第9話


 椿が政宗に頼まれた上着を抱えて食堂の前に行くと、丁度食堂から出てきた涙を流すスミと会った。

 スミとは昨日お風呂で一緒に話をしたのだ。


「スミさんどうしたの?」


 スミは目に涙を浮かべていたので、椿は思わず尋ねてしまった。


「ああ……政宗様にお茶をお出ししたのだけれど……理由もわからずに『何度も入れ直せ』って、だからお茶出しの得意なイネを呼んでくるわ。昨日、ずっと朝のお茶を出していた子が秀雄様に迫って辞めてしまったから……私が出したのだけれど……」


(あ……確か人が辞めたって言っていたわ)


 椿は「そうなのね」と言ってスミを見送った後に深呼吸をして、扉を叩くと大きめの声を出した。


「椿です。上着をお持ちしました」

「入れ」

「失礼致します」


 政宗は食事を終え、新聞を読んでいた。おそらくお茶を待っているのだろう。


「上着をお持ち致しました。ご確認下さい」

「ああ」


 椿は政宗に上着を手渡すと、政宗は上着のあちらこちらを確認した。そして破れた袖を持って言った。


「おい、破れはどこだった?」

「こちらでございます」


椿が説明すると、政宗はじっと修繕箇所を確認した。


(どうだったのかしら?)


「誰の仕事だ?」

「私が修繕いたしました」

「おまえ、お針子だったのか?」

「そういうわけではございませんが、急ぎとのお言葉でしたので、僭越ながら私が対応させて頂きました」


 政宗は大きく目を見開くと、しばらくして笑い声を上げた。


「ははは。『僭越ながら』に『対応』か。そんな言葉を巧に操る女がいるとはな。何より早くて丁寧な仕事ぶりも申し分ない。おまえ、今日から私の朝の支度に付き合え」


 時計を見ると、6時だった。


(時間はあるけど……私が勝手に行ってもいいのかしら?)


 椿が困っていると、徳永が現れた。


「政宗様、おはようございます。どうかされましたか?」


 政宗は、徳永に向かって言った。


「徳永。今日は、こいつに朝の支度を手伝わせる」

「彼女にでございますか?」


 徳永は怪訝な顔をしたが、そんな彼の表情などお構いなしに政宗は立ち上がって、椿を見ながら言った。


「ああ。では行くぞ。名前は?」

「椿です」


 先ほども名乗ったが、椿は再び名前を名乗った。


「徳永さん、私がお手伝いしてもよろしいでしょうか?」

「ええ、そうですね。政宗様は七時前にはお出かけになりますので、時間は大丈夫かと……」

「何をしている!! 早く来い!!」


 椿と徳永が話をしていると、政宗が苛立つように扉の前で椿を呼んだ。


「はい。では、失礼します」


 椿は徳永に頭を下げると、政宗の後を追った。そして政宗と一緒に部屋に入った。


(朝の支度って何をするのかしら?)


 椿は政宗の指示を待っていたが、政宗は何かを考えるように机に手をついていた。


「政宗様、朝の支度のお手伝いとは、具体的に何をすればよろしいのでしょうか?」


 椿は思い切って、政宗に用件を聞くことにした。


「ははは!!」


 すると、さっきまで何かを考えるように黙っていた政宗が突然笑い出した。


「???」

「わからないことをすぐに尋ねてきたかと思えば、『具体的』か……おまえ、女にしておくのは勿体ないな。……そうだな。この紙を見て、必要な本をそこの棚から用意しろ」

「はい」


 椿は本棚へ行くと、メモを見ながら本を探した。


(フーコー氏振子に、アペールの経済学、理財学か……難しそうな本ばかりね)


 椿が用意を終えて、政宗の方を振り向くと政宗が驚愕した様子で立ち尽くしていた。


「本の準備終わりました。確認をお願い致します」

「……」

「あの……政宗様?」


 突然、政宗はツバキの手を取ると両手をじっと見た。そして次の瞬間、椿は政宗に壁に押し付けられた。椿は思わず政宗を投げ飛ばしそうになった衝動を押さえた。


(昨日、一度ハリソン様に近付かれておいてよかった)


 椿は政宗を投げ飛ばさなかったことに安堵した。


「ほう~。この状況で震えも叫びもしないし……頬も染めぬか……随分と冷静だな。私の顔は女性に好まれる顔らしいが……」


 そう言われて椿は今の状況を確認した。政宗は両手を壁に付き、逃げられないように椿を腕の中に閉じ込めていた。


(確かに近いわ……)


 政宗は地の底を這うような低い声で椿を睨み付けた。


「おまえ。何者だ? 西条家の間者か?」

「間者……?」


(西条家……聞いたことはないから、家に暗殺依頼が来たことはないわね……)


 椿が考えていると、政宗の整った顔がさらに近づいてきた。


「おまえのこの手は刀を持つ者の手だ。手が固くなるほど刀を持っていたのだろう? さらにそれだけの知識があって、ただ使用人などではないだろう? 間者でないなら何者だ。何が狙いだ?」


 椿は小さく息を吐き、政宗を射るつもりの視線を送った。


「私は成高様のお仕事のお手伝いをさせて頂くためにこちらにおります」

「成孝の?」

「はい」


 椿が視線を逸らさず返事をした。すると政宗は壁から手を離して椿を解放した。


「ではなぜ、私の上着を修繕したんだ? それはおまえの仕事ではないだろう?」

「修繕した理由は、他の方が忙しそうだったからです」

「それだけか?」


 政宗は困惑した表情を見せたが、椿はかまわず話を続けた。


「はい。皆様お忙しそうでしたし、裁縫は得意です。それに政宗様も困っておいででしたので」


 真っすぐに政宗を見つめながら言葉を紡ぐ椿を見て政宗は椿の両手から手を放すと、椿の顎を持った。


「私にこれほど詰め寄られても頬を赤くもせぬのか……」

「皆様に好意を持つことは禁止されておりますので」


 正確には『好きになっても感情を隠せ』と言われているのだが、椿はあえてこういう言い方を選んだ。政宗は椿の顔をじっと見ながら目を細めた。


「ふふ、面白い。お前の頬を私の顔をみるだけで、朱色に染めたくなってきた」


(よくわからなけれど、私は政宗様を怒らせてしまったのかしら?)


 椿がこの状況をどうするべきかを考えていると、政宗が椿から手を離した。


「椿、これから朝は私に付き合え。成高の許可は取っておく」

「かしこまりました」


 椿は静かに頭を下げたのだった。

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