0-3


 屋上の階段から下った先に、俺の目的地とする場所はあった。


 向かった先というのは、特別教室棟に設置されている物理室のことである。普通教室等に置かれている生徒会室からはだいぶと距離が離れており、こうして屋上からの帰りがてらでしか寄る気にはならない場所。


 生徒会室ばかりにこもっていると、どうしたって息苦しさに包まれてしまって、いろいろな行動が制限されてしまうような感覚に陥る。そんな張り詰めた空気から逃れるために屋上に逃げることが多いのだけれど、そのついでくらいじゃないと、物理室に寄る気にはならなかったりする。


 屋上には風があった。景色があった。すべてのものが小さく見えてしまうような、そんな陶酔感に溺れることができた。


 そんな屋上に対して、物理室には何もない。一般的な教室というわけでもないけれど、置かれているものは実験用の音叉であったり、もしくはアンティークとしての役割しかないニュートンのゆりかごであったり。ともかく、屋上以上に息抜きができる要素というものはなかった。


 それでも、行かなければいけない理由があるから、一応は覗いてはみるのだけれど──。


「──遅かったですね」


 空いていたドアからちらっと顔をのぞかせれば、それになぜか気づいたらしい彼女から、そんな不躾な声がかかってくる。


 開口一番の言葉にしては、どこかとげのあるような声音だと思った。


 黒髪の短髪、目にかからないほどの長さをしているから、彼女の瞳はよく覗ける。そんな風に瞳に視線を移しては見るものの、あからさまな敵意というか、不満そうな雰囲気を孕ませたような視線を俺に返してくる。


 俺はそれを誤魔化すようにしながら笑顔を浮かべた。


「すいません、生徒会室の仕事がなかなか片付かなくて」


「……屋上から下ってくる姿見えましたけど」


「ずっと同じ仕事をしていたら息苦しいじゃないですか。だから息抜きですよ、息抜き」


 俺の言葉に、彼女は「そういうことにしておいてあげます」と返してくる。明らかに不貞腐れているような雰囲気を彼女は醸し出しながら、これでやりとりが終わったことを示すように、俺へとむけていた睨みをすっと逸らしていく。


 そうしたかと思えば、俺が来る前までやっていたらしい作業(課題だと思う)に戻っていくので、俺はそれをぼんやりと見送りながら、とりあえず来たということで物理汁のほうへと入っていく。


 俺は、適当に物理室の空いている席に座ることにした。





 彼女の苗字は伊万里である。下の名前は京子。この物理室を拠点として行われている科学同好会の会長であり、俺の数少ない知人である。


 彼女に対して知人という言葉を使うのは、友人というほどには仲が深くなく、他人というほどに距離は遠くない。俺が好んで話しかけるくらいの関係値。彼女もそれに相槌を打ってくれるような関係性だから。


 きっとこの関係性が変わることはこの先もないだろう。


「それで、部員募集の進捗はどうですか?」


 俺は、とりあえず分かりきっていることなのに、一応と伊万里のほうへと声をかけてみる。


 ……こうして営まれている科学同好会ではあるものの、活動の上では人数が少なすぎるということで、同好会結成当時から部員を募集していたりする。


 別に俺自身は科学に興味なんてないし、なんなら文系に寄っているような人間なので、そこまでこの同好会というものにやるきはないものの、伊万里に関しては違うらしく、熱心に募集活動に励んでいたりする。


 ここ最近で言えばポスターの作成やビラ配り。俺も人のことは言えないけれど、それでも上手いとは言えないくらいのイラストを描いて、彼女は早朝に生徒へ手渡していたりする。なお、その活動は生徒会で取り締まられることになってしまい、そうして俺と彼女との間にある空気は少しだけ悪くなっているのだが。


「見ての通りですよ」と伊万里は言った。


「この時期、だいたいの人が部活動には加入するなり、帰宅部として過ごすなりを決めている中、今から科学部に入ろう、だなんてやる気に満ち溢れている人はいません」


「科学部じゃなくて、科学同好会です」


「うるさいですねぇ……。揚げ足をとらないでくださいよ」


「……それは失敬」


 俺が彼女のそんな様子に苦笑すると、彼女はまた不機嫌であることを示すように眉をしかめて、そのうえで、ふん、と不貞腐れたような声を出す。


 子どもか。


 そんなことを突っ込みたくなってしまうけれど、流石にそれをしてしまえば、尚更伊万里の機嫌は斜め方向に一直線へと進んでしまうだろう。それは面倒くさいので、からかいについてはここまでにしておく。


「それで、今日の活動内容は?」


「さあ? 適当にお茶とかでいいでしょう」


「……そうですか」


 俺は彼女の言葉の通り、本当に適当だな、と心の中でぼやくことしかできなかった。



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