第6話
住職は、慌てて黒光りのする板張りの室内を見渡してみるが、誰もいない。
「最近何か変わったことはないか?」
「え? あ、あの、
「そうだ」
〝回向〟は、このご招来の日に赤歯寺に来訪するとされているモノの名である。現住職は、この儀式をもう五、六回は執り行っているが、こんなことは始めてだった。
先代、先先代はどう言っていただろう?
本当に何かが来てしまった場合はどう対処すればいいのか……。
「何か変わったことはないか?」
見えない何かは、再び同じことを聞いてきた。
「と、特に何もありませんが……」
誰かの悪戯だろうか? との思いも心の隅をかすめたが、住職は確かめる気にはならなかった。
「そうか……」
声は、何かを思案しているようにしばらく発せられなくなる。
「赤歯寺だけのことではなく、この辺一帯、斧馬の地で考えても何も浮かばないか? 何でもいいんだが。例えば不吉な予感、といったようなものだ。ちょっと気になったようなことで」
非常に漠然とした問いだが、何かの意図があって聞いている、ということは住職にもわかる。
しかし、いくら考えてみても、何も出てこない。
「何か災害や犯罪の予兆、といったようなものでしょうか?」
住職は生真面目に問い返す。
声の主は、またしばらく沈黙していたが、
「……いや、違う。そうではない。もういい」
と、諦念を含んだ口調で答えた。
「ではな」
「あ、あの、お料理は?」
帰りそうな気配を察し、住職は慌てて引き留めるような言葉を口に出した。折角用意したのだから、食べてもらいたい気持ちはある。
「いや、いい」
声は、素っ気なく返したが、
「……酒は貰う」
と、後に付け足した。
それきり、声は消えてしまった。呼びかけてみても、何の応答もない。
住職は立ち上がり、部屋の内外を調べてみるが、何者の痕跡も発見出来なかった。
「んっ?」
終わった、ということだろうと解釈し、部屋を片付け始めて気付く。
回向の側の膳に置いてあった、酒の入った徳利が空になっていた。料理は全く減っていない。
「ははっ……ははははは」
住職は、誰もいない部屋で一人、哄笑する。
「なるほど、これが〝回向〟か。ははははは!」
仏教語のそれとは違う、知っている者にとっては独自の意味を持つ言葉を口にし、住職は虚空に向かって笑い続けた。
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