第53話 係争地

その日、俺たちは聖都を囲む吹雪を越え、南へと進み続けた。


辿り着いたのは、この火薬の匂いが漂う国だった。


王国の南方、帝国、合衆国、連邦といった大国の交差点に位置するこの地は、気候こそ暖かいだが、生き延びるには決して容易ではない。麻薬と人身売買が盛んで、盗賊たちは徒党を組み、それぞれが一勢力を築き上げている。暴力が日常茶飯事で、空気には血腥い匂いと火薬の残り香が常に漂っていた。


ハンスによれば、ここは王国ほど酷くはないものの、政府機能はすでに衰退の一途を辿っているという。本来は立憲君主制国家だったこの地だが、選挙はほとんど形骸化している。汚職と賄賂が蔓延し、司法機関は怠惰そのものだ。


かつては世界的に有名な美酒を生み出していたこの地には、もはやまともな酒造所は残っていない。代わりに、昼夜を問わず麻薬を生産する地下工場が稼働し続けている。この国の外貨収入源は、十年前まで酒だったが、近年では麻薬と奴隷、さらには資金洗浄や詐欺、黒金の流通といった副産業に取って代わられている。


内戦を逃れて流入してきた難民たちは、この地の環境をさらに複雑にしていた。


ほぼ機能を失った国境警備のおかげで、この地は各国の難民にとって避難先となった。しかし、自らを守るため、難民たちは地縁や出身地ごとに集まり、徒党を組み、やがてはそれぞれが一つの勢力となっていった。当然、犯罪行為も組織化され、より強固になっている。


この状況を立て直そうとする者がいないわけではない。しかし、少数の良識ある人々の力では、この広がり続ける混乱を止めることは難しい。


何しろ、この国の各勢力の中には、俺が見慣れすぎて吐き気を催すほど嫌悪している『黒幕』の影が、はっきりと見えるのだから。


俺は、押収した貨物の中から一本の注射剤を取り出した。


それは包装が施され、細長いな形をしたペンインジェクターで、割れにくいプラスチック製だ。キャップを回して外すと、針が付属しているのが見える。随時の使用や運搬を念頭に置いて設計された大量生産品であることは明らかだった。


掌の上のペンインジェクターから、ほんのりと漂う馴染み深い匂い――聖胎の香りだ。


全く、救いようがない。


ため息をつきながら、俺は注射剤を押収品の山へと投げ戻した。


その時、哀号が聞こえてきた。


「もうやめてくれ!何でも話す!薬も奴隷も全部渡す!頼む!」


男は椅子に固定されていた。


後ろにいる者に髪を掴まれ、首を強制的に後ろへ反らされる形で、顔を天井へ向けさせられている。その顔はかつて暴力に慣れた者のものだったが、今では恐怖と苦痛で歪みきっていた。


男の指や手首には装置が取り付けられ、動くたびに接続されたケーブルが揺れている。


「ひっ。」


小さな悲鳴が聞こえた。その声の方へ視線を向けると、地面にうずくまり、互いに身を寄せ合って震えている幼い少年少女たちの姿があった。俺が彼らを見つめると、その視線に気づいた子どもたちはすぐに頭を垂れて目を逸らし、さらに強く抱き合う。その腕は痩せ細り、服も満足に身に付けていない。体には何度も繰り返された暴力の跡が生々しく残り、首には金属製の首輪が嵌められていた。


奴隷。


この子たちは、貧民街から攫われ、遠くへ売り飛ばされる予定の孤児たちだ。


俺は震えるガキどもを眺めながら、その中で一番幼く、か弱そうな子どもに目を留めた。それは一人の少女だった。


雪のように白い髪に、赤い瞳。その体には、他の子どもたちほど殴られた跡が少なく、顔にも傷は見当たらない。


なるほど、まだ幼いが、この子は将来美しく成長する可能性があると見込まれたのだろう。捕まえた連中も、高値で売るつもりだったに違いない。


俺の視線に気づいた白い少女は、不安そうに身じろぎを始めた。そして、数秒も経たないうちに、突然、俺の前に立ち塞がる者が現れた。


孤児たちの中で最年長と思われる少女だった。


黒い髪と黒い瞳を持つ。端正な顔立ちで、どことなく前世で見慣れた東洋人の面影を感じさせる。彼女は両腕を広げ、白い少女を庇うように俺の前に立った。鋭い眼差しで俺を睨みつけ、その瞳には濁りのない清らかな意志が宿っている。


ああ――


白と黒の対照的な少女たちを見て、俺は思わず過去を思い出してしまった。研究所で、あいつナユタ恩人ヘクトリと共に過ごした日々を。


「……フン。」


俺は一本のタバコに火をつけ、視線を逸らして再び男の方へ目を向けた。男は椅子から逃れようと必死にもがいている。しかし、背後から伸びた手がその頭を押さえつけた。続いて、影の中から一人の人物が現れ、湿ったタオルと水筒を手に男へ近づいていく。


「やめろ!やめてくれ!頼む、これ以上は何も話せない!お願いだ!」


男は全力で抵抗したが、タオルは容赦なく彼の顔に覆い被さった。


そして、水が途切れることなくタオルの上から注がれていく。


「――」


男の体は痙攣を始めた。俺はただ、その光景を静かに見つめていた。その傍らで、子どもたちから恐怖の匂いが漂ってくるのが感じられる。


数秒後、男の顔からタオルが取り除かれた。さっきまで激しく痙攣していた男は今、全身が力なく垂れ下がり、紫色になった顔で大きく息を吸い込んでいる。


「――『荷物』とは、なんだ?」


タオルを取り除いた人物が男に問いかけた。ハンスだ。


「は……はぁ……し、知らない!もう全部話した!頼む、信じてくれ、本当だ!」


「だ、そうだ。どうだ?姐さん。」


ハンスは視線を後ろへ向けた。そこには、装置から延びるケーブルが繋がっている先に、一人の少女が座っていた。俺と似た面差しを持つ少女だ。短く切り揃えられた銀髪に、白い肌。首元には青いリボンが結ばれている。


俺の姉妹の一人、シーだ。


ハンスの問いに対し、シーは淡々とした声で答えた。


「否定。嘘。」


シーの言葉を聞いた瞬間、男は再び激しく身を捩り始めた。しかし、ハンスがそばにいた者に目配せをすると、男は再び押さえつけられた。


「悪いな。本当のことを話すまで終わらない。」


「あ、ああ……あああああ……」


水が流れる音に混じって、男の方から微かなアンモニアの臭いが漂ってきた。


男の目が俺を捉える。そこには、絶望しか映っていなかった。


「た、すけ……」


パァン。


言葉を最後まで言い切る前に、男の胸が爆発した。


「ちっ。またこうなったかよ。」


顔に飛び散った血を拭いながら、ハンスが苛立たしげに吐き捨てる。


「仕込まれた生体爆弾の起動を確認。対象、沈黙。これ以上の情報収集は不可能。」


「そんなの、見りゃ分かるだろ、姐さん。時間の無駄だな。」


俺はシーに目を向けた。シーは静かに首を振り、頭に接続された装置を抜き取った。


「以前のサンプルと同様、心臓のペースメーカーと融合しており、神経が脊髄を通じて脳と接続されている。現状のツールでは遮断も切離も不可能。」


「そうか。」


「ボス。それで、このガキどもはどうする?」


「いつも通り、メムとチェリルに任せる。これからどうなるかは、奴らの運次第だ。あとの調査はお前たちに任せるぞ。」


「へい、わかりやした」


「……バイオス。」


「ん?」


俺は一歩足を踏み出し、扉の外へと向かったと、シーが突然後ろから俺を抱きしめた。


「全部を一人で抱え込む必要なんてない。何があっても、私たちはあなたの味方。」


彼女の体温を感じながら、俺は深く息を吸い込む。


「……ああ。分かってる。急にどうした?」


「別に。ただ最近のバイオス、なんだか急に遠くへ行っちゃいそうな気がする……気を抜いたら、いなくなっちゃうんじゃないかって。」


シーの俺を抱きしめる腕に、さらに力が込められた。


「私たちのことを気にしないで、もっと頼っていい。バイオスは自分で思っているほど強くないし、私たちもあなたが思っているほど弱くない。悩みだろうと、罪だろうと、その結果だろうと、全部私たちで一緒に背負う。絶対にあなたを一人にはしないから。」


シーの体は柔らかく、その体温は安心感を与えてくれる。おかげで、心の中の陰りが少し和らぎ、決意がさらに強くなった気がした。


「……そうか。ありがとう。」


思考を整理しながら、俺はタバコを一口吸い込んだ。


「俺は、大丈夫だ。」


「……そう。」


「ああ。」


微笑を浮かべるシーの肩を軽く叩き、俺は再び扉の方へと歩き出した。


「お前たちを酷使することになるだろうな。覚悟しておけ。これから忙しくなるぞ。」


「ん。それがいい」


「俺は他の連中の様子を見てくる。この場所は任せた。何か分かったら報告してくれ。」


「任せて。雑事はハンスがきっちり片付けてくれる」


「ちょっとさ、平然と雑事を全部俺に押し付けるのやめてくれないか?姐さん。」


笑みがこぼれた。自分の背中を何かに支えられているを感じながら、俺は迷うことなく扉の外の闇へと足を踏み入れた。




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