第12話 それぞれの存在証明
「まったく、またこんなに汚れちゃって。」
ヘクトリは不満げに言いながら、手に持ったタオルをバケツの水に浸した。彼女がタオルを洗うたびに、澄んでいた水が徐々に濁っていく。
「こんなに可愛いのに、毎日傷だらけなんて、可哀想だわ。あの戦闘員、本当に加減を知らないわね。」
ヘクトリのタオルが人形の頬に触れた。擦り傷に水が触れた刺激がピリッと伝わってくる。彼女は優しく傷口の埃を拭い、消毒液を塗ってから、ガーゼと絆創膏で手当てを始めた。ヘクトリは細心の注意を払いながら、一つ一つの傷を丁寧に処理し、彼女の指が人形の肌に触れるたびに、温かな体温が伝わってきた。手当てを終え、彼女は医療箱を片付け始める。
「……なんだか懐かしいな。まるで、やんちゃな妹の世話をしているみたい。」
俺は、思わず人形を通して目の前の研究員を見つめた。
ヘクトリは、少し垂れた目元を前髪の下に隠し、一瞬、その表情は見えなかった。だが、彼女が下唇を噛んでいることに気づいた。
俺の視線に気づいたのか、ヘクトリは「ははは」と照れ笑いを浮かべ、頬をかいた。そして、軽く咳払いをしながら、得意げな笑みを浮かべた。
「ごめんね、ちょっと昔のことを思い出しちゃった。でも、これで三人とも包帯巻き終わったわ。完璧!さすが私!戦闘訓練を免除することはできないけど、少なくとも治療はしてあげる。もしまた怪我したら、お姉ちゃんに任せてね。あ、そうだ!」
何かを思い出したように、ヘクトリは手を叩いた。
「忘れるところだった、プレゼントがあるのよ。」
突然、ヘクトリは俺の人形に近づき、その腕を人形の首に回して抱きしめるように寄り添ってきた。彼女からは、甘い香りと微かな消毒液と硝煙の匂いが混ざり合っていた。体温は少し高めで、胸が人形の頬に軽く触れ、服越しに感じる彼女の心音は落ち着いて力強い。
「よし!バイオスちゃんの髪が長いから、ずっとこれが合うと思ってたんだけど、やっぱり正解!じゃーん!」
ヘクトリは人形の髪を弄り終えると、どこからか鏡を取り出し、人形の前に差し出した。
鏡の中に映っていたのは、雪のように白い肌、
「うん!さすが私!審美眼バッチリ!バイオスちゃんのクールな雰囲気にリボンを合わせたことで、清楚感が増して、さらに大人っぽさもプラス!すごく可愛いわよ、バイオスちゃん!」
はぁ。こんなこと、どうでもいいだろうに。
興奮して小さく跳ねるヘクトリを見ながら、俺は思わず苦笑した。でも、嫌ではない、というのも事実。
人形は、シーとメムが俺を介さずに自由に操作できる数少ない装置だ。
ヘクトリが俺を「バイオス」と呼ぶ理由は、完全にメムのせい。彼女が執拗なヘクトリの質問に耐えきれず、人形で俺たち三人の名前を教えてしまったのだ。このことにシーは激怒したが、結局、ヘクトリは俺たちが自分で名前をつけたことを外に漏らすこともなく、過剰な反応も見せなかった。むしろ、俺たちにさらに関心を寄せてきた。今のところ脅威ではなさそうなので、とりあえず放っておくことにした。
「うんうん!で、シーちゃんとメムちゃんにもプレゼントがあるのよ!焦らないでね!」
ヘクトリはシーのショートヘアの人形の首に青い飾り紐を結び、メムの人形の肩までの髪を耳にかけ、ピンク色のリボンで結んだ。
「完璧!これで三つ子でも、ちゃんと個性が出たわ!やったー!こうして並べてみると、すごく可愛い!もしドレスを着せて、メイクでもしたら、小さなプリンセスたちみたいになるかも!お姉ちゃん、頑張っちゃおうかな!」
ヘクトリは謎のやる気に満ちた様子で、顔を赤らめながら両手を高く掲げた。
>>シー:チッ。不快。私の人形に勝手に目印をつけるなんて。
>>俺:放っておけ。あいつの奇行は今に始まったことじゃない。
>>メム:でも、すごく可愛いよ、バイオスちゃん!
>>俺:はぁ……ありがとう。
>>メム:ヘクトリさんが言ってたメイク、ちょっと楽しみだね。もっと可愛くなるんじゃないかしら?
>>シー:どうでもいい。メムはヘクトリを信頼しすぎ。今日、私たちに目印をつけたのは、きっと何か悪い意図がある。警戒レベルの引き上げを要求。
>>メム:そんなことないよ。ただ、私たちを可愛くしたいだけだよ?バイオスちゃんもそう思うよね?
>>シー:否定。プロトタイプでも、私たちは同じスペック。目印をつける目的が分からない。わざわざ髪型を整え、識別物を追加することで同質性を損ない、戦術的に敵を混乱させる選択肢を減らした。提案、目印の除去。
>>メム:そんなのやだよ。ヘクトリさんが悲しむでしょ?それに、シーちゃんも可愛くなったんじゃない?
>>シー:否定。ヘクトリの気持ちを考える理由や、可愛くなることで得られる戦術的利点が理解できない。バイオス、何か言え。
>>俺:どうでもいいさ。メムに賛成するわけじゃないが、目印を取り除くのは得策じゃないと思う。もし装飾品を外したら、ヘクトリの態度が変わるかもしれないからな。
>>シー:……同意。それは理解不能で予測もできない。
>>俺:現時点では実質的な損害はない。しばらくこのままでいこう。
>>メム:よかったね!バイオスちゃん!
>>俺:メムも、プレゼントをもらったからってヘクトリを信用しすぎるな。彼女は確かに親切だが、所詮は研究員だ。上の命令には逆らえないときもある。情報を与えすぎないように。
>>メム:うん、分かった。バイオスちゃんがそう言うなら……
>>俺:頼んだぞ。
「ふう、満足したわ。さて、これからは真面目な話よ。」
ヘクトリは再び落ち着きを取り戻し、軽く咳払いをして真剣な眼差しに変わった。
「お姉ちゃんね、あなたたち三人にお願いしたいことがあるの。というか、これは対等な取引になるはずよ。あなたたちにとっても悪い話じゃないわ。」
来たか。
やっぱり油断できない。さっきのプレゼントも好意からだとは思うが、何かしらの目的があることは予想できた。ただ、ヘクトリが「対等な取引」と言っている以上、一度話を聞く価値はありそうだ。俺は意識を集中し、彼女の次の言葉を待つことにした。
ヘクトリは深く息を吸い込み、微笑みを浮かべた。
「ナユタを倒すのを手伝って欲しいの。」
ふーん?
「まあ、倒すって言っても、それが最終的な目標というだけ。あなたたちも知ってると思うけど、私は『聖胎』に依存しないルーン付加武器の研究をしているの。今ね、いくつかプロトタイプを開発したんだけど、戦闘データを集めたいのよ。この武器は、ナユタみたいな特殊な体質を持った戦闘員を想定して作られてるから、あなたたちとナユタの模擬戦にもきっと役立つはず。」
ヘクトリの目が、一瞬、怪しく光った。
「どうかしら?協力してくれる?実戦データは私にとってとても貴重だし、その一方であなたたちの戦闘力も強化できる。一石二鳥ってやつよね?」
本来、管理者の立場からすれば、制御下にある実験体を強化するなんてリスク以外の何物でもないはずだ。しかし、ヘクトリはそれを無視している。実戦データの必要性が、安全性を上回ったということか。彼女がどれだけ気ままでも、やはり研究者としての執着があるのだろう。
とはいえ、この提案は悪くない。ヘクトリが発案者なら、仮に上から問責されたとしても、罰せられるのは俺たちではない。しかも、俺たちは強化する機会を得られる。損はない提案だ。
俺は自分の人形を操作して、軽く頷いてみせた。すると、ヘクトリは満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう!それじゃあ、早速この装備に着替えてちょうだい!」
ヘクトリは「よいしょ」と声を上げながら、封印の貼られた三つの大きな箱を引きずってきた。そして豪快にその包装をビリビリと破り捨てると、俺たちに向かってウィンクし、舌を少しだけ出してみせた。
「これね、お姉ちゃんが心を込めて作ったのよ!さあ、早く着替えてみて!」
はぁ。
なんだか、くだらない罠にハマったような気がしてきた。
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