第16話 張りつめた日常

前線の危機的な状況が広まったのか、研究所の雰囲気は非常に緊迫してきた。


研究員たちの表情はどこか憂鬱で、カメラやマイクを通じて人々の苛立ちや不安が明らかに感じ取れる。俺にとって一番わかりやすい変化は、以前俺たちを管理していたあのハゲだ。今の彼には、女性研究員をいやらしく覗く余裕すらない。気のせいかもしれないが、あの光っていた頭頂部もどこかくすんで見える。


不安な空気を振り払うかのように、研究員たちはより一層働きに励んでいる。当然、俺たちの作業量もそれに伴って増えた。奴らが報復的に徹夜を始め、実験量も増加したからだ。


データ記録の量が増え、研究サンプルの処理が増え、分析作業もさらに多くなった。研究員たちはまるで血眼になって生き急いでいるかのようで、限られた時間の中で研究成果を最大化しようとする執念が感じられる。各自のデスクには大量のコーヒー缶やタバコ、そして組織が開発した軍用の覚醒薬が山積みになっていた。


忙しくて殺されそう。


仕事の海の中で、俺とシー、メムも時間を奪われた。ナユタでさえ、戦闘訓練の割り当てを減らし、俺たちに研究データの処理に集中させていた。漂うルーンの情報断片が黒い泥の中に満ちていて、以前が夜だとすれば、今はその黒い泥が発光するルーンで昼間のように照らされている。メムは大量の簿記作業に悲鳴を上げ、淡々と計算業務をこなしていたシーですら文句を言い始めた。そして俺は、大量のデータやタスクを分類しながら、研究所内の様々な機械を操作し続けるしかなかった。


気を抜くわけにはいかない。特に研究所内部の監視。ナユタが食堂で話していたことが本当なら、凶鳥オミナスのメンバーが攻撃を仕掛けてくる可能性もう十分にある。俺は、感覚を研ぎ澄まし、あらゆる場所に目を配り、微細な兆候も見逃さないように。


こうした緊迫した雰囲気の中で、ヘクトリの行動もどこかおかしくなってきた。


まず、彼女が俺たちを訪ねてくる時間が減った。


頻度自体は変わっていない。彼女は毎日、俺たちの端末や人形の前に顔を出すが、すぐに去ってしまい、以前のようにどうでもいい話を長々とすることはなくなった。


ヘクトリにまとっていた柔らかい雰囲気もどこか鋭くなっている。彼女は痩せて、目の下には黒いクマができていた。ふらふらと端末や人形の前に現れて、そんな状態で俺たちの日常メンテナンスをしている彼女を見るたび、俺の胸は痛んだ。


「大丈夫。お姉ちゃんが何とかするから。」


細い腕を曲げて、存在しない二頭筋を無理に見せつけるようにして、ヘクトリはいつも去る前にバカみたいな笑顔でそう言う。


こいつ、本気だ。


ヘクトリはどうやら研究所のブラックゾーンで仕事をしているらしく、その作業内容は俺たちには共有されていない。彼女が命を削ってまで何をしているのか、俺たち三人には全くわからない。


少しだけ、ほんの少しだけ。俺はあのバカが心配になり始めていた。




>>メム:ヘクトリさん、どんどん痩せてきてるよね。ちゃんとご飯を食べて休んでないんじゃない?食堂にも寝室にも姿を見せないし。


>>俺:……そうだな。いったい何をしてるんだろう。


>>シー:どうでもいい。そんな奴は後回しにして。バイオス、こっちの仕事が追いつかない。分担。


>>俺:ああ、わかった……チッ、またあいつらか。毎回データを集めた後、処理しなきゃいけない数値が山ほど出てくるんだよな。俺がやるから、シーは先に前のバッチを片付けてくれ。


>>シー:了解。助かる。


>>メム:シーちゃん、冷たすぎない?ヘクトリさんはずっと私たちの面倒を見てくれてるのに。


>>シー:否定。今はそんなことを話している場合じゃない。さっさと仕事をしろ。もし余裕があるなら、私の代わりにあの馬鹿どもの計算を処理して。多分誰かが狂ってるんだ、ずっと同じ無駄な指示を出し続けてる。


>>メム:ああ、だからゴミみたいなデータがこんなにたくさん送られてくるんだね。もう、最近は多すぎるよ……


>>俺:仕方ない。こいつらは撤退計画に残される成果を出したいんだろう。


>>メム:……バイオスちゃん、敵は本当に来るのかな。


>>俺:多分な。ナユタが直接言ってたんだ、間違いない。


>>メム:そうなんだ。私たち、どうなっちゃうんだろう。


>>俺:……


>>シー:……


>>俺:考えても仕方がない。まずは目の前の仕事を片付けよう。


>>メム:そう、だね。そうだよね。ごめんね、つまらないこと言って。


>>俺:気にするな。俺だって不安だ。


>>シー:疑問。バイオスも不安を感じるのか?


>>俺:ああ、不安だ。でも、不安だからって止まるわけにはいかない。俺、何とかするさ。


>>シー:対策はあるのか。


>>俺:まだない。でも、何かしら方法はあるはずだ。


>>シー:了解。バイオスを信じる。


>>メム:私も。バイオスちゃんを信じてるよ。


>>俺:……ありがとう、二人とも。




何かをしなければならない。


もしブラックゾーンの情報を掴めたなら、もし操縦できる機械がもう少し増えたなら、もし仕事量がもう少し減ったなら、もしナユタの監視がなかったなら……いろいろな「もし」が鎖のように俺の選択肢を縛り付けている。あと少しのきっかけ、あと一歩進めば、戦闘を回避する方法が見つかるかもしれない。くそ、どうしていつも最後のピースが足りないんだ……だめだ、冷静にならないと。


俺はシーとメムをなだめつつ、仕事を処理しながら、残ったリソースをフル稼働させて、来るべき戦闘から無事に逃れる方法を模索していた。しかし、どうにもあと一歩足りない気がする。何か重要なものを見落としているような気がしてならない。焦っている暇もなく、ただ考え続けるしかなかった。


そんな混乱と不安に満ちた空気の中でも、どこ吹く風という顔をしている者もいた。


ナユタだ。


研究所全体が不安に包まれている中でも、彼女は全く影響を受けていないようで、相変わらず食堂や喫煙室に姿を見せ、冷たい表情でいつも通りの日常を送っている。これがベテランの余裕というものだろうか。しかし、今となっては彼女に構う余裕もないのが現状だ。幸い、最近ナユタは無理難題を押し付けてくることもなく、組織のメンバーの中では最も大人しくしていると言えるだろう。


そんな緊張感に満ちた日々がしばらく続いていた。


そして。


「お知らせだ、ルーキーども。」


まるで散歩でもしているかのように、世間話をしているかのように、ナユタが俺たちの端末の前に現れた。タバコを吸いながら、無表情で淡々とした口調で俺たちに言い放った。


「防衛線が突破された。」

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