1-9
昔から朝起きた時、一日の最初に家の中で顔を合わせるのは、まず間違いなく母さんだった。
「あらあら時子。おはようございます」
「あー、おはよう母さん」
例に漏れず、今日も台所にて母さんと一番目に鉢合わせをした。どうやら朝ご飯を仕込んでいる様子。因みに何か変わった事があると、あらあら、と言うのが母さんの口癖だ。
「外に出ていたの?」
恐らくテーブルに置いてあったメモ書きを見ての推察だろう。牛乳を持っていったから外に居るのだろうと。うん、その推察は見事に大当たりだ。
「うん。ちょっと体操とかしにね」
「体操?」
首を傾げて母さんは訊く。
「ラジオ体操」
「ああ」
思い至った、という感じで。そう、私ならそんな事もやりかねないと。
「折角のお休みなんだから、もう少しゆっくり寝ていても良かったのにね」
小さく笑みを見せながら、母さんは言った。
そう、折角の休みで久しぶりの実家に居る訳なんだから、もっとゆったりと過ごしていてもいい筈、なんだけど。
「鶏頭なんだよ私は」
何気なく言っておいて、でもよく考えるとこれじゃあ私が色々と忘れっぽい馬鹿っ子って言っているみたいじゃないかと自己嫌悪に陥り掛ける。いや勿論そんな意味で言ったんじゃなくて、鶏みたく早く起きる頭なんだと言いたかったんだけど。そんなちょいとした失言を聞いてか、母さんはくすくすと笑った。
「笑わないでよ」
「いいじゃないの。相も変わらずの面白い子なんだから」
実の娘に対して、面白い子っていう表現もどうかと思うんだけど。それとも、その言葉を変な意味に捉える私の頭もどうなのかっていう事かな。素直に褒め言葉として受け取っておこう。
「男の二人も、まあ相変わらずか」
居間の方をちょいと覗いてみても、どこにもその姿は見当たらない。恐らくはまだ自分達の部屋の、布団の中で眠りこけている筈だ。
我が家の男共は、二人揃って朝に弱い。朝日が昇ると共に女達が起きて、朝ご飯が出来上がる頃に父さんと八幡がぼーっとした感じで起きて来るんだ。そうした習慣は今も変わっていないらしい。
「だらしのない連中だねえ」
「ええまったく」
二人してくすくすと笑い合う。そうしていると、次第にご飯の炊けるいい匂いがして来た。もうすぐあの二人も起きて来るんだろう。
「そろそろ朝ご飯の頃合ね。時子、お手伝い願える?」
「そりゃあ勿論」
女二人で、家族みんなの分のご飯の用意をする。
これが、この家で女の地位が高い理由だったりするんだ。
――暫くして。
「あー……おはよう」
「……おはよう」
気力の感じられない、気だるそうな声、掛ける二。それが台所に突然聞こえて来た。
「おはようございます二人共。ご飯はもう出来てますよ」
母さんが、ゾンビみたいにのったり歩いて台所にやって来た男二人、弟と父さんに声を掛ける。
普通に起きたというより、寧ろ食い物の匂いにつられてやって来た、って感じだけど。するとますますゾンビみたいじゃないかこの二人。
「――ぶふっ」
想像して、ちょっと可笑しくなって噴き出してしまった。
「どうしたんだよ姉ちゃん」
「風邪でも引いたのか時子」
見当違いの疑問を口にする男共。
それが余計に、私の笑いのツボに入ってしまう。
「時子、お皿の用意をしてくれる?」
くっくっくと、下を向いて含み笑いの止まらない私に、母さんが指示を出す。
「……大丈夫かよ姉ちゃん」
「だ、だいじょぶだいじょぶ」
弟、八幡の心配をよそに、私は必死に気を落ち着かせて、戸棚からみんなの食器を取り出していった。
その時には、父さんは既に居間のちゃぶ台の前に腰を下ろして、テレビのニュース番組を見ていた。マイペースというかなんというか。
「手伝おうか?」
八幡はそう言ってくれたけど、もうやる事は殆どないな。盛り付けも今やっているし、出来上がったご飯を居間に運んで貰うくらいしか。
「じゃあ、これ持って行って貰える?」
思ってた事を、母さんが代弁してくれた。
「了解ー」
そうして八幡は、ゆっくりと、まだ眠気が覚めきっていない様子で出来上がったご飯を持っていく。
眠いといってもな。せめてこれくらいは働いてくれないと。
久々の実家での朝ご飯は、お米とお味噌汁、焼きさばと納豆だった。
おいしゅうございました。
・
さて朝ご飯も食べ終わって、外に向かってお出掛けしようと思ったんだけど。その前に一つ、やるべき事があったんだ。これを忘れると、ここに帰って来た理由の三分の一くらいが意味のないものになってしまう。
それは重要な事だ。我が愛しの弟の為に。
「おーい八幡よーい」
家の二階にある、弟、八幡の部屋のふすまを、返事も待たずにがらっと開ける。
「んあ、なんだよ姉ちゃんいきなり」
八幡は部屋の中で特に何かをしてる訳でもなく、布団に仰向けで寝っ転がっていた。まだ寝るつもりなのかねこの弟は。
「ちぇっ、なんだよ隠れてえっちい本でも見てるのかって期待してたのに」
「いやこれ旅行みたいなもんだしさ。外出先でえろ本持って来てるってなんだよ」
それもそうだよな。以前八幡の部屋に突然突撃しに行った時にも、えろ本の類は見付からなかったし。もしかして、性的なものに興味はないんだろうか。それはそれでちょっと問題がある気がするけど。
まあ、あの部屋ではそんなものよりもっと凄いものを見付けちゃった訳なんだけどな。えっちい本とかの方がまだましだろうと思ったり。
「で? 一体なんの用で?」
「ああ、そだそだ。あのさ、昨日あんたにフロッピーディスクあげたじゃない?」
「ああ……俺の為にお話書いてくれたってやつ?」
八幡が起き上がって、自分の隣に置いてあったリュックサックの中を漁る。その中に昨日渡したフロッピーディスクがあるんだろう。
「そうそう。で、読む手段にこれを貸してあげようってね」
戸の裏に隠すように置いていた、ノートパソコンを持って来る。長方形の黒い色をした、薄い板のような無骨なデザイン。その端っこにはマウスの線が繋いである。こういうシンプルなのは結構好きだったり。
「おお――これが噂の」
感嘆の声を上げる八幡。噂のって、今時そこまで珍しいものでもないと思うんだけどなあ。確かに値は張る一品だけど。
「貸してくれるの?」
「でなきゃそれ見れないでしょ」
全くの当たり前の話。このディスクの中身を見て貰わない事には、折角書いてあげたお話が勿体ないじゃないか。こうして会える機会なんて、今では滅多にないんだから。いや別に八幡の部屋が私の住んでる所からあまりにも遠いって訳じゃないから、会いに行こうと思えば行けない距離でもないんだけど。
それはめんどい。以上。
部屋の中にあるちゃぶ台の上にノートパソコンを置いて、画面となる蓋を開く。八幡は私の後ろで、リュックから出したフロッピーを片手に待機中。電源コードをコンセントに繋いで――、
「さあその中身を開いて見るのだー。あんたのもしも的な可能性が、その中には詰まっているぞー」
八幡の方に振り向いて、両手を開いて、大仰に言う。
「……どうやって?」
「え?」
なんだか、耳を疑うような台詞が聞こえた気が。
「なんだって?」
もう一回、聞き直してみる。
「いや、これパソコンでどうやって見るの?」
……そこまで解らんのか我が弟よ。機械オンチってレベルじゃねーぞ。今時のその年齢だと、ファミコンとかのゲームスキルがあれば、こんなパソコンにだって色々適応出来るとは思うんだけどなあ。
「仕方ないなあ。ここはこのねーちゃんがしっかりとエスコートしてあげようじゃないの。近う寄りなさいな」
手招きする。そうすると言われた通り、八幡は私の隣に膝を付く格好で見守った。
それを確認してから、ちゃぶ台の上にあるノートパソコンの電源ボタンを押して、いざ起動。ディスプレイに画面が映る。
「おお――」
感嘆の声二回目。ってボタン一つ押しただけで感動するのかよ。まだスタートラインとか入口とかに立ったばっかりの状況だぞ?
そこで少し経ってから、パソコンの画面がデスクトップ画面に切り替わる。それからパソコンにフロッピーをセットして、その中の、例のテキストデータの詰まっているフォルダを開く。
「よし、準備完了。流石にここから先は解るでしょ」
「うん大丈夫」
「変なとこ見るなよー。まあロック掛けてるから簡単には見れないだろうけど」
「解ってるって」
「マウス端っこまで行っちゃって、これ以上動かないんだけどー、とかいう小ボケもなしでね」
「そこまでアホじゃないっての」
どうだかね。パソコンの起動方法も解ってない男が。
「まあ、無事に全部見て貰えるように祈っとくわ。じゃあ、ちょっくらねーちゃんは出掛けて来るよ」
ノートパソコンに向かい、テキストデータを読み始めた八幡を残して、私はこの部屋を出て行く。
「あれ、どこ行くの?」
出る直前、八幡から呼び掛けられる。戸の所で私は立ち止まって、顔だけ振り返って八幡を見る。
「私は私で、見なきゃいけないものがあるって事よ。じゃーねー八幡、しっかりお話読んどきなさいよー」
そうして、今度こそ止まる事なく、私は八幡の部屋を後にして自分の部屋へと向かった。
事前に用意していた、簡単な荷物。それらが詰まったスポーツ鞄を持ち上げて肩に掛ける。
準備完了。そうして玄関へと赴いて、靴を履く。
「じゃあ、行って来まーす」
誰かさんに向かって、一声掛けて、外に出て。鍵を掛けて、いざ出発――。
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