳を塞いで、頭を振る。


 香楓は、鬼が嘆いているように感じていた。もっと攻撃的な鬼にも出会ったことがある。問答無用で襲いかかってくる鬼や、暴れまわる鬼もいるのだ。


「ギギ、ギギャ!」

 叫び声が、悲痛に聞こえる。


「大丈夫。何とかしてあげる」

 誰にも聞こえないほどの小さな声で呟くと、両手で印を結び、前にでる。


荒振あらぶる神の御魂よ

 天まで焼きつくすような怒りを 鎮め給へ

 海より深く悲しみに沈む御心を 癒し給へ

 ここに、御魂の声、聞く者あり

 鎮まり給へ 癒し給へ」


 術句を紡ぎながら、鬼に近づく。鬼は、「ギギ」と鳴いて首をかしげた。

 香楓は、鬼の目の前で両手を広げる。

「あなたの悲しみを話してください」


「香楓!!」

「あぶない!!」

 香楓を制止する声に、鬼は辛そうに顔を歪めた。

「大丈夫です。あなたの悲しみを分けてください」


「ギギギ、腹ギ、減った」


「腹?」

 聡司の不審そうな声が後ろから聞こえる。


「それは、一大事ですね」

 香楓は慈しみを込めて頷いた。


 五家に連なる三家に生まれた香楓は、食べるのに困ったことなどない。しかし、庶民の中には日々の食べ物に困っている者もいる。

 祓除ふつじょ師として、庶民の気持ちを知ることも修行の一つ。


「腹が減った。ギギャ。おっ母が死んだ。ギ、子も妻も死んだ。なんで、俺だけ死ねないんだ。腹は減って、たまんねぇのに!!」

 鬼の目から涙が溢れる。

「辛かったですね」

 香楓の眼にも光るものが浮かんだ。


 鬼の雰囲気が変わる。鬼は負の感情の寄せ集め。先ほどの男とは違う者の感情に変わったのだろう。

「一口でいいから、ほんの少しでいいから、ご飯を恵んで下さい。それだけで、あの子は今日を生きられるの。私はどうなってもいいから。お願い……。お願い……。あの子を助けて……。あの子だけでいいから……」

 鬼は慟哭し、頭髪をかきむしる。

「辛くて、悔しかったですね」

 香楓の頬に、涙がつたう。


 また、雰囲気が変わった。

「今年は、なんで、米が枯れちまったんだ!! 村中みんな困ってるっていうのに、お館様は、なにもしてくれねぇ」

「なんで助けてくれないんだ!?」

「俺たちは見捨てられたんだ!!」

「所詮、お館様にとって、俺たちなんて、駒でしかなかったんだ!!」

「死んでも構わないってか!?」

 鬼の口から、次々に言葉が飛び出す。

 お館様とは、藩主のことだ。どこの藩主かわからないが、都では米が枯れた話など聞いたことはない。どこの、話だろうか……。


「ひどい……。そんなことって……!?」

 香楓は、驚きが隠せなかった。負の感情が陰の気になり、鬼になることをわかっているはずの藩主が、困っている民衆を見捨てるなんてことがあるだろうか。人道的な理由という以外にも、鬼が出現して困るのは、藩主のはずなのに。


 鬼の話を聞いていたであろう、陽輝様に視線を送る。中央には、そういった話が届いているかもと思ったのだが。


「飢饉の話など、聞いていないが?」


 香楓は、鬼に向き直る。

「何が起こったのか、詳しく教えてください」


「あぁ、優しいお方だ。我らの話を聞いてくださる」

「見捨てられた我らにも、優しくしてくださる」

 鬼の輪郭が、ぼやけてくる。

「あぁ、待って。住んでいる場所を教えて下さい」


「我らは、荒海のそばに住んでいた。我らのことは、もういい。若いもん達を助けてやって欲しい」


 陽輝様が、舞うように印を結び、朗々と呼び掛ける。

「我は、天明陽輝

 この地を守る天の明神様の代理なり

 我が声を、御霊に届け給へ


 その願い、聞き届けた 安心して眠るがよい」


 もう、鬼はいなかった。鬼のいたはずの場所から、声だけが聞こえてくる。

「皇子様に聞いてもらえりゃ、安心だ」

「我らみたいな下々のものにまで、お優しい」

「村に残った者を、頼みました」


 黒い靄は、散り散りになり、天高く上っていった。


「うぅ」

 香楓の眼から、止めどなく涙が溢れる。みっともないと思いながらも、しゃくりあげるのを止められない。


 悲しくて、悲しくて、悔しくてたまらない。助けたい人を助けられず、ただ側にいることしかできない辛さ。これからが大変だというときに、大切なものを残していく辛さ。


 話を聞きながら、鬼の辛さを引き受けたのだ。


 涙を止められない香楓を囲み、陽輝様も聡司も心配そうだ。

「大丈夫か?」

 香楓に頬に陽輝様の両手が包むように添えられて、指で涙をぬぐって下さる。飛び上がりそうになり、すっかり涙は止まってしまった。

「だ、大丈夫です。最後、陽輝様が、祓って下さったので、助かりました」

 こんなに早く涙が止まったのも、陽輝様の御力だろう。陽輝様の手のひらから、温もりが伝わってくる。香楓一人のために、術を使って下さるなんて、本当にお優しい。


 三家と違い、天明様や五家は自分達が祀っている神様の御力をお借りすることができる。

 光代家も、天の明神様の御力をお借りすることはできるが、家で祀っている神様の御力をお借りする五家には、どうしても敵わなかった。

 それだけではない。香楓は、性別を偽っているという迷いが負の感情となり、本来の力を出せていなかった。だからこそ自分のことなど庇っていられなかったのだが、香楓の辛さは陽輝様が拭ってくれた。


「ほとんど、香楓が祓ったようなものだ。ただし、香楓の祓い方は負担が大きすぎる。危険も伴う。あまり無理はするな」

 陽輝様の力強い声が、すーっと香楓の心に染みる。その感覚が心地よく、いつまでもこうしていて欲しいと思ってしまう。

 香楓は静かに頷いた。しかし、心は違っていた。このお方のためになら、自分を犠牲にしてもいい。


「陽輝様、そろそろ香楓から離れませんか? 涙もすっかり止まったようですし」

 聡司の面白くなさそうな声に、陽輝様は慌てたように手を離した。

「あ、あぁ、そうだな」

 陽輝様の暖かい手のひらが離れてしまったことを、なぜだろうか。残念に思い、自分で頬を擦ってみる。

「陽輝様、荒海って、ここら辺ではありませんよね」

「大津藩だな。大きな嵐があって、かなりの数の家が潰れたらしい。藩主が対処したから大丈夫だと聞いていたのだが、違ったようだな」


 まだ、夏のころの話だ。大きな嵐が、国の至るところに爪痕を残した。そういったときには、陰の気が溜まりやすいので、都の祓除ふつじょ師も集められ、被害の大きかったところに向かった。父も召集され、香楓もその惨状を聞き、胸を痛めた。


 しかし、陰の気は、その場に留まるもの。

「でも、何故こんなところで、大津藩の陰の気が?」

 香楓は、松の木に近づく。

「大津藩の荒海で陰の気が出るならまだしも、遠く離れた都で出るなんて……」


 すぐに疑問への答えは見つかった。

「これを見て下さい」

 香楓の指の先には、人の形の木片が落ちていた。真っ黒く変色した木片には、術句が書かれているようだ。


『呪い給へ 怒り給へ 嘆き給へ』


 まだうっすらと残った陰の気が、ゆらゆらと天に上っていっていた。


「酷い……」

 陰の気を木片に閉じ込めて、都まで持ってきたのだろう。


「誰が、何故、こんなことを……」


 香楓が木片を見下ろす場所で立ち尽くしていると、聡司が隣に立つ。

「作為的なものを感じるな」


 すぐ近くでは、陽輝様が従者の一人を呼ぶ。

「大津藩の納税を調べろ。被害の報告と援助の申し入れがあった藩の状況を調べて、大津藩の被害の状況を推測しておいてくれ。それから、祓除ふつじょ師が呼ばれているのか、もし呼ばれたのであれば、誰が赴いたのか。他にも気がついたことは、なんでも報告してくれ」

 その後、武官を呼ぶと、備蓄の米を馬車に積んで大津藩に向かうように指示をしていた。


「あのとき、他の藩も被害を受けた。助けを求める声にはなるべく答えたつもりだ。なぜ、あのときに助けてあげられなかったのかと悔やまれる」

 陽輝様の眼は、大津藩の方向に向けられていた。

「あの嵐は、たくさんの場所に被害をもたらしました。たくさんの場所から悲鳴が上がり、帝と陽輝様は、それにできる限り答えていたことを覚えています」

 聡司が、陽輝様に跪いた。

「それでも、見逃しがあったのだ」

 香楓も聡司の隣に跪いた。

「助けを求めるのは藩主の役目です。陽輝様が責任を感じる必要はございません」

 こんなに優しい陽輝様が、胸を痛めているのが耐えられない。


 あの嵐は、米の収穫を向かえる直前だった。去年の米は食べつくすころだ。もうすぐ収穫できると思っている米が駄目になってしまえば、食べるものに困るのは想像に固くない。

 その場で状況を確認したはずの藩主が、なぜ助けを求めなかったのか。それが不思議でならない。


「二人とも立ってくれ。ありがとう。今からでも助けられる者は助けよう」


「それにしても、大津藩主は祓除ふつじょ師ではないのですか?」

 帝が祓除ふつじょの力を持っているのと同じように、藩主も祓除ふつじょ師の家系が多い。鬼がでないように藩を治めるので、助けられる命を見捨てるということはないはずなのだが……。


「あぁ。違う。最近地方では祓除ふつじょ師が減っているんだ」

 長閑な田園地帯では、鬼とは無縁な生活をしているところも多い。だからといって、藩主が知りませんでしたでは済まされないが。


 聡司がしゃがみこんで、眼に焼き付けるように木札を見ている。

「この札が、どういった目的で作られて、どうしてここに運ばれたのか、というのが問題ですね」


 天に上っていく靄がついになくなると、木片はさらさらと崩れてなくなってしまった。


「少なくとも、ここに運ばれた理由は悪意だろうな」

 陽輝様は、木片のあった場所を睨み付けながら呟く。


 火宮家の事といい、人為的な鬼といい、大内裏を混乱に陥れたいのだろうか。

 大内裏を狙っているのであれば、帝や陽輝様を狙っているも同然。

「私は、陽輝様に絶対の忠誠を誓います」

 心の底から湧いてきた思いが、口から滑り落ちていた。優しくて、民衆思いの、立派な皇子様を、絶対にお守りしなければならない。


「まぁ、ここで沈んでいてもどうにもならないだろう。俺の従者が調べてくれる。香楓は俺に、絶対の忠誠を誓ってくれるらしいからな。この騒々しい大内裏から、帰るなんて言わないよな」


「へ? どういう意味でしょうか?」


 悪戯を思い付いたように口角をあげる陽輝様の視線を追えば、太陽は西に沈みそうになっていた。

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