第30話 拮抗
ドン。
まるで石を池に投げ入れたかのように、黒い泥が波打ちはじめた。
そして、光で構成された波紋が広がる。音叉を水に落としたかのように、波紋は繰り返し震え、増幅していく。黒泥の中に充満するルーン信号も、一瞬消えかけた。
ドン。
再び揺れが襲う。
大量の信号が押し寄せ、まるで洪水のように一気に流れ込んできた。久々に感じるめまいの感覚。ルーンの脈動が意識を突き抜け、自分の魂と共鳴しているのを感じた。
ドン!
今度は遠くからの地鳴りではなく、すぐそばで巨大な何かが床を叩き、轟音を響かせたかのようだ。その衝撃は、単なる意識の脈動にとどまらず、現実の肉体までも揺るがし、黒泥の海から俺の意識を引き剥がさんとするほどの強烈な震動だった。
>>リリア:くっ!至近弾!みんな、大丈夫?報告を!
>>シー:こちらトリニティ02、シー。異常なし。
>>メム:こちらトリニティ03、メム!こっちも問題ないよ!回線は無事!
>>リリア:トリニティ01、バイオス!
>>俺:異常なし。一時的に通信が遮断されただけ。砲撃は座標F16から。識別マークは赤。
>>リリア:許可する!脅威を排除せよ!
>>俺:了解。迎撃開始。
リリアの許可が下った瞬間、俺は迴路を一気に開放した。まず、メムから周囲の全ての敵の位置データを引き出し、次にシーへ砲撃の予測指示を送る。そして、敵の多脚戦車群が弾薬を装填し、発砲する寸前、まるで指揮者ように、虚空に向かって意識の触手を振り下ろした。
ガッ!
ドン!ドン!ドン!ドン!
遠くから戦車の砲塔が強引に方向を変える音が響き、それに続いて次々と砲撃が始まる。本来なら指揮本部を狙っていた戦車は、俺の操作で互いに照準を合わせた。そして轟音と共に、ルーン信号による断末魔が外の揺れに合わせて響き渡った。
>>俺:敵、沈黙。
>>シー:警告。敵多脚戦車小隊、10秒後にZ05地点で
>>メム:警告!敵C13陣地からの砲撃、効力射!攻撃目標は我々の陣地K19!
>>リリア:各員、自由に脅威を排除せよ!
>>俺:了解。メム、攻撃演算開始。目標は敵多脚戦車小隊。シー、制空権を奪取せよ。
>>メム:演算準備、完了!
>>シー:無人攻撃機、多連装ロケット型MK-02、二機を奪取。待機。
>>メム:敵の砲弾、頂点に到達!
>>俺:攻撃演算、開始。
>>メム:攻撃演算、開始!
メムが大量のルーン信号を放つと同時に、俺は意識の触手を操り、ルシファーの無人攻撃機を最大速度で砲弾の軌道上に遠隔操作した。無人機のカメラは、一瞬の火花と共に途切れ、信号が途絶えた。
>>メム:敵性小隊、撃破!最終防衛圏に突入!交戦開始!
>>リリア:ついに来たわね。思ってた以上に抵抗が激しいわ。これだけのルシファーの支援兵器が集まるなんて、私たちや情報部隊が何かを見落としていたのかしら?
>>シー:否定。推測、レディオ・サイレンスの可能性。
>>リリア:そうね、それはあり得るわ。つまり、相手は私たちの動きを察知して、特別な方法で装備を大公領に持ち込んだってことね……いずれにせよ、これで強制捜査どころか戦争になってしまったわ。今となっては、罪証は揃っているし、大公と話し合う余地なんてもうないでしょう。副長は命令に従って本部を壊滅させ、大公を捕らえるしかないわ。生け捕りにできるかどうかは運次第ね。
>>俺:……
>>リリア:……バイオス。
>>俺:分かってる。
俺の脳裏にイヴリスの面影が何度も浮かび上がる。今、彼女はどこにいるのだろうか。事前に情報を得て、逃げ延びたのだろうか。心の中で、少女の無事を祈らずにはいられなかった。
>>リリア:とにかく、みんなよくやっているわ。このまま行けば……ザー、ザザッ、公邸を制圧するのも……ザザー……時間の問題……あれ、なんかノイズが。
>>俺:……?
>>リリア:えっ!何これ!?きゃあああああぁ!!!
>>俺:……リリア!
>>メム:リリアのファイアウォールが突破された!大量の攻性データが流れ込んでる!このままじゃ!
>>俺:リリアとポッドの接続を切れ!ログアウトさせろ!
>>メム:やってるけど……ダメ!反応しない!リリアの意識がまだ中にある!物理的に切断したら、逆流が彼女の神経を焼き尽くすわ!
>>シー:警告!サーヴァント部隊、大破!高魔力反応!パターン、エンジェル!防衛部隊、対処不能!
>>メム:攻性データがまだこちらの障壁を侵食している!すでに無力化したはずの
>>シー:バイオス!敵戦闘員が接近中!接触まで残り10秒!
>>メム:っ!敵性信号の識別が完了。
>>バイオス:俺が迎撃に行く!二人ともは引き続き戦場を制御し、リリアを何とか引き戻せ!
シーやメムが返答する前に、俺はすばやく黒い泥の中から目を覚ました。ポッドを出ると、後ろから何か光るものが地面に激突した。舞い上がる煙と砂塵に、俺は思わず目を覆う。
月光の下、まず目に入ったのは、なびく茶色の長髪。煙が徐々に晴れていくと、そこに現れたのは一人の少女だった。彼女は白い軍服に身を包み、胸には勲章とリボンが掛けられ、右手には光り輝くレイピアを握っていた。少女の首には、無機質で緑色の光を放つ黒い装置が装着されており、左肩からは純白の片翼が魔力の輝きとともに伸びていた。
鳶色の瞳で俺を見つめる少女は、ほんの少し目を見開いた。
「……紳士さん?」
「イヴリス。」
久しぶりに感じる、ルシファーの戦闘員特有の圧迫感を全身で受けながら、俺は油断なくイヴリスを見据えつつ、静かにガントレットを装着し、構えを取った。
「その銀髪に、その碧眼……あなたが、紳士さん、ですよね?」
「……ああ、俺だ。」
「そう……。あなたがここに現れるということは、やっぱりそういうことなんですね。あなたもオミナスの人間。でも、紳士さんが女の子だなんて……意外に、そういうのも悪くないかも。」
イヴリスの表情はどこか高揚していて、頬を赤らめ、陶酔したような笑みを浮かべている。俺は彼女の持つレイピアに視線を移し、その剣先から滴り落ちる血に気づいた。彼女がここに来る前に何をしていたのかは、容易に想像がつく。
「首の装置と左肩の翼……ルシファーの連中は君に何をしたんだ?」
「さあ?私にもよくわからないわ。とにかく、首にあるこれが彼たちが言っていた補助具らしいわ。量産型のバイオコンピュータ?を使って、遠隔のメインユニットと接続し、神経を刺激して計算を補助してくれるとか。そして、この翼は薬を注射したら、私の体に生えてきたのよ。でも、そんなことはどうでもいいの。」
イヴリスは白い手袋をはめた左手を俺に差し出した。
「大事なのは、紳士さんが私に会いに来てくれたこと。さあ、一緒に行きましょう。この忌々しい場所を抜け出して、私たち二人だけの静寂な場所へ。あなたなら、私に語りかけてくれたあなたなら……。」
「……。」
薬の影響なのか、イヴリスはいつもの冷静さを欠いているようで、感情的になっているように見える。
これは、まずい。
シーとメムはまだ混乱した戦況を制御しつつ、リリアを救助している。この状況で、俺一人で三人を守りながら、さらに戦闘員クラス、それも「星斬り」の称号を持つイヴリスと戦わなければならない。突破口を見つけないと……。だが幸いなことに、なぜかイヴリスは俺に執着している様子だ。
俺が沈黙していることに気づいたのか、イヴリスは首を傾げた。
「どうしたの、紳士さん?急に黙ってしまって。」
「イヴリス、俺は君に決闘を申し込む。」
「っ……どうして?」
「決闘の間、君は俺の後ろにいる人たちには手を出さないでほしい。」
イヴリスは目を細めた。
「随分と勝手なお願いね。それに、私に何の得があるの?」
「もし君が勝ったら、俺は君のものだ。……マイレディ。」
「あはっ。」
その言葉に、イヴリスは凄絶な笑みを浮かべた。それは獰猛でありながら、どこか惹きつけられる魅力があった。
「前は怖くて聞けなかったけれど、今度こそ教えてください、あなたのお名前を――だって、これからあなたは私のものになるんだから。」
「っ」
「それでは、改めてご挨拶させていただきますわ。わたしは、イヴリス・フォン・ヴァンデルシール・ガリバと申します。どうぞよろしくお願いいたしますね。」
「......俺はバイオス。ただのバイオスだ。」
「ふふっ。それじゃあ、踊りましょうか。バイオス、私の紳士さん。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます