第四章 混沌の坩堝

第44話 プロローグ 嵐の前夜

「どういうこと?」


少女教皇ガーネットの声は平静を装っていたが、その場にいる誰もが、彼女の内に秘めた怒りを感じ取れるはずだ。


漂う血の匂い。


俺は眉をひそめ、ついその匂いの発生源に視線を向けてしまった。


二本の槍が左右からその胸を貫き、かつて「人」と呼ばれていたものを宙に浮かせるように壁に突き刺していた。おそらく、彼がそこに釘付けにされてからすでにかなりの時間が経過しているのだろう。暗赤色の液体が流れ出し、白い壁に不吉な紋様を描き出していた。彼は黒い制服を身にまとい、胸には銀色の翼を広げた鳥の徽章が付けられていた。


「おやおや、会談を目前にして、凶鳥オミナス審判官しんぱんかんがこんなところに釘付けにされるなんて、まったく不幸なことですねぇ。」


声を発したのは、細い目をした男だった。白衣をまとい、眼鏡をかけたその姿は、まさに研究者といった風貌だ。男は嫌味な笑みを浮かべながら、優雅に肩をすくめる。その声色には、明らかな嘲りが滲んでいた。


「天下無敵のオミナスも、ついに落ちぶれましたか。殺されて奇妙なアーティファクトにされるとはねぇ。しかし、これをやった者は相当な腕前でしょう。同じくらいの力を持つ者か、それ以上の力を持つ者でなければ、このようなことはできません。たとえば……もう一人のオミナスとかね。」


「何を言いたいんだ?曙の明星ルシファーの首席研究員、スマイル。」


男の言葉に答えたのは、ファスティオラだった。感情を読ませない瞳で、目の前の宿敵をじっと見つめている。


「別に大したことではありませんよ。ただの簡単な動機の推理です。この場で最もオミナス審判官の死で得をするのは誰かと考えれば、オミナスの内部に目を向けるのが自然だと思います。審判官というのは、そもそもオミナスの内部の自浄組織ですよねぇ?その対象になるのはオミナスのメンバーのみですから……まあ、そのあたりはわざわざ私が説明するまでもないでしょうけど。現在、内部調査を受けている、偉大なる戦団長、ファスティオラ殿?」


「そうか?私はむしろ、ルシファーの研究狂が手を下したと思ってるがな。」


「疑われるのは当然でしょうね。君たちのように知性の欠片もなく、火をつけては略奪ばかりしている筋肉だけの原始人たちが一人でも減れば、私としてもありがたいことですから……ああ、誤解しないでください。別に君個人を指しているわけではなく、オミナス全体に向けて言っているだけです、ファスティオラ戦団長殿。残念ながら私には手を下す理由がありません。審判官が調査を進めている間、オミナス同士で潰し合ってくれれば、私は何もせずとも戦団長を一人引きずり下ろせたかもしれないのですからねぇ。正直なところ、今あの審判官が死んでしまったのは、私にとっても困った話です。」


男は薄く笑みを浮かべながら、目を細めてファスティオラを見つめた。


「これでまた研究の時間を無駄にして、どうやって君を殺すか考えなくてはなりませんね。」


「よくも言ったな、クズ野郎。試してみろ。君の汚らわしい玩具やくだらない策略なんざ、全部ぶち壊してやるさ。」


「やめなさい!」


ガーネットの一喝が場を静めた。


「この件については教会が責任を持って調査する。明朝の会談は予定通り。オミナスは欠席する者が一名出たので、代理を立てなさい。双方、ここが誰の領域か、忘れないように。」


「はいはい、もちろん仰せの通りに、猊下げいか。」


「……ふん。行くぞ、バイオス。」


研究員スマイルは誇張した礼をすると、俺はファスティオラの後に続いた。ドアを出ようとしたその瞬間、突然背筋に冷たいものが走り、俺は思わず振り返った。すると、スマイルの顔から笑みは消え、まるで長年待ち望んだ物を見るかのようなキモイ視線が俺に突き刺さっていた。その目は、何かを計算しながら舐め回すように俺を見つめ、嫌悪感で吐き気を催すほどだった。


俺は歯を食いしばり、怒りと不安を押し殺して視線を逸らす。


ファスティオラの大きな背中を追いながら、俺はまるでその研究員から逃れるように足を動かした。


「君はどう思う?」


夜の教会の廊下を歩いている最中、突然ファスティオラが問いかけてきた。


「……現場にはほとんど魔力の痕跡はなかった。それに、聖胎せいたい特有の残り香も感じられなかった。今のところ、曙の明星ルシファーの仕業だという証拠は見当たらない。」


「そうか。」


ファスティオラは少しの間、沈黙した。


「明日の会談、君も出席しろ。」


「俺が?」


「ああ。審判官の空いた席には君が座れ。会場では黙ってルシファーの連中をよく観察し、怪しい動きがないか見極めろ。」


「それでいいのか?俺の身分は少し特殊だぞ。」


「問題ない。前回の任務で君も教皇と顔を合わせたし、任務も成功したからな。教皇の印象も悪くないだろう。君はよくやった。一応褒めておいてやる。」


ファスティオラは一瞬間を置いてから続けた。


「今回の会談の目的は単純だ。我々オミナスは教皇に浄火の火種を提供させ、ルシファーの戦闘員、『星斬り』を引き渡させることだ。ルシファーの目的は、教皇が我々に火種を提供し続けることを阻止し、その上で戦闘員を取り戻すための交渉だろう。だが、あいつらが何を仕掛けてくるかはわからん。君は私とマルクスと共に会場内で研究員を監視しろ。そして君の二人の姉妹には会場外で随行員を見張らせる。怪しい動きがあれば、すぐに私に報告しろ。アスガードは明日、外で待機して支援に回る予定だ。情報は同時に彼にも伝えろ。」


「わかった。明日はシーとメムを配置しておく。」


「うむ。ではそれでいい。今夜はしっかり休め、バイオス。」


ファスティオラのを見送りながら、俺はポケットからナユタから受け取った遺品――銀のタバコケースを取り出した。輝く外装を数秒見つめ、ふとタバコを一本取り出して指先で弾き、火を点けた。頭の中で思考が高速で回転し始めた。


交渉。中立の教会で突然殺害されたオミナスのメンバー。各勢力の思惑。火種。そして、囚わられたイヴリス。


不穏な予感が胸の内をざわつかせるのを感じながら、俺は煙を深く吸い込み、心を落ち着かせようとした。


どうやら、厄介なことになりそうだな。



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