第2話 浸潤

暇だ。


あまりにも暇で、狂いそうなくらいだ。


この黒い泥の中に浸かっていると、時間感覚も空間感覚も曖昧になってくる。


自分の今ある記憶を「前世」と呼び、この禁錮されている状態を「今生」と名付けることにした。


どこかで読んだ記憶があるが、時空間の認識は精神状態を正常に保つ上で重要な要素だと聞いたことがある。医者が患者の精神状態を確認する際に、日付や自分の居場所を覚えているかどうかを尋ねるのも、そのための一つの識別手段だそうだ。今の自分が陥っている状況からして、それは理解できる。


時間や空間がわからなければ、自分自身の境界もぼやけてしまうということだ。


今のところ、まだ狂っていないのは、前世の曖昧な記憶が自分の人格を支えているからだ。そして、この周囲に漂う青白いルーン文字のおかげで、退屈しきることなく済んでいる。


青白く、まるで電流でできているかのような文字たち。それらは、俺の意識に応じて近づいたり離れたりする。もし俺が水槽の中にいるヒトデや魚だとすれば、これらの文字は水中の浮遊物や泡のようなものだろう。いずれにせよ、退屈で耐えきれそうにない俺にとっては、これらはまさに救いだった。


だからこそ、まるで地獄で蜘蛛の糸を見つけたかのように、俺はこれらのルーン文字を解読し始めた。


とはいえ、ルーン文字と言っても、何かが少し違うような気がする。


とにかく、俺は試しに統計を取ってみた。漂っている文字はおそらく二十数種類。暗闇に浮かぶ文字は、単なるアルファベットだけでなく、いくつかの文字が組み合わさって単語になっているものもある。暗闇の中に浮かぶ文字の群れは、帯のように連なっている。


おそらく、これは「文」なのだろう。


比較的長い単語のいくつかは、何度も繰り返し出てくる。前世の符号文字に関する理解に基づいて言えば、おそらくこれらのいくつかは代名詞や単位詞に相当するものだろう。ああ、この英字の「I」に似たものは、いつも文の最初に来ている。


だから、これらの文は「俺が何かをした」と言っているのかもしれない。


だが、具体的に何を言っているのかは、まだ理解できない。前世の子供向けの教科書のように、絵が添えられているわけでもない。ただ文字だけでは、文法の概要を推測することはできても、実際に理解しているとは言えない。


くそ、情報が足りない。


心の中でため息をつき、集めた文字を脇に放り投げた。


ん?


文字を押しのけた瞬間、周りに赤い光の点がいくつか現れたのに気づいた。


んんん?これは何だ?


意識の触手を伸ばして触れようとしたが、その赤い光点はすぐに消えてしまった。


待てよ。


青白いルーン文字は最初からこの黒い泥の中に漂っていたものだが、今の赤い点は?


どうやら、俺の動作に反応して現れたようだ。もしそうだとしたら、俺もこのルーン文字のようなものを生み出す能力があるのか?


全身の意識を駆使して、俺は黒い泥を激しく掻き回した。これでもない、あれでもないと奮闘した後、ようやく再び赤い光点が周りに現れた。


なるほど。


もしそうなら、新しいことができるかもしれない。


俺は意識を操作し、目の前に漂う青白い文字を慎重に真似して、赤い符号を描き出した。


うん。文字の形は少し不格好だが、不可能ではない。


俺は覚えている二十数種類の文字を赤い光で一つずつ描いてみた。すると、今回生み出した赤い光点は消えることなく、俺の周りに漂い続けた。


なるほど。文字を形成すれば、光は簡単には消えないのか。


俺は一心不乱に「模写」した。大量の赤い文字が俺の周りに浮かび上がり、青白い光と混ざり合って、まるでネオンのようにきらめいていた。


そして、唐突に喜びが俺を満たした。


自分が「報酬」を受け取ったと気づくのに、一秒もかからなかった。


喜びに意識が飲み込まれる感覚に、俺は存在しないはずの顔で笑みを浮かべた。


もし今の俺に顔があったなら、きっと涙やよだれを垂らして笑っていただろう。


それほどまでに強烈で、理由のない喜びだった。


数秒後、報酬は終わった。


先ほどの極楽に対して、今の普通の状態はまるで心にぽっかりと穴が開いたようで、強烈な喪失感をもたらした。


なるほど。


前世では依存性のある薬物を使用したことはないが、おそらくこれと同じ原理なのかもしれない。不快に思いながらも、俺の浅い意識の中では、すでに次の「報酬」を期待している自分がいた。


ということは、外で俺を監視している誰かにとって、俺がこの赤い文字を書くことは「称賛に値する行為」なのか?


だが、目的は一体何だ?


報酬の基準は何だ?


このまま文字を書き続ければ、また報酬が与えられるのだろうか。


だめだ、報酬に依存するのは危険だ。結局、この黒い泥の中で得られる報酬はごくわずかな刺激であり、それが非常に強烈だ。そう考えると、外の連中の性格や目的もある程度推測できる。おそらく、こうして依存性を生み出す状況を作り出しているのだ。


でも、それで彼らに何の利益があるんだ?


くそ、情報がまだ少なすぎる。


少し投げやりな気分で、俺はすべての赤い文字を消した。文字を集めたり書いたりするのをやめ、俺は仰向けに浮かぶように自分を空間に漂わせた。


だめだ、少し休まないと。


体感ではおそらく30分ほど漂っていたのだろう。


そして、それが来た。


「――!」


最初に来たのは吐き気だった。


まるで何かが胃壁をひっかくような感覚で、無数の足を持つ虫が突然胃の中に湧き出し、食道を這い上がってくる。そして、それらが噛みつき始めた。激しい痛みが内側から外へと広がり、存在しない舌には酸味、鉄錆、そしてホルムアルデヒドのような臭いが同時に広がった。まるで誰かが化学薬品を混ぜたカクテルを強制的に飲ませたかのようだった。


重拳で脳を殴られるような感覚が襲いかかってきた。


声にならない呻きが漏れた。呻きが悲鳴に、悲鳴が叫びに、叫びが喉が裂けるほどの咆哮へと変わっていく。


もし前の数秒が天国だったのなら、今は間違いなく地獄だ。


どれくらい続いたのだろうか。数えることもできなかったが、その痛みは永遠に続くように感じた。


そして突然、その痛みは幻のように消えた。


吐いた。


身体がないにもかかわらず、自分が吐いたのを明確に感じた。いや、もしかしたらこれは横隔膜おうかくまくの幻覚か、空想上の胃痙攣いけいれんかもしれない。それでも魂の震えは止まらなかった。


くそ、くそ、くそ。


わかった。


これは「鞭」と「飴」だ。


つまり、外の誰かが俺を「訓練」しているのだ。


そして今の段階では、彼らの目的は俺に赤い文字を吐き出させ続けることなのだろう。


俺は自分が焦っているのに気づいた。あの痛みは次いつ来る?どれくらい続く?どうすれば発生する?なぜこんなことをされている?目的は?ずっと文字を吐き出し続ければ、もうあの痛みを経験しなくて済むのか?くそ、くそ、くそ、くそ。


次第に、湧き上がる怒りが俺の恐怖をかき消していった。俺は黒い泥を激しくかき乱し、大量の赤い文字を作り出した。


ふざけるな。


人を舐めるのも大概にしろ。


もし俺が記憶を持っていなかったら、この時点で屈服していただろう。


だが、俺は前世の記憶がある。誰かが目的を持ってこれをしているのだと気づいている。今、俺を支配しているのは「憎しみ」だ。


いいだろう、しばらくはお前たちの思い通りにしてやる。


目的はわからないが、覚えておけよ。


再び赤い文字を生み出し始めた瞬間、短い報酬が送られてきた。しかし、その喜びは今や俺を吐き気で満たすものに変わっていた。


不快と怒りを抱えながら、俺は機械的に文字を生み出しながら、心の中で次の一手を考え始めた。

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