第40話 逆流

>>サヨ:曙の明星ルシファーバイオコンピュータを無事に検知、トリニティシステムのメイン演算モジュールを確認。これより作戦プログラムを開始。


>>ミギハ:作戦開始。戦術検索……完了。六花の演算シナリオQ3に該当、戦闘ルールに従い、交戦を開始します。


>>サヨ:遠隔デバイスの状況は安定、内部温度は正常値内にある。


>>ミギハ:各端末の接続信号は良好、いつでも信号を発射可能。


>>サヨ:六花の防御メカニズムの構築が完了、待機。


>>サヨ&ミギハ:シナリオQ3の全ての前提条件が満たされた。


>>サヨ&ミギハ:攻撃演算を開始する。


>>俺:まずい!




双子が俺に攻撃を仕掛けようとしていることに気づいた瞬間、俺は意識を黒泥から引き戻そうと試みた。しかし、一歩遅かった。波のように押し寄せ、脳を引っ掻き、頭蓋骨を突き抜けて脳を舐めるかのようなめまいと吐き気が俺を襲った。まるで脳がえぐり出され、灼熱の腐食性のある湯に投げ込まれたように、俺の意識は焼け焦げ、思考は覆い尽くされる。


それは、久しぶりの「罰」だった。




>>ミギハ:ログアウトの試行を検知、戦闘規則に従いネガティブフィードバック信号を投入。


>>サヨ:ネガティブフィードバックメカニズムの健在を確認。ログアウトプロセス、中断。


>>ミギハ:接続、健在。


>>サヨ:トレーニングセット、オンライン。


>>サヨ & ミギハ:インプリントプロセスを開始します。




俺の行動をほぼ完全に止めていた「罰」が、突然途絶えた。口の中に突然甘い味が広がり、耳元には柔らかな歌声が聞こえ、脳内には誰かが優しく撫でる感覚が広がっていく。今や俺の全身は、まるで電流が流れるような快感に浸っていた。もし先ほどが地獄の釜に放り込まれたような感覚だったとすれば、今はそこから救い出され、天国の寝床に投げ込まれたような感覚だ。


その言い知れぬ歓喜と共に、黒泥の中に大量のルーン信号が流れ込んできた。音、映像、触覚、嗅覚。信号で構築された少女の姿が、ゆっくりと俺に抱きついてくる。幻想の少女は、耳元で優しく囁いた。頬には少女の柔らかな髪が触れ、甘美で、まるで母親が子供に語りかけるかのような低い声が俺の意識を貫いた。


「戻っておいで、我が子よ。」


その声がそう告げる。


だが、次の瞬間。


母親の声は消え、再び痛みの波が俺を襲ってきた。




>>俺:ぐっ……うああああああああ!




俺は「過去」を思い出した。


お母さん。温かな抱擁。笑顔。子守唄。窓から差し込む陽光。生まれ持った使命。お母さんが喜ぶ。お母さんの喜びが俺の喜び。壮大な夢。理想。平和な世界。美しさ。俺の手を握るお母さんの手。甘やかされて。あなたは唯一無二。あなたが最も大切。あなたは私の誇り。忘れてしまえ。間違った記憶。道を誤った。帰ろう。より美しい未来へ。


違う。




>>俺:ふざ、けるなっ!




俺には、今生に母親などいない。


ましてや、こんな虚偽の記憶があるはずがない。


こんなもので、俺とシー、そしてメムとの絆や、俺たちが自由に抱く憧れを奪おうなんて、冗談じゃない。


天国と地獄の無限のループに投げ込まれ、俺の意識は声にならない悲鳴を上げていた。しかし、押し寄せる情報の濁流の中で、俺は必死に足を踏みとどめた。頭の中に侵入してくる映像や信号を必死に追い出し、脳のすべての演算能力を動員して、存在しない記憶を洗い流そうとした。


俺は、ここにいる。


俺は、お前たちの操り人形じゃない。なるつもりも、ない。




>>ミギハ:……驚きました。抵抗が非常に強く、焼き直しの進捗が予想の1%にも達しておりません。


>>サヨ:……驚きですね。インプリントプログラムが作動しているのに、意識的に情報を排除できるとは思いませんでした。


>>サヨ&ミギハ:さすがはプロトタイプ。さすがお姉さま。歴代最高のモジュール、特異点。


>>サヨ:何としても取り戻さねばなりません。


>>ミギハ:バイオコンピュータのさらなる可能性が、ここにあります。


>>サヨ:作戦は予定通りに進行しておりません。『六花』に戦術の再演算を申請いたします。


>>ミギハ:六花の記録には、バイオコンピュータがインプリントプログラムに抵抗した例はありません。


>>サヨ&ミギハ:強度を上げ、循環回数を増やします。


>>俺:……俺を甘く見るなよ。この攻撃は、お前たちだけの専売特許じゃないんだ!


>>サヨ&ミギハ:……っ!




情報の濁流の中でなんとか踏ん張り、俺は心を再び武装した。偽りの感情、記憶、そして苦痛が俺を包み込もうとするが、俺はそれらに屈せず、自分を激流の中の大岩だと想像した。どんなに信号が流れ込んでも、俺はその場に留まり、動じない。信号の強度が倍増し、脳が熱を帯びていくのを感じつつも、俺は自分の意識を沈静化させることに成功した。


俺は送り込まれたネガティブフィードバック信号を捉え、全速でその内容を改変した。その後、精神の触手を使って、その改変された信号を容赦なく、双子と六花に向かって投げ返した。


来いよ、根比べだっ。


どっちの回路が先に焼き切れるか、あるいは俺が先に力尽きるか。


悪いな。今回は手加減しないからな。




>>サヨ:警告。攻性演算が確認されました。


>>ミギハ:どうやって、インプリントされている状態でそんなことが可能なんですか?


>>サヨ:理解範囲を超えています。六花に再演算を申請……接続タイムアウト、応答がありません。


>>ミギハ:六花の防壁が作動中です。倫理モジュールが稼働しています……六花は保護メカニズムを起動し、すべての接続チャンネルを閉じました。


>>サヨ:警告。確認された倫理規範違反の攻性データが大量に流入しています。倫理処理プログラムを開始します。


>>ミギハ:警告。現在の状況では、倫理処理プログラムの実行を延期することを推奨。


>>サヨ:警告。倫理処理プログラムは最優先事項。


>>サヨ&ミギハ:……ザーッ、ザーッ、倫理……弁証……開始……ザーッ……




パチンッ。


双子からの信号が徐々に不鮮明になり始めた瞬間、鋭い断裂音が響いた。逆流する魔力が俺に向かって押し寄せ、俺は黒泥の中から弾き出された。


「……っ」


意識が現実に戻り、俺の体は汗でびっしょりだった。鼻から何かが流れ落ちてくる感覚がし、手を伸ばして触ってみる。指先にべったりとついたのは、真っ赤な血だった。視界の端に置いていたペンダントが、机の上で真っ二つに割れているのが見え、そこから焦げた生物のような異様な匂いが漂っていた。


これまでにない疲労感に襲われ、俺は懐からタバコを取り出して火を点けた。


そして、目を閉じた。

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