第18話 降誕

俺は頭痛で目を覚ました。


脳内はノイズで満ち、額から後頭部にかけて裂けるような痛みが走っていた。まるで誰かが頭蓋をこじ開け、中を棒でぐちゃぐちゃにかき混ぜたかのような痛みだ。わずかにこみ上げる吐き気が朦朧とした意識の中に漂っている。


俺は「目」を開けた。


「う……」


眩しい光が意識を焼き付ける。反射的に目を閉じ直し、再び心地よい闇に包まれた。まるで、仰向けに寝転がり、温かい液体に浸されているような感覚だ。もしかしたら、胎内にいた頃もこんな感じだったのかもしれない。俺は深いため息をつき、その温もりにしばし身を委ねた。


……待て。


何かがおかしい。


再び鋭い痛みが脳を走り、俺はすべてを思い出した。


そうだ、俺……いや、俺たちはまだ戦闘の最中のはずだ。凶鳥オミナスが襲撃してきて、研究所は危機的状況にあるはず。爆弾は起動し、時間との戦いだ。それに、さっきから背中に何か触れている感覚がある。過去のように黒い泥を介しての曖昧な感覚ではなく、まるで前世で経験したことのあるような、はっきりとした触覚だ。


どういうことだ?


俺は慌てて意識の触手を周囲に伸ばした。しかし、何もない。研究所の全設備との接続が途絶えており、何も繋がっていない。いや、この伝導率はどういうことだ?この媒質ではルーン文字を維持するのが難しく、描こうとすると、すぐに霧のように消えてしまう。


黒い泥が……消えた。黒い泥の境界にあったインターフェースもない。では、シーとメムはどうなった?


「っ!」


俺は勢いよく「起き上がった」。


「え?」


はっきりとした、現実の視界の中で、俺は見慣れた白い両手を見た。人形の手だ。手を握ってみると、それはまるで生まれつき自分のものであったかのように、意識に従って動き、触覚を返してくる。俺は自分の顔を撫で、首に触れた。凹凸のある感触が伝わり、首からは脈動を感じた。


ドクン、ドクン、ドクン。深呼吸をすると、自分の心臓の鼓動が感じられる。体から伝わってくるこの現実感は、まるで俺の疑問を嘲笑うかのように。


そして、声が聞こえた。


「おはよう、バイオスちゃん。」


聞き覚えのある、しかし今はかつてないほど鮮明な声。俺は頭を動かし、声の主に目を向けた。


ヘクトリだ。


柔らかい茶色の髪、少し垂れた目尻、優しい顔立ち。間違いない、いつものヘクトリだ。


「どう?バイオスちゃん。どこか気分が悪いところはない?培養液から引き上げて、体に再接続したばかりだから、少し不慣れかもしれないね。でも、その体は今まで使っていた人形だから、すぐに慣れるはずだよ。」


なんだと?


培養液から引き上げられた?体に再接続?


黒い泥の消失、脳にまとわりついていたルーン信号の消滅、そしてこの非常にリアルな感覚。すべての点が、俺の中で線となって繋がった。どうやらヘクトリが何らかの方法で俺を黒い泥から引き上げ、慣れ親しんだ人形の体にインストールしてくれたらしい。今、俺はもはや混沌の中に囚われた意識ではなく、実際に体を持っている。


ああ、そうか。


俺はもう、自由だ。


目頭が熱くなり、濡れたものが頬を滑り落ちた。涙だ。この小さな、ほっそりとした感触が、今はこんなにも懐かしい。まるで堰を切ったかのように、涙が俺の両目から止めどなく流れ出た。


ヘクトリは慌てた様子で声を上げた。


「え?え?どうしたの?どこか具合が悪い?痛いの?でも、理論てきは問題ないはずだし、副作用を防ぐために十分な血清も投与したはずなんだけど……あっ、接続がうまくいかなかったのか?時間がなかったし、もしそうなら、もう一度やり直さないと……」


「いや、大丈夫。状態が良すぎて、少し驚いただけさ。」


俺は目元を拭い、何かを注入しようとしていたヘクトリの手を制止した。彼女は安堵の表情を浮かべ、疲れた顔に笑顔が戻った。


「そう?それならやりなおそう。こうして会うのは初めてだね――初めまして。私はヘクトリ。」


「ああ。バイオスだ。よろしく頼む。」


差し出されたヘクトリの手を握り返す。その温かく、柔らかく、何の媒介も通していない本物の感触が伝わってくる。


感動しているのは確かだが、今は感情に浸っている場合ではない。俺は喉を軽く鳴らし、気持ちを引き締め直した。


「シーとメムは?」


「もう目を覚ましたよ。バイオスちゃんが一番最後だったの。ほら。」


ヘクトリの指差す方向に目を向けると、見慣れた黒い軍服風の衣装を身にまとった人形が、興味深そうにある装置を触っていた。間違いなくシーとメムだ。二人の少女は興奮気味に周囲を触り、体を動かしている。二人が無事で、しかも喜びに浸っている様子を見て、俺は心底ホッとした。


今、俺たちは見知らぬ大きな部屋の中にいる。シーとメムが触っているのは巨大な装置で、天井から多くの配線がその装置に繋がり、多数のインジケーターが点滅している。その中には、すでに空になっている三つの容器がある。どうやら、これがかつて俺たちを閉じ込めていた牢獄らしい。


「シー、メム。」


俺が声をかけると、二人はにこやかな笑顔を浮かべ、駆け寄ってきた。


「バイオス!」


「バイオスちゃん!」


二人が俺に抱きついてくる。まだ少し慣れないが、安心感のある体温が今の身体を通じて伝わってくる。俺も強く彼女たちを抱きしめ、そして視線を再びヘクトリに向けた。


よく見ると、ヘクトリの様子がひどい。


彼女の顔や実験用白衣には血痕がついていて、息が荒く、顔色は青白い。左腕には包帯が巻かれ、血がにじんでいる。


「……ヘクトリ。」


「私は大丈夫よ。それよりも、今大事なのはあなたたち。」


そう言った瞬間、激しい揺れが俺たち四人をよろめかせた。震源はかなり近いようだ。ヘクトリの笑顔は真剣な表情に変わった。


「どうやら、時間がもうあまりないみたいね。」


ヘクトリは黒いバッグを三つ俺たちの方に引き寄せた。俺がジッパーを開けると、中には以前ヘクトリが用意してくれた戦闘装備が入っていた。


「手短に話すわ。まずは情報共有ね。」


俺は素早く着替えた。戦闘服を身にまとい、ガントレットを装着する。シーは対物ライフルを担ぎ、メムはヘアピン型の精神感応装置をつけ、大きなバッグに満載されたファンネルビットを背負った。俺たちが武装を終えると、ヘクトリは頷きながら、壁のボタンを操作しつつ話を続けた。


「見ての通り、まだ研究所を脱出できていないわ。あなたたちを助けるために手術に時間をかけたからね。今、外はまだ戦闘状態で、研究所の地下にある爆破装置もカウントダウンが進行中。私たちは今から解除しに行く時間はないし、トリニティシステムから外れたあなたたちには、もう研究所の装置をリモート操作するインターフェースもない。だから、これから私にしっかりついてきて。いい?」


俺たちは三人とも無言で頷いた。しかし、一つの疑問が俺の頭に浮かんだ。


「ヘクトリ、オミナスはどうする?」


「もう手は打ってあるわ。あなたたちの現在の特徴は外の実行部隊に共有済みだから、味方から攻撃されることはない。」


「味方。お前、まさか……」


ヘクトリは微笑んだ。彼女は小走りで部屋の端にある防爆ドアのところに向かい、力強くスイッチを押した。


「言ったでしょ。お姉ちゃんが何とかすると。さあ、行きましょう!」


ヘクトリは俺たちに手を差し伸べた。その小さな体が、今はとてつもなく大きく、そして頼もしく見える。


「……ああ」


俺はヘクトリに向かって一歩踏み出した。






シュッ。






「?」


それは、ほとんど見過ごしてしまうほどの小さな閃光だった。


俺がヘクトリに向かって歩みを進めたとき、一筋の閃光とともに、小さな音が耳に届いた。すぐに、何か生体組織が焼ける匂いが鼻を刺激する。


ヘクトリが突然、膝をついた。彼女の笑顔は、苦痛に歪んでいた。


「ヘクトリ!」


「近づかないで!早く、逃げ……」


ヘクトリは最後まで言葉を紡げなかった。


彼女の背後の壁が爆発した。噴き出した魔力、飛び散る瓦礫、そして大量の煙が俺たちの視界を遮った。衝撃波の中で、俺はシーとメムをかばい、なんとか足元を踏ん張った。


「っ!」


カッ、カッ、カッ。足音。煙の中から、誰かが歩み出てくる。


最初に目に入ったのは、ルーン文字で構成された光輪だった。


「本当に派手なことをやってくれたな、研究員ヘクトリ。」


その冷たい、聞き覚えのある声が聞こえた瞬間、俺の全身は強ばった。心臓は激しく打ち、呼吸は乱れ始める。肌を刺すような殺気が背中を冷たく濡らす。


光輪に続いて、煙の中から姿を現したのは、巨大な白い翼だった。三対……いや、今はもう四枚しか残っていない。そのうち二枚は何かに焼かれ、引き裂かれたようで、ぼろぼろになって揺れていた。その翼を持つ者の全身は傷だらけで、服のあちこちに血が滲んでいる。


だが、偽りの天使はまだ墜ちていない。爆発的な魔力、具現化された暴力、凝縮された殺意。それらすべてが、まだ健在だった。


「……ナユタ。」


煙の中から、天使が金色の瞳で俺を射抜くように見つめている。


「どうりで端末がまったく反応しなかったわけだ。」


ナユタが手にしていたものを掲げた。ヘクトリだ。彼女はヘクトリの首を掴み、そのまま持ち上げていた。ヘクトリは微弱に足をばたつかせていたが、胸には小さな穴が開いており、そこから血がじわじわと流れ出ている。


「すべての隠された通路はサーヴァントたちに埋め尽くされた。脱出ルートにはナイトが待ち伏せている。情報漏洩があまりにも徹底していて、オミナスは我々の対応策を完全に把握していた。しかも、トリニティは体を取り戻して脱出を図ろうとしている。なるほどな、どうやら我々の中に裏切り者がいたというわけか。」


ナユタの手に力がこもり、ヘクトリの目は大きく見開かれ、気管が圧迫されて苦しそうに喘ぎ始めた。


「何か弁解はあるか?裏切り者。」


「ふぅ……ふふ……ふぅ。私が……裏切り者、だって?」


か細い声、笑っているのか、喘いでいるのかはわからない。それでも、ヘクトリは絞り出すように言葉を紡いだ。


「私は……最初から、あなたたちの側に立ってなんか、いなかった。」


「ふん。なるほど。兇鳥オミナスのスパイか。なら話は簡単だ。」


ナユタの真っ赤に染まった手刀が、ヘクトリの背中から貫き出た。


「ヘクトリさん!!!!」


メムが心を引き裂かれるような悲鳴を上げた。ナユタはそれを気にも留めず、力を失ったヘクトリの体を横に放り投げた。ヘクトリは壁に激しく叩きつけられ、そのまま動かなくなった。


「……っ」


「さて、ルーキーども。ここで一つ問題だ。」


カッ、カッ、カッ。ナユタがこちらに向かって歩み寄ってくる。彼女の一歩一歩とともに、神聖な光が空間全体に満ちていった。


「お前たちは、裏切り者か?」


ドゴォン! 再び爆発音が響き、研究所が揺れた。天井からは粉塵が細かく降り注いできたが、ナユタは微動だにしない。彼女の金色に輝く瞳が、俺の目をまっすぐに捉えている。


「バイオス……」


「バイオスちゃん……」


背後に感じるのは、仲間たちの命の重さ。その重圧に押し潰されそうになり、膝が折れそうになる。


駄目だ。振り絞れ。


最初に抱いていた怒りを思い出せ。怒りで恐怖を塗りつぶせ。


俺は足元に力を込め、。ナユタを睨み返すと、彼女は目を細めた。頭の中で言葉を組み立て、俺は、痙攣するような笑みを浮かべた。


「残念だったな。俺たちは裏切り者じゃない。」


「ほう?」


「俺たちも、最初からお前たちの側には立っていなかった。」


「じゃあ、敵だな。」


ナユタの顔が歪んだ。


狂喜きょうきの獣。そんな表情を見て、俺は思わずそう思った。


「死合いをしよう。参る。」


「っ!ハァァァァァァァ!」


ナユタが閃光とともに拳を振り下ろすのに合わせて、俺は全力で地を蹴り、彼女に向かって突撃した。

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