第五章 影踏み

第52話 プロローグ 戦争開幕

夜。


場所は貸し切りの、隠れた小さな酒場。清潔感には欠け、少しカビ臭さも漂うが、不法者たちが集まる場としては悪くない。


交渉のテーブルに座り、俺は脚を組んだ。対面の交渉相手は薄暗い明かりの下で目を細め、じっと俺を睨んでいる。そいつは大柄な男だった。剃り上げた頭、鍛え上げられた巨体、そして露出した両腕にはコウモリのタトゥーが刻まれていた。


「——まさか俺たちの稼ぎを邪魔してるトリニティファミリーの頭が、こんな青臭いメスガキだったとはな。」


交渉相手が侮蔑するように唾を吐いた。


俺の右に立っている部下の方から、妙な音が聞こえた。俺は頭を動かさずに、ただ横目で彼女を見やる。全身をマントで覆った彼女の姿が目に入った。マントの下では、革製の手袋をはめた拳が固く握られている。その動きで、擦れた革の音が微かに聞こえた。


「ドゥランド・アンゴリカ。」


俺の左に立つ部下が口を開いた。荒っぽく、酒とタバコに燻されたようなその声が響く。無精髭を残し、タバコを咥えた彼は人差し指でテーブルを軽く叩いた。


「今、俺たちはお前らの物資の半分を握ってる。俺たちを侮れば、交渉が有利になることはないぞ。薬にせよ、奴隷にせよ、全部俺たちの手元にあるんだ。ここで商談を壊して帰ったら、お前たちの本家の親分に何て報告するつもりだ?」


「はっ、商談だと?青臭いガキどもが俺と取引をするつもりかよ?お前たちが生まれる前から、俺はこの土地でのし上がってきたんだ。急成長した組織とやらだから、一応会ってやろうと思ったが……まさか、仕切ってるのが女だとはな。骨のない組織に、俺たちと商売する資格はねぇ。大人しく足を開けよ、女。もしサービスが良ければ、小銭こぜにくらい恵んでやるぜ。」


目の前の大男が鼻で笑い、彼の背後に控える屈強な男たちもそれに合わせて哄笑した。俺の右にいる部下の拳のこすれる音は次第に大きくなり、マントの下からは微かに金属機構の擦れる音が聞こえてくる。


左の部下は眉間にしわを寄せた。


「冗談はもう十分だろ。そろそろ、本題に……」


「冗談だと?」


カチャッ。ドゥランドと呼ばれた大男が懐から拳銃を取り出し、俺の眉間に向けて突きつけた。同時に、彼の背後に控える男たちも次々に武器を構え、銃を装填する音が響く。


こちらに向けられた数多くの銃口を前に、交渉を試みていた俺の部下が深くため息をついた。彼は両手を挙げ、手のひらを揺らしながら相手に武器を下ろすよう説得を試みる。


「おいおい。武器を下ろすことを勧めるよ。暴力と憎悪からは何の利益も生まれないんだからさ。」


「黙れ!俺たちを馬鹿にしやがって。取引だと?ああぁ?あれは俺たちの物で、俺たちの金だ。ただで済むと思うなよ!お前らをズタズタに引き裂いて犬の餌にしてやる!」


「ぷっ。」


それを聞いて、俺は思わず笑い声を漏らしてしまった。あまりにも典型的なザコのセリフだったからだ。目の前で銃を構える大男が俺を睨みつける。額には青筋が浮かび、ツルツルの頭が茹でダコのように真っ赤になる。


だが、俺は気にも留めず、左の部下に声をかけた。


「ほらな、ハンス。こうなるって俺が言っただろ。」


「あ~やっぱりか。」


俺がハンスと呼んだ男は、頭を掻きながら肩をすくめた。


「ただ、もしかしたら話し合いで解決して、血を流さずに済む可能性があるかもって思っただけさ。暴力って生産性がないだろ?」


銃を構えている男を見つめながら、ハンスの表情にはどこか憐れむような色が浮かぶ。


「まあ、一応忠告はしておいたぜ。これから起こることに関しては、俺を恨むなよ?」


「ああ!?てめぇ、何を言ってやが──」


バン。


男の言葉が最後まで紡がれる前に、銃声が響いた。信じられないといった表情で、大男は自分の額に手を当てる。中央には黒い穴が開き、そこから鮮血が止めどなく流れ出していた。目を見開いたまま白目をむき、大男は後ろに倒れ込み、椅子ごと崩れ落ちた。


俺は右を振り向いた。


「……チェリル。そいつ、俺たちに有用な情報を持ってたかもしれないぞ。」


「申し訳ありません、ボス。でも、あの男はあなたの命を脅かしていました。」


彼女がマントを脱ぎ捨てると、三つ編みにまとめられた長い髪が露わになった。彼女は修道服をまとい、宗教的な意匠が施された金の刺繍が、薄暗い灯りの中で鈍く光っていた。


彼女は銃を構えたままの姿勢を崩さず、その銃口からはまだ白い煙が立ち上っている。


「考えすぎだ。俺は言っただろ?たかが弾丸じゃ、俺には傷一つ付けられないって。」


「それでも、主を手を煩わせるような護衛はいませんよ。」


「てめぇら、よくも!」


向かい側のザコどもは混乱し、不安を覚え、次に激しい怒りに燃えた。その中の一人が銃を構え、発砲しようとしたが、次の瞬間、その頭は鮮やかに散った。


いつの間にか、「チェリル」と呼ばれる戦闘シスターの手には、もう一丁の拳銃が握られている。


「なっ!」


目の前の連中は、明らかにチェリルの抜き打ちの速さを捉えられなかったようだ。蛇に睨まれたカエルのように、奴らは息を飲み、動きを止めて硬直していた。


「はぁ。」


混乱するザコどもを無視して、俺はゆっくりと立ち上がった。懐からいつもの銀色のシガレットケースを取り出し、中から一本のタバコを取り出して口に咥える。隣のハンスがすかさず指を鳴らして火を灯してくれた。


深く一息吸い込み、煙を宙に吐き出しながら、俺は振り返ることなく、扉の方へと歩き出す。


「チェリル。」


「お任せください。」


「ハンス。」


「了解。」


俺がハンスと共に酒場を出た瞬間、再び銃声が響いた。悲鳴や命乞いが酒場の中から漏れ聞こえる。しかし、俺はそれらに耳を貸すことなく、煙を吸い込み吐き出しながら前へと歩き続けた。


「また一つ潰したな。」


「ああ。これで『黒蛇』もう黙ってはいないだろうな。いよいよ、本格的な戦争の始まりだ。麻薬取引と人身売買という二大資金源が半分以上吹き飛び、金庫は空っぽ、幹部も何人か仕留めた。これでまだ動かないようなら、彼らは脅威に値しない連中だ。」


ハンスは頷き、俺の言葉に同意した。


「ここまでは計画通りだな。ここまで、だな。さて、奴らはどう動くか?」


「……ボスが言っているのは、あの二つの組織のことか?」


「そうだ。話は後だ。相手が来たようだ。」


俺とハンスは同時に足を止めた。影から、一人の男と一人の女が現れる。男は引き締まった体格で、両手をポケットに突っ込み、その鷹のように鋭い目でこちらを睨んでいた。女はボブカットで、手にはアサルトライフルを持っている。二人ともトレンチコートを身にまとい、油断なくこちらを見据えていた。


腰には、金色の猟犬が描かれた輝くバッジが付けられている。


そう。彼らはこの国の司法関係者だ。


「よう、ジェティス。なんて美しい夜だな。」


「……バイオス・トリニティ。」


男は俺の名前をかみしめるように呟いた。


「なぜ、空気に血と火薬の匂いが漂っている?」


「大したことじゃない。たまたまちょっとした事故を起こしただけさ。」


俺は手を伸ばし、ジェティスの肩に軽く触れた。


「うちのチェリルが偶然その場に出くわしたんだ。どうやら、その『事故』に巻き込まれた連中、麻薬や少年少女の売買を営んでいたみたいだ。おまけに、その名前がな――お前が俺に情報を聞いた連中と、まったく同じ名前だった。」


若い検察官の肩を軽く叩きながら、俺は彼の耳元で囁いた。


「ちょうどいいことに――若くして有能な検察官殿が『偶然』その事故現場を通りかかったんだ。この世の中、実に偶然が多いものだな。」


「……っ」


ジェティスが歯を食いしばる音が聞こえた。


「素晴らしいじゃないか。この偶然のおかげで、国民を脅かす連中がまた一人減った。そして検察官殿も功績を手に入れた。めでたしめでたし。」


「バイオス・トリニティ。」


若き検察官は俺を睨みつけた。


「ずっと逃れられると思うな。暴力に暴力で応じる私刑は間違いだ。いつか必ず、俺が法の裁きを受けさせてやる。この国でお前たちの好き勝手にはさせない。」


「ははっ。試してみろ。その時は、本気でお前の相手をしてやる。」


背後から検察官の視線を感じながら、俺は大股で歩き出し、タバコの吸い殻を闇の中に弾いた。そして、呟いた。


「見せてもらおうか――次の一手をな、黒幕どもめ。」


賽は、投げられた。

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